ガセネタを併せて「酒を飲むとワクチン接種後の副反応がおきやすい」と決めつけた私は接種前5日、接種後2日我慢した
そして昨夕一週間ぶりにキリン一番搾り中瓶一本を飲んだ、そして夕飯を食べてベッドでテレビを30分ほど見てたら寝てしまった
目が覚めたら11時半だった、テレビの続きを見ていたら1時になったので寝た
そして夢を見て4時に目が覚めて今に至る
昨日今日と実在する人の夢を見た、昨日は10数年前までうちで働いていた板前の夢、内容は何もないのだが夢の中では彼が富山へ修業に行き戻ってきたという設定
地方の田舎言葉だった彼が、バリバリの越中弁を話すようになって驚いた夢だ
それだけのこと
今日の夢は、実際にとても難しい内蔵のガンに冒されて手術した小さなスナックのママの夢、わたしも友達と富山薬科大病院へ見舞いに行った
しかし成功したものの一年後に亡くなった、そして夢は、そのママの店で、定年後どこにいるのかわからなくなった旧友と飲んでいる夢
この二人といて楽しいのだけど、狭い店でやたら三密を心配している自分の夢だった
自分では気づかないけど体は気づいている、私の心も体もすっかり疲れ切っていることを
知らないうちに寝てしまうので結局お風呂は朝になる、この季節シャワーができるようになったので朝シャワーで済ます
今日のように市場が休みなら時間があるから朝湯を楽しむことにする
こんな風に、睡眠と風呂の生活パターンも変わってしまった
夜中に見ていた番組は「満州 難民感染都市 知られざる悲劇 祖国への脱出」
昭和7年、我が国は自ら作った傀儡国家満州国を承認し、日清戦争で破った清国のラストエンペラー「溥儀(あいしんかくらふぎ)」を皇帝にまつりあげた
そして資源豊かで日本の何倍もある広い大地に数百万の日本人開拓民を送り込んだ、それが悲劇のはじまりだった
翌年にはアメリカなどが満州国を認めず、日本が満州から撤退するように勧告
日本は聞かず、国際連盟を脱退してドイツ、イタリアと同盟を結ぶ
日本はドイツと同盟をしていたのに、ドイツと戦争しているソ連ともお互いに攻めてこない不可侵条約を結んだ
前からドイツ、後ろから日本に攻められてはたまらないソ連は喜んで日本との条約を結んだ
このとき満州には最強と言われた日本の「関東軍」100万以上が駐留していて中国進行を企てていた
日本軍部では対ソ派と対中派が対立していて、これが5.15事件を引き起こした、結局対ソ派は消滅した、ソ連にとっては幸いだった
昭和20年8月、アメリカは広島.長崎に原爆を落として日本は完全に戦争継続の意欲を失った
そして連合軍に降伏することを決めたが、天皇陛下を守ることが一番の降伏条件とするため、日本と不可侵条約を結んでいた中立国ソ連に仲介を頼んだ
だが日本の敗北が決まるとソ連は手のひらを返して条約を反古にして満州に150万の軍で攻め込んだ、このころ関東軍は有名無実となり抵抗力はなかった
ソ連軍は日本の開拓民を襲い、老人や子供を殺し、女性を見れば乱暴し、男たちは殺害または捕虜とした
ソ連にしてみれば連合軍の一員という証しを作って日本の領土を多く得るのが目的だった、あわよくば北海道を得るつもりもあった
この時に日本領樺太、北方領土を含む千島列島、沖縄列島、台湾、満州、朝鮮、小笠原列島を連合国に奪われ、日本国領とされていた朝鮮は独立を得たのである
満州にいた日本人は我先に朝鮮方面に逃げていった、そして満州国の南端、奉天市(瀋陽市)に大勢が逃げ込んだ
そこは日本が近代都市に築き上げた大都市で日本人も多く住み、中国人とも平和的に暮らしていた
けれど同じ日本人でも、ここで暮らしていた日本人は家も土地もあり豊かだった、だが難民は家畜並みの生活に墜ちてしまった
ここに来るまでもソ連兵に殺されたり、病気で死んだりした人々が多く、親子が別れたケースも多発、困った親は中国人に我が子を売ったり預けたりした
これらの哀れな子供達が中国残留孤児となった
ようやく瀋陽まで逃げてきたが、すぐにソ連軍もやってきて難民を収容所に押し込み、住民を監視して暴行.殺害したり女性を辱めることが頻発した
そしてこの二年の間にチフス、ペスト、赤痢があいついで瀋陽の難民たちを襲った
不衛生な生活環境、栄養失調、シラミの大発生などが原因だった、これらの伝染病と餓死、凍死、ソ連兵の暴行で24万人も死亡したそうだ
シベリアへ捕虜として連れて行かれて酷な強制労働で亡くなった元兵士6万人に比べても4倍も亡くなっている
命からがら日本にたどり着いた満州開拓民は101万人だったという
時折、拝見させていただいております
落ち着いた生活の景色にホッとさせてもらっています
日本史の中でもっとも悲惨な歴史は「アジア及び太平洋の戦争」です
そしてその当時10歳くらいで体験と記憶をお持ちの方々はまだ80代ですから
たくさんの語りべがおられると言うことです
私は20歳で兵隊だった父から子供の時から興味を持っていろんな事を聞きました
父の記憶をそのまま受け継いだと思っています
子供の時にはかっこいいと思っていた戦争が、深く知るようになってからは
表に出ないところで見るも無惨な悲劇が数多あったことを知りました
戦争はダメだというと「軟弱な!」という人もいますが、その人たちも戦場の経験はないのですから
内地にいた父も飛行場を襲う米軍機の銃撃で目の前で4人の戦友が死ぬところを見ています
攻めてくる敵に座して殺されるわけにもいきませんが、戦争をしない努力は必要ですね
こんにちは。
先日は、私のブログへのご来訪、有り難うございました。
私も、いつもyottin様のブログを拝見しながら、歴史に詳しい事に対して感銘を受け、ハッとさせられることがたくさん有ります。
先日の私の『五つ木の子守歌』記事も戦争の悲惨さを物語っていますが、いつの時代も、戦争の悲劇は何の罪も無い市井の人々を狙い撃ちしてきます。
平和が続くことを祈るばかりですよね。
時節柄yottin様も、どうぞ、ご自愛下さいませ。