昨年に引き続き国土調査(国調)が始まった。今年は市役所や調査を請け負った民間調査会社に予め連絡をいれて、私が田舎にいる間に立会いを実施できるよう調整してもらった。今年は実家の裏山を含む我が家の最も大きな山林が対象になる。先月末に先ず隣の集落の山林にある曽祖父名義のお墓の確認から始まった。
曽祖父の名義という事は、過去100年間祖父や父、私の三代に亘り相続しなかった、つまり誰も知らなかったということになる。この辺はかなり昔から人が住んでおり、現在法務省にコンピュータ登録されている地図も元を辿ると古地図からと聞いた。今回の国調で山林の所有地境界を調べると、その地図にすら登記されて無い無縁仏のような墓が出てくるのも珍しくないという。
だが、上記のお墓は曽祖父の父の名前が彫ってあるから間違いない。円柱型で上側が大きく下に向かって細くなっているお墓で、明治5年正月没とある。江戸時代から明治初期の我が家のお墓は実家の直ぐ横にあり、当然彼のお墓もちゃんとある。形は極普通の長方形だ。
何故お墓が二つもあるのか、当時分骨の習慣はあったらしい。そのお墓の周りには石を積んだだけの墓が2-3箇所あるがそれは何処のものか、調査員は境界を決める為に私に聞いた。だが、お墓があることすら知らなかった私がそんなこと分かるはずが無い。
とりあえず先祖の名前が掘ってある墓石だけということにした。何故分骨したか経緯が分れば何か分るかもしれないのだが。曽祖父が約束していた土地を集会所として母が寄付したのがこの集落で、かつて何か関係があったはずだと思うが、詳しい経緯を知っている人がないか調べた。
このお墓は誰のものとも分からず近くのOさんが、親から引き継いで50年以上ずっと守ってくれていたという。Oさんに聞くと何故かは知らないという。お墓の近くに同級生の家があり、90歳を越える父君が健在なので分骨の経緯を聞いて見たが何も分からなかった。何しろ明治5年のことだ。
郷土史の研究をしている年配の知り合いの方も何も知らなかった。最後にお寺の住職に聞いたが、やはり何も分からなかった。Oさんはお墓の持ち主が分かったからには、これからはヨロシクと言われ、私は慌てて東京暮しなので引き続きお墓の面倒を見てくれとお願いした。
母を見舞った折に聞いてみた。彼女もお墓の事は聞いたことが無い、和尚さんは先代が亡くなるまでは住職じゃなかったので知るはずが無いという。これで明治の初めに祖先が何故お墓を二つ作った理由を調べるのを諦めた。手づるが無くなった気分だ。
Oさんにお礼の菓子折りを持っていくと言うと、お礼はお酒を持てと母は言う。改めてOさんの家にお酒をもってお礼に伺った。彼女は引き続きお墓を見るけど、田舎に来たときはお線香を上げに来てくださいねと釘を刺された。当然だし答えは決まっているが、なんとなく気が重い。一度は家族を連れてお墓を見せておかねばと思った。
どういう法律か或いは習慣法なのか知らないが、お墓は土地の売買の対象にならないという。即ち、旧所有者がそのまま所有することになるらしい。まだ先祖を辿れる場合は良い、山林のあちこちに登記されて無いお墓、登記されていても子孫が誰か分らない無縁墓が結構あるという。国調は基本的には全ての所有者と境界を確定させなければならない。大変だ。■