かぶれの世界(新)

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

新・国調が行く(1)

2011-10-21 16:24:36 | 日記・エッセイ・コラム

昨年に引き続き国土調査(国調)が始まった。今年は市役所や調査を請け負った民間調査会社に予め連絡をいれて、私が田舎にいる間に立会いを実施できるよう調整してもらった。今年は実家の裏山を含む我が家の最も大きな山林が対象になる。先月末に先ず隣の集落の山林にある曽祖父名義のお墓の確認から始まった。

曽祖父の名義という事は、過去100年間祖父や父、私の三代に亘り相続しなかった、つまり誰も知らなかったということになる。この辺はかなり昔から人が住んでおり、現在法務省にコンピュータ登録されている地図も元を辿ると古地図からと聞いた。今回の国調で山林の所有地境界を調べると、その地図にすら登記されて無い無縁仏のような墓が出てくるのも珍しくないという。

だが、上記のお墓は曽祖父の父の名前が彫ってあるから間違いない。円柱型で上側が大きく下に向かって細くなっているお墓で、明治5年正月没とある。江戸時代から明治初期の我が家のお墓は実家の直ぐ横にあり、当然彼のお墓もちゃんとある。形は極普通の長方形だ。

何故お墓が二つもあるのか、当時分骨の習慣はあったらしい。そのお墓の周りには石を積んだだけの墓が2-3箇所あるがそれは何処のものか、調査員は境界を決める為に私に聞いた。だが、お墓があることすら知らなかった私がそんなこと分かるはずが無い。

とりあえず先祖の名前が掘ってある墓石だけということにした。何故分骨したか経緯が分れば何か分るかもしれないのだが。曽祖父が約束していた土地を集会所として母が寄付したのがこの集落で、かつて何か関係があったはずだと思うが、詳しい経緯を知っている人がないか調べた。

このお墓は誰のものとも分からず近くのOさんが、親から引き継いで50年以上ずっと守ってくれていたという。Oさんに聞くと何故かは知らないという。お墓の近くに同級生の家があり、90歳を越える父君が健在なので分骨の経緯を聞いて見たが何も分からなかった。何しろ明治5年のことだ。

郷土史の研究をしている年配の知り合いの方も何も知らなかった。最後にお寺の住職に聞いたが、やはり何も分からなかった。Oさんはお墓の持ち主が分かったからには、これからはヨロシクと言われ、私は慌てて東京暮しなので引き続きお墓の面倒を見てくれとお願いした。

母を見舞った折に聞いてみた。彼女もお墓の事は聞いたことが無い、和尚さんは先代が亡くなるまでは住職じゃなかったので知るはずが無いという。これで明治の初めに祖先が何故お墓を二つ作った理由を調べるのを諦めた。手づるが無くなった気分だ。

Oさんにお礼の菓子折りを持っていくと言うと、お礼はお酒を持てと母は言う。改めてOさんの家にお酒をもってお礼に伺った。彼女は引き続きお墓を見るけど、田舎に来たときはお線香を上げに来てくださいねと釘を刺された。当然だし答えは決まっているが、なんとなく気が重い。一度は家族を連れてお墓を見せておかねばと思った。

どういう法律か或いは習慣法なのか知らないが、お墓は土地の売買の対象にならないという。即ち、旧所有者がそのまま所有することになるらしい。まだ先祖を辿れる場合は良い、山林のあちこちに登記されて無いお墓、登記されていても子孫が誰か分らない無縁墓が結構あるという。国調は基本的には全ての所有者と境界を確定させなければならない。大変だ。■

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東電で無ければ放射能にあらず

2011-10-19 12:17:28 | ニュース

福島第1原発の原子炉の安定した冷温停止(ステップ2)を来年1月から年内に前倒しすると、政府と東京電力は17日発表した。前倒しの理由は圧力容器底部の温度と敷地境界の放射線量の2条件が暫定目標を達成したからと伝えられている。

4月17日事故収束の工程表を発表した時、NHKも含めメディアは計画の実現性に対する疑いを散々言い募り、これでは計画の信頼性をそこない視聴者に不安を与える恐れがあると私は感じた。今回前倒しの発表についてマスコミは淡々と発表内容を伝え、更に解決すべき課題の多いことを強調して終った、と私は感じた。民放のニュースバラエティに至っては発表を殆ど無視し、世田谷のホットスポットの大騒ぎ報道に忙しかった。

だが、あれだけ工程表の実現性に疑いを示し攻撃したのなら、その困難な目標を達成したことに対する賞賛が聞えてきても良さそうだが、私の耳には全く聞えなてこい。この報道姿勢は「東電憎けりゃ社員も憎い、成果も無視する」という偏見を感じる。理由が何であれ、成果とそれに関る人や組織をキチンと評価しモチベーションを与え、将来の更なる展開を期待するのが成熟したメディアや社会の姿だと思うのだが。チョット哀しくなる。

放射線についても世田谷の騒動は、夜光塗料に使うラジウムが原因だと分かるとバブルが萎んだ様になった。週刊新潮は年間30mSを50年浴びた女性はガンになったかと問題提起した(と思う、中吊り広告を見ただけで読んでない)。40-50年代に凄い数の核実験が実施され世界中が放射能汚染された時と、今回の福島原発事故と汚染度や健康被害はどう違うのか、数字を挙げたまともな議論を全く見ない。

その理由は「東電の放射能でなければ放射能にあらず」とマスコミが思っているように私は考える。海外でも事件に対する報道の判断基準に矛盾を感じる時があるが、我国のメディアにその傾向が強いと感じる。実際よく見かける。直近で言えば、「菅首相が憎けりゃ政策まで憎い」式報道は酷かった。首相退陣後にあの政策はどうなったと聞く神経も大したものだが。

この「減点主義報道のワナ」に国中が陥るとリーダーシップは生まれ難い。いくら国民の知る権利を主張して野田首相にぶら下がり会見を要求しても応じられないだろう。成果は無視され減点しかないのだから。メディアは自らが作った偏見を捨て、成果をきちっと伝える勉強をしたらどうか。そこで始めて健全な判断が出来るようになる。どちらが次世代の子供達の中から立派なリーダーを期待できるか感じてほしいものだ。■

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

異説・誰がユーロを救うのか

2011-10-18 23:35:05 | 国際・政治

昨日の日本経済新聞のオピニオン欄で岡部氏は「ユーロを救うのはユーロ圏自身」であり、それはドイツであるとしている。その根拠はドイツがユーロ導入で最大の受益者となったからだという。端的に言えば沢山儲けたんだからお返しに金を出せということだ。只ではない、儲けたら余計に所場代を出せと。その論理はもっともらしいしいが、本音が感じられず他人事のように私は感じる。もっと泥臭い本音で私なりの解釈を紹介したい。

ユーロ救済の現実論としては確かに金持ちドイツしかできない相談だが、となればドイツ国民がギリシャに巨額の支援をメルケル首相に許すかどうかにかかっている。ユーロが崩壊すればドイツも大きな損失を被ることになるのはドイツ人も良く分かっているが、現状ではどうにも納得できないという心境だと思う。ドイツ人は休みもとらず一生懸命働いて沢山利益を得た罰として、自国の銀行が被った巨額損失を自分が払った税金で賄うことを強いられることになるからだ。

メルケル首相はリーダーシップ云々されやっと腹を決めたが最終的な決定ではない。今後も危機は続くことを考えれば、ドイツ人が継続してユーロ救済のスポンサーとしての立場を認めるか、国政選挙や地方選挙のたびに問われる。大負けすればメルケル政権は窮地に陥り、ユーロ救済は不透明になる。そういう意味では、「ユーロを救うのはドイツというよりドイツ市民」と言ったほうがより適切のように感じる。疑心暗鬼になった市場はそこまで見ている。

実は先週までは「誰がユーロを救うのか」の問い掛けに対する答えはスロバキア議会であり、スロバキア国民であった。たった百万そこらの有権者の意向がユーロの首根っこを押さえていた。欧州安定基金拡大は全加盟17カ国の承認を必要とし、スロバキアが最後の国だったからだ。インタビューに答えて市民が「自分たちよりよい生活をしているギリシャに何故支援をしなければならないのか」と答えているのは、ユーロのあり方に対するまっとうで正当な問い掛けでもあった。

それが日本国内の問題ならそんな馬鹿なことは起こりえない、政府も国民もそれ程馬鹿でないと思うだろう。だが、果たしてそう言い切れるか。実は今世界のあちこちで問いかけられている形を変えた質問なのだ。我国でもそういう例はいくらでもある。最も分かり易いのが年金問題だ。世代としてみれば、我国最大の資産保有する老人世代は、最も貧しい(失業率が高く資産も少ない)若年世代からカネを出させ保険金を得ている。幸いなのは決意さえすれば日本はまだ方策(例えば増税)が残っていると市場は見ていることだ。そして南欧諸国は何もない。

結論を急ぐと、欧州が手際よく抜本的対策を採れずズルズルと問題先送りをしてきたのは、結局のところ「欧州を救うのはギリシャ人」であり、彼らが欧州人としての当事者意識を持って危機に取り組んでこなかったからだと私は考える。ギリシャ人の覚悟を実行で示す以外に、他の16カ国が納得して実行できる(血を流す)抜本的対決策はない。だが現状のままでは欧州は3ヶ月ごとに危機回避の対策を小出しに打って行くことになる。市場もそう感じてG20後も不安を払拭できなかった。

昨日の日経平均は先週末の楽観的見通しを受け一時8900円台をつけて終ったが、続いて始まったNY証券市場ではダウ平均が247ドル安と大幅反落し、その流れを受けた。先週のG20は欧州債務問題が集中討議され、欧州安定基金(EFSF)拡充を支持する一方で、欧州域内銀行の厳格なストレステストと資本増強を求めたが具体策に欠けた。G20宣言の効果はたった1日しか持たなかった。ドイツ高官の不用意な一言で市場の雰囲気は悪化した。やはり鍵はギリシャ市民だ。

マスメディアも政治家も自国民に危機の当事者意識を持てとは言えない。お金を支払ってくれるスポンサーであり、選挙で投票してくれる人の問題とは口が裂けてもいえない。どうもこれが世界的な民主主義国の問題先送り構造のような気がする。世界が失われた10年モードになりつつある。日本はその先進国だが解を見つけられなかった。欧米の英知はどうだろうか。それでも中国やロシアの方が良いとは思わないが。■

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高知駆け足旅行記(2)

2011-10-15 18:16:30 | 旅行記

一路西に向かう

翌朝、高知市内観光はスキップして国道56号線を西に向かった。1時間余りで須崎市に到着し道の駅で一休みした。ここでも真空パックした鰹のたたきやカツブシ等の海産物の展示が店内を圧倒していた。軽く朝食を頂く積りだったがまだレストランが開いてなかった。

朝食代わりに柏餅を買って表に出ると、私の実家の近くにあるショッピング・モール名の入った見慣れた送迎バスが停車していた。運転手を見つけ聞くと農協の視察だという、口ぶりでは半分観光を兼ねている感じだった。なんだか怪しいな。山間部の道を通って来たそうで、我々の行く四万十方面とはルートが違い参考にならなかった。

暫く休み更に西に向かうと、途中四万十町とか黒潮町とか聞きなれない地名を通り過ぎた。四万十町は四万十市とは全く別の町と直前にわかり一気に通り過ぎた。四万十市も昔中村市と近郊村が合併して最近出来た町名だ。約2時間半かけて予定通り11時過ぎに四万十市に着いた。

関東風天然うなぎ料理、味は別次元

56号線に続く橋を渡る手前で右折して市街地に向かい、橋を渡り数分で天然うなぎの看板を掲げる一風亭という店を見つけ迷わず飛び込んだ。昼前なのでチラホラお客がいるという感じだった。半個室の畳部屋に通され、天然うなぎの蒲焼定食と普通のうな丼定食をオーダーし食べ比べてみた。というと格好良いが、天然うなぎは値段が倍近いので節約したのも本音。

養殖ものは食べ慣れた味だった。決して悪くない。家内に勧められて天然うなぎを一口食べて、予想と全く違う食感に意表を突かれた。ちょっと香ばしく凄く美味しいのだが、サクサクとした食感で天然うなぎ特有の歯応えというか「ねばり腰」感がない。子供時代実家の近くで獲った川うなぎと全く違う味だった。美味しいのだがこれは「ザ・天然うなぎ」じゃない。

勘定するとき感想を聞かれて答えると、初めてのお客に硬いとよく言われ蒸すようになったという。妥協したんだ。理由は分かったが、かといって関東風の蒲焼とも違う、チョット粉っぽい感じがした。文句言いたいかと聞かれれば、そうでもない。香ばしい味はとても美味しくユニークだった。お勧めかと聞かれれば、試しに一度食べてみたらと答える。値段に見合う味かは好みの問題だ。

風景と清流あっての沈下橋

店主に道順を聞き観光案内所に行った。市街地方面に右折しないで56号線を真っ直ぐ進み最初にここに来るべきだった。橋を渡ると左手に見える。ここで観光スポットなどの資料や地図を入手し食事どころなどの情報を聞くと、効率的に時間を使って四万十川を楽しめる。といっても田舎生活に馴染んだ私には四万十市を特別なところではない。時間があれば歴史に興味がある。

我々はもう余り時間が無いかったせいもある。家内が明日帰京する予定なので、夜暗くなって実家に戻る無理な日程はつらい。なので1時間で済ませる四万十観光コースを勧めて頂いた。勧められたのは、沈下橋を見ながら四万十川を北上し、江川崎から宇和島経由で大洲の実家に戻るところまで考えてくれたルートで、私達の都合にピッタリ合った。

教えられた通りもと来た道を戻り市街地を抜けて441号線を北上したが、誤って四万十川沿いの狭い県道340号線を走ることになった。この道も目的の佐田沈下橋に向かうが、センターラインもガードレールも無くすぐ左は崖だ。たまに対抗車とすれ違う時は道幅の広いところで待ち、曲がり角は対向車が来ないかヒヤヒヤした。

佐田沈下橋は私の実家の近くにもある低い橋と同じ特別珍しいものではなかった。雨が降り水位が上がると橋が水面下に沈むのが名前の謂れだ。パンフレットの写真のように、青空と紅葉と四万十の清流の組み合わせが一体となって素晴らしい景色になるのだろうが、生憎の曇天だった。

一路北に向かう

ここからは家内の運転に変わった。最初は彼女の運転と方向感覚は調子が出なかった。川沿いの県道から国道を走ったが、相変わらず狭くてガードレールの無い道が続く。彼女じゃなくても怖い。後ろからトラックが迫って来たので先に行かせ、後から付いて行くと気楽に運転し始めた。

対向車が見えにくい狭い道でも平均50-60km/hで走るトラック運転手に付いて行くだけで大変なのだが、そうしているうちに家内の運転も徐々にアグレッシブになった。直ぐ下に崖が見える道をぶっ飛ばす車の助手席に座る私のほうが少し怖くなった。

徐々に道幅が広くなり暫く走ると江川崎の手前数kmで、赤いフラッグが見え停車した。交通整理のおじさんが来て40分待てという。拡幅工事の間は交通遮断するのだという。観光案内所で言ってくれなかったと家内とぼやき合ったが、その間にも後ろに車が連なっていく。

だがお喋りは人を助ける。40分の前半は近所の住人と、後半は30年代に東京麹町に住んだという人と世間話をし、川面を飛び跳ねる鮎や河川敷の親子を眺めていると、あっという間に交通再開した。その後は順調に車が流れ四国半周旅行を終え無事実家に戻った。

蛇足

四万十でガソリンを給油した。四万十市は四国の端の田舎だが高知市内と変らない価格でリットル137円だった。県境を越え愛媛県に入ると144円だった。翌日家内を松山空港に送った時、都市部でも140円台だった。この差は何故?看板は石油メジャー名だが扱っている地場の業者が、地域独占的なコントロールして起こる価格の歪ではないかと推測する。■

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高知駆け足旅行記(1)

2011-10-14 22:41:25 | 旅行記

最短・大回りルートを行く

日曜日に地元のバドミントン大会に参加した。最初のゲームをフルセットで落として調子が狂い、次のゲームもあっさり負けた。もう予選トーナメントを勝ち抜けることは明らかなので、前日から帰郷している家内に旅行に出掛ける準備を早めて欲しいと電話した。まだ1時半だった。

最後のゲームにやっと勝って予選を終えると、挨拶もそこそこに実家に戻ると既に家内も到着して荷物を用意して待っていた。シャワーを浴び洗濯を済ませ、予め準備していた旅行支度に早替りして車に飛び乗った。大急ぎで路地裏の近道を走り高速に乗ったのは3時頃だった。

バドミントンの試合で時間の余裕が無くなると予想したので、事前にネットで最短コースを調べていた。大洲から高知に行くには高速道路を利用して松山・新居浜・四国中央経由で行くのが最短で3時間という。四国を半周するような大回りルートで180km余りの距離だが、高速道路の威力を利用して遅い出発を取り戻すことにした。休日半額割引も利用できた。

3連休中の中日にしては意外に交通量が少なく、松山以降は2車線で突っ走ると5時過ぎには高知に着いた。2時間余りのドライブだった。チョット飛ばしすぎたかも。バドミントンで勝ち進んだ場合最悪8時着を覚悟していたので、明るいうちに目的地についてホッとした。車を出ると南国高知の空気は少し肌寒さを感じた。47年ぶりの高知だ。

期待通りの鰹のたたき

宿泊したのは高知市の南側にあるホテル日航旭ローヤルというひときわ高いビルで、窓から遠く太平洋まで見渡せる夜景は素晴らしい。楽天の会員割引を利用して予約を入れ、2人で素泊まり14400円だから良い買い物と自賛したが、家内は部屋が狭くビジネスホテルと変わらないとバッサリ。まあ、そう言われればそんなところだったが。でも夜景は悪くなかった。

今度の高知旅行の目的は、本場の鰹のたたきと四万十の天然うなぎを食べること。学生時代に友人と四国一周旅行した時はまだ子供だった。中村市(当時)の天然うなぎは知らなかったし、お世話になった先生のお宅で出された鰹のたたきを生魚は食わないと焼いて頂いた。この機会にこの二つをクリアしなければ高知に行ったことにはならない、という積りだった。

コンシェルジュに候補のお店を紹介してもらい、ハリマヤ橋から繁華街のアーケード街・日曜市通りを歩いた。県庁所在地としては小さな町で意外に人通りは少なかった。昨年の龍馬ブームと比べると客足は減っているらしい。紹介された候補の3軒目のたたき亭というお店に入った。居酒屋風の造りだったが、家内は歩き疲れもうどこでも良いという感じだった。

カウンター席が賑やかそうで座りたかったが、私達は入り口近くのテーブル席に案内された。飲み物をオーダーした後、家内はスタンダードの鰹のたたきを頼んだ。私は食べたことの無いうつぼのたたきの写真を見て食べてみたくなった。身は堅くない、味はふぐに近い、と店員に聞いてオーダーした。鰹は一切れ彼女の皿から摘まみ頂いた。本場の味と期待した通り美味しかった。

うつぼの刺身は初めてで悪くなかったが、全国区とはいえない味と納得した。甲殻類に目の無い家内はメニューの土佐蟹という名前に惹かれた様子だが、時価が5千円と聞いて諦めた。今思い直すと食べさせてやればよかったと後悔している。代わりに土佐巻を食べたが、とても美味しかった。地酒も美味しく頂いたが、疲れた時のお酒が前立腺肥大症の引金を引いたかもしれない。

食事が終ると高知の夜は何もすることが無い。8時前後だったと思うが、ホテルに向かいハリマヤ橋を過ぎた頃から人通りが全く無くなって暗い道を戻った。それでも特別危険という雰囲気を感じさせない街並みだった。ホテルに戻ってからは疲れとアルコールで余り記憶してない、なのに熟睡できなかった記憶がある。翌日は四万十・宇和島経由で実家に戻る予定だった。(続く)

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする