昨夜少し遅めの夕食をとっていると、先日お世話になった庭師から電話があった。話を聞き始めると用件が中々出てこない。取り留めの無い内容で、案の定お酒が入っていた。用事は特に無く、今週田舎に来ると私に聞いた家内の声を聞きたかっただけという。どうも話し相手を探して、私を思い出したらしい。私とは数度会っただけなのだが、気に入ってくれたようだ。
奥さんが病気だという彼が電話を掛けてきた気持ちがよく分かる気がした。というのは90年代に米国に単身赴任した時、初めは異国での独身生活を楽しんだ私だが、暫く経つと孤独な暮らしの辛さが身に沁みるようになった。特に休日など広い家の独り暮らしは最悪だった。バックパッキングやバドミントンで気分転換することもあったが、季節によっては本当に何もすることが無かった。
そうなると普段はありえない発想をするようになった。平日の夜や休日に定期的に発生する支払い等の事務的な電話でさえ、喋る相手がいるというだけで下手くそな英語で何とか相手と会話を続けようとした。貴重な機会だった。流暢とはいえない英語でも、単純なことを繰り返しトライするとそれなりの成果が出てきた。
電気代等の生活費の支払いの電話を毎月繰り返して、どう言えば相手に受けるかコツが少し分かった。例えば最初に本人確認に社会保険番号を聞かれると、「番号を一々覚えるには年をとりすぎた」とか言って相手のクスクス笑いを待って話を始めた。最初ほぐれるとその後雑談に付き合ってくれることも結構あった。お前は面白い奴だといって早口でまくし立てられ、何のことか分からなくなったこともあるのだが。
コールセンターの受付が雑談に乗ってくれるかどうか、経験では米国のほうが日本より圧倒的に確率が高い。日本の方がマニュアル重視するように感じる。当時必要だった帰国便のリコンファメーションをした時、受付嬢のいるコールセンターの場所がデンバーと聞き出し、天候から始まってコロラドの観光スポットまでおよそリコンファメーションに関係無い会話をしたことがある。1分もかからない事務的な確認が10分以上話せて私的には大成功だった。
このワザが利いて庭師に電話させたのかもしれない。田舎暮しの今は庭師だけではない、私もまた新たな「孤独の境地」に入りつつある。部屋にゴキブリが出てきても気にしなくなった。仲間ともペットとも思わないが、かといって殺虫剤を持って追いかけて殺すは何となく忍びない。ゴキブリが羽を広げ飛ぶと一瞬ギョッとするが、「大人してくれよ」程度の気分だ。
勿論ゴキブリだけではない。赤ちゃんや幼児を連れた母親には殆ど例外なく声をかける。子供を褒められた母親(父親も)は例外なく警戒を解いて話をしてくれる。農夫なら仕事に精が出ると感嘆して気になることを聞けば良い。測量中の役人なら彼の得意分野を推測して自分の疑問を聞けば良い。そうは外れない、ゴキブリで無い限り会話は続く。
これぞまさに「孤独の境地」、ここまで来たかという気分だ。決して「孤高の人」とは言わないが、私なりの孤独に耐える術がここまで進化したとでもいおうか。随分チンケな業だ。本やテレビだけでなく、会話で知的レベルを高めることに渇望している私の裏返しかもしれない。■