この冬一番の大雪注意報だとかで少し身構えたけれど、朝起きたら
陽が差していた
窓を開ければ..港は見えないけど..隣の家の屋根にはうっすら雪
1cmあるかないか・・・今も雪は降っていない、もう暦では春だとか
今年は、このまま積雪が無い冬になるのだろうか
新型コロナは世界中で拡大する一方だ、これが江戸時代、明治初期
なら一体どんなことになっていたのか
疫病蔓延で多くの人が亡くなった記録もあるから、きっと今の騒ぎと
同じようなものだったのだろう
幕末、明治、大正、今よりもずっと全てが遅れていた時代と思いがちだが
案外、今より進んでいたこと多かったんじゃ無いだろうかと思う
例えば人の心や周囲への思いやり、自然環境への配慮、体を適度に
使った労働、運河や川の交通網、なにより自給自足の食料作り
海上交通は大量に物資を運び、日本中を巡っていたから高速道路の
ようなものだ
私がルーツを調べていて疑問に思ったのは、800年以上暮らしていた
土地(栃木黒羽)を追われて宇都宮、茨城古河へと移り、その後祖母は
日光鬼怒川温泉へ出稼ぎに行き、東京日本橋の男と再婚して東京で
暮らした
こうしたストーリーの住居の関連性や移動手段、動機がわからずにいた
しかし今朝『古河藩の歴史』を調べていて気がついた、この移動ルートの
関連性があったのだ
北陸越後信濃路の中で生きている私にとって、北関東の事情には疎い
それでわからなかったけれど、降って湧いたように解決した
それは全て日光街道のライン上にあったのだ
起点日本橋から古河、宇都宮、終点日光へと続く日光街道、結局人は
馴染んだルートが一番安心なのだろう
こうしたルートは街道だけでなく、昔の主要な交通網であった河川の
運河ルートでも起こりうる
流浪の旅をしていた祖祖母と出会って一緒になった風来坊の徳五郎さん
たぶん出会ったのは宇都宮だろう、それは大正の初めか明治末期
祖祖母(勿論、祖母も同じだが)の産まれ在所黒羽と、徳五郎さんの在所
馬頭は水上交通の盛んだった那珂川で繋がっている隣町だ
引き寄せられるように結ばれたのだろうか?
50過ぎの孤独な男と、子連れの30過ぎの女、20歳も歳が離れて居ても
男と女の偶然の出会いは、必然の出会いにほかならない
そして新世帯を持つべく古河に住みかを求めたのだろう
ここで大正6年に二人の長男が生まれ(祖母の父違いの弟)、祖母は
大正11年か12年にここで婿をとり、大正13年父が生まれた
しかし徳五郎さんと祖祖母の息子は昭和5年頃、川で溺れて亡くなってしまい
その2年ほど後のクリスマスに傷心の祖祖母も貧しさの中で亡くなったのだ
それから間もなく鬼怒川温泉で出会った祖母と義祖父は連れだって東京に
行き、その後、小学生の父を東京に引き取った、当時は大正13年の
関東大震災で日本橋の家は無くなり、上野御徒町の一間の借家住まいだったという