米長邦雄永世棋聖の逝去に伴い、谷川浩司九段が日本将棋連盟の会長に就任した。次期理事戦は今年の5月だから、それまでの繋ぎではあるが、会長職に変わりはない。
ところで「会長」といえば気になるのがその「肩書き」である。
大山康晴十五世名人は1976年12月に会長に就任したが、その1か月前の11月17日に、現役のまま「十五世名人」を襲位している。当時大山十五世名人は棋聖のタイトルを保持していたが、それはすぐ取られる可能性がある。そのとき、名人18期をはじめタイトル70数期の大山を、いまさら「九段」とは呼べないと、理事会が先手を打ったのだ(厳密にいえば、無冠時代の1973年に、「永世王将」を名乗ることを許されている)。
またこの時期、日本将棋連盟は東京・将棋会館に続いて関西にも将棋会館の建設に着手していた。寄付金集めのときに、会長が「九段」では格好が付かない…といった裏の理由もあったとされる。
では、今の谷川九段はどうだろうか。免状には「会長」名で揮毫するからいいとしても、職務では「九段」より「十七世名人」の肩書きのほうが、通りがいい。
ちなみに前会長の米長永世棋聖は1998年、A級から降級したときに、現役のまま永世棋聖を名乗った。米長永世棋聖が会長に就任するのはその5年後である。
さらにその前の会長の二上達也九段は、もともと永世称号を保持していなかった。
永世称号のほとんどは引退後に名乗るとされているが、中原誠十六世名人も現役中に永世十段を名乗ったように、現在は有名無実と化している。現在50歳の谷川九段が十七世名人を名乗ってもおかしくないのである。
でも、仮に理事会が谷川九段に、現役で十七世名人の襲位を認めても、本人は固辞すると思う。
谷川九段は若い頃、「将棋世界」や「近代将棋」で、自戦記を連載していた。そのとき大山十五世名人も登場していたが、私の記憶が確かならば、谷川九段は「大山15世」と表記していた。
当時名人といえば、中原名人か谷川名人だった。「棋界に名人はふたりもいらない」が谷川九段の持論だったのではあるまいか。だから自戦記では「15世」までで留め、「名人」まで書かなかった…と私は推測する。
その谷川九段が逆の立場になって、いまは森内俊之名人というれっきとした名人がいるのに、自分が永世名人を名乗るわけにはいかない、と思うのは当然の論理であるまいか。
蛇足ながら中原十六世名人だって、口には出さねど、自分が現役名人中にもうひとりの名人が生まれて、内心は面白くなかったはずである。だから自分が40代に名人を失ったときも、すでに大山十五世名人が亡くなっていたにもかかわらず、「永世十段」の肩書きで満足したのだと思う。
話を戻すが、谷川九段は、将棋ペンクラブ大賞贈呈式のスピーチの席でも、米長会長にお尻を向けて話をすることはできませんと、壇上の隅でスピーチをする奥ゆかしさがあった。
谷川九段が十七世名人を名乗るのは、現役引退後である、と断言する。
ところで「会長」といえば気になるのがその「肩書き」である。
大山康晴十五世名人は1976年12月に会長に就任したが、その1か月前の11月17日に、現役のまま「十五世名人」を襲位している。当時大山十五世名人は棋聖のタイトルを保持していたが、それはすぐ取られる可能性がある。そのとき、名人18期をはじめタイトル70数期の大山を、いまさら「九段」とは呼べないと、理事会が先手を打ったのだ(厳密にいえば、無冠時代の1973年に、「永世王将」を名乗ることを許されている)。
またこの時期、日本将棋連盟は東京・将棋会館に続いて関西にも将棋会館の建設に着手していた。寄付金集めのときに、会長が「九段」では格好が付かない…といった裏の理由もあったとされる。
では、今の谷川九段はどうだろうか。免状には「会長」名で揮毫するからいいとしても、職務では「九段」より「十七世名人」の肩書きのほうが、通りがいい。
ちなみに前会長の米長永世棋聖は1998年、A級から降級したときに、現役のまま永世棋聖を名乗った。米長永世棋聖が会長に就任するのはその5年後である。
さらにその前の会長の二上達也九段は、もともと永世称号を保持していなかった。
永世称号のほとんどは引退後に名乗るとされているが、中原誠十六世名人も現役中に永世十段を名乗ったように、現在は有名無実と化している。現在50歳の谷川九段が十七世名人を名乗ってもおかしくないのである。
でも、仮に理事会が谷川九段に、現役で十七世名人の襲位を認めても、本人は固辞すると思う。
谷川九段は若い頃、「将棋世界」や「近代将棋」で、自戦記を連載していた。そのとき大山十五世名人も登場していたが、私の記憶が確かならば、谷川九段は「大山15世」と表記していた。
当時名人といえば、中原名人か谷川名人だった。「棋界に名人はふたりもいらない」が谷川九段の持論だったのではあるまいか。だから自戦記では「15世」までで留め、「名人」まで書かなかった…と私は推測する。
その谷川九段が逆の立場になって、いまは森内俊之名人というれっきとした名人がいるのに、自分が永世名人を名乗るわけにはいかない、と思うのは当然の論理であるまいか。
蛇足ながら中原十六世名人だって、口には出さねど、自分が現役名人中にもうひとりの名人が生まれて、内心は面白くなかったはずである。だから自分が40代に名人を失ったときも、すでに大山十五世名人が亡くなっていたにもかかわらず、「永世十段」の肩書きで満足したのだと思う。
話を戻すが、谷川九段は、将棋ペンクラブ大賞贈呈式のスピーチの席でも、米長会長にお尻を向けて話をすることはできませんと、壇上の隅でスピーチをする奥ゆかしさがあった。
谷川九段が十七世名人を名乗るのは、現役引退後である、と断言する。