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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

無 無心4 最終回

2022年06月26日 10時21分55秒 | 宗教
日常生活の中で生きる意味、生きている意味がわからなくなって、禅寺に答えを求めて来た人たちを書いた。
彼らの悩み苦しみは、日常生活に疑問を持たないわれわれには計り知れない。
同じように出家して修行に励む禅僧の暮らしも想像できない。

仏教を少し勉強してみた
仏教は様々な宗派があるが、全て原典は世界四大聖人の一人、インドの釈尊の教えである。

釈尊は大凡2500年前のインドの貴族階級に生まれたが出家して座禅修行で悟りを開いた。
45年間に釈尊に学んだ弟子は多く、釈尊の死後、高弟が中心になって釈尊の教えを経典としてまとめた。
釈尊は弟子に書物ではなく日々の修行生活の中で言葉や、振る舞い、座禅、を通じて教えたから、一人一人が、それぞれに口伝された言葉、見たことを持ち寄り経典に編纂した
それは膨大な量で釈尊の悟りの伝道は45年間にもわたるから、同じ教えでも釈尊や弟子の年齢や熟練度で微妙な表現の違いが出てくる、それは味わいと置き換えても良い
後に中国や日本で多くの宗派が出来たが、それぞれに本尊と経典を宗旨の教えの中心に据えた。

多くの宗派では読経や経典の教えで僧徒が学ぶが、禅(宗)即ち、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の3宗派は自給自足の暮らしの中で自然界と命を学び、托鉢で米一粒のありがたみ、人の縁を知り
ひたすら座禅の為だけの座禅を繰り返す
座禅は答えを探すためではなく、無の境地を求めるのでもない、ただ無心に座禅をするだけなのだそうだ。
難しいが、座禅をする事に目的がある事自体、間違いだという。
だから彼らが苦しみから解放されたくて寺に来たこと自体、間違いということになるし、住持が言葉で答えなかった事も理にかなう。
禅の教えは見て、感じて、座禅を続けて無空の中に満ち満ちた仏心を見たとき完成するらしい
が  そこまでたどり着くのは余程の禅僧に限られるだろう。
ならば、そこにたどり着けぬ修行者は救われないのか?

私は思う
俗世に暮らす我々俗人は、それぞれに欲を持って生きている
遊ぶ金が欲しいがバイトで稼ぐ金額は知れている
世の中は欲しいもので満ちあふれているのに自分の手に入らない
それを、いともたやすく日常的に手にしているセレブたち
世の中の不平等に腹を立て嘆く者、死ぬ者、犯罪に走る者
全ては欲に心が支配されているから起こること
体と生理が求める欲
心が求める欲
これらの欲を静められたら悩みは消える、これが我慢だ。
だが我慢は常に不満を抱えている
欲を捨て去るのが一番、自分の力の範囲で手に入る欲だけ捨てないで、手の届かない欲は何かに代替えするか、忘れてしまえば良い
さっぱりと
さっぱりと忘れる努力をしてもできるものではない
最初から無かった境地になればいい、これが我ら俗人にもっとも近い禅修行ではないだろうか

「唯物の無 心の有」
私は人生の晩年にきて70年の人生で築き、貯めてきたものの大部分を失った、不安もあった
これは唯物の無だ、ところがなにもかも無くしてみたら「立って半畳、寝て1畳」の言葉が今までは貧乏不自由と捉えていたのに、今は1畳の空間が大宇宙に繋がる果てしない空間に思える
失ってこそ得るものは、失ったものより多くなることもある
無くしてみるのも一つの生き方だ、異次元の人生が始まる
「貧乏も一生に一度は、してみるもんだ」





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