地獄極楽という類いの宗教は信じていない
いつも書くように、「地獄のような苦しみ」や「極楽のような楽しさ」は体験できる
しかし地獄極楽の苦しみ、楽しみと言っては見ても、それは仮にあったならば
「こうだろうという」という自分なりの解釈であって、それを自分なりの苦しみと楽しさに
当てはめただけの空想である。
しかし、信じるものはある、それはいつも書いているとおり魂の存在
魂は漫画に出てくる火の玉ではない、そもそも見えるのでは無く、感じるものである
だから霊感の強い人は特に感じたり、対話したり出来るという
だが対話は怪しい、そもそも魂は人では無い、生命体に入り込む「気」なのだ
「気」が話したり、肉体の滅亡後に特定の人間のまま存在していることは無い
「気」は「気」だから、たしかに「気」はあるのだ、それを感じることが出来る人は居るかもしれない
そして、そんな「気」を様々な形で操る大きな存在はあるだろう、なければ「気」は法則的に
存在することは無いはずだ、そしてそれをキリストやモハメッドや釈迦などの偉大な人間は
遙かに身近に感じて、その偉大な何かを「太陽の神」「神」「宇宙」と名付けたのだろうか。
「念ずれば通じる」のだ、それは「偉大な魂の創造主(単数か複数かは知らない)」に自分の
魂「気」が通じた時だ。
「信じる者は救われる」と同類だ
その偉大な何かを信仰する、あるいは通じるために間に人間を介するのか、己自信で
通じるのかは個人の自由だ、それが本当の宗教(信仰)の自由というものだ