神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

あんこうの季節

2020年01月19日 14時52分01秒 | 料理を作る・食べる

もう新年になって19日、温かな毎日が続いている

温かいは言い過ぎだが、震えるような寒さはない

何よりも雪が全然無い、さすがに県境の1000m以上の山並みは

雪があるがそれでも半分は青みがかっていて白銀の山とはいえない

冬季五輪が開催された長野県の白馬村でさえ市内は全く雪が無い

こんなわけでスキー場は真っ青で、さらに冬の間を除雪で食い扶持を

繋ぐ業者は尚更だろう、市からの待機手当というのもあるらしいが前倒し

され無ければ、厳しい

こんなわけで各地のスキーのイベントや大会も中止が相次いで居る

今頃は雪が降って寒いのは当たり前で、だからこそ熱燗と鍋物が恋しくなる

しかしこの暖かさでは少しも鍋物を囲む気にならない

鍋と言えば2月にはアンコウ鍋が最も美味しい季節で、そろそろ地元でも

あんこうがとれ始めているのだ

手始めに10kgのあんこうを買ってきた、料ってみたらまだ生きているので

さっそく身を刺身にしてみた

どこかでも、あんこうの刺身をするが、身をそのまま刺身に切るだけなので

しかも厚切りで、かみ切るのに一苦労する、産地もここのものでないのは

すぐにわかる

地物で生きていれば、血抜きをして相応のさくどりをして熱湯をくぐらせると

身がねじれて縮む、それを薄切りにしてポン酢や醤油、酢味噌で食べる

口の中でチリチリとした食感と、ほのかな甘味が広がる、これがあんこうの

刺身というものだ、頸骨を切った時に、あんこうが跳ねるようでなければ

新鮮と言えない

肝も、まあまあの大きさがあったのでたっぷりの塩で締めてから、じっくり

蒸し上げて水にさらして蒸しあん肝も作った

あんこうのフォアグラ」などと言うが、本物のフォアグラは食べたことがないから

大きな声では言えないのだ

あまりたくさんとると、アンコウ鍋が骨鍋になるからせいぜい10人前くらい

とっただけだ、メニューにあげたらもう半分は無くなった

残ったら初物、自分で楽しもう、朝日山の年始バージョンをいただいたので

最高の酒の肴になる、おいしいものは「こみずやかに」一人楽しむ

まだ鍋はいらない、鍋は大勢でワイワイと突っつくにかぎる。

 

さしみ

蒸しあん肝

 

 

 


ばね指

2020年01月17日 22時13分58秒 | 病気と健康

脚の筋肉痛は整体二回で、気のせいかやわらいだ気がする

ところが今日は、両手の指が内側に引っ張られて戻らない

筋が縮むのか、痙攣したみたいになる

筋萎縮症? 反対の手でおこすけど違和感あり

包丁を握るとなりやすい

そういえば外反母趾も悪化して親指が人差し指の上にのることも

ふくらはぎが痙攣したり、もう筋肉痛も絶頂

いったい私の体はどうなるのでしょうか?

..で ばね指が同期の間で流行中

指がちぢんでカクカクと戻るとか?

妹の亭主 その同級生 私の同級生

手術は簡単だけど再発も簡単におこるらしい

70を前にして次々と起きる不思議な病気たち

次は何かな?

 

 


windows7

2020年01月16日 20時04分15秒 | yottin日記

いろいろなサポートが終わったウインドウズ7

私のパソコンもセブンのまま

いよいよPC交換か

そういえばW8もありましたよね

あれどうなったのかな? たしか7か8か迷った気がする

いよいよ10か

会社では既に1台入れてあるけど使いづらいので社員に

任せて私は使わない

でもかんねんするしか無い しばらくはこのタブレットでの

投稿になるので長文はしばらくは休止です


荒波人生 昭和38年~41年 このころの暮らし

2020年01月13日 19時47分33秒 | 小説/詩

かずは思うのだ、自分が高浜に店を構えた昭和32年頃が境目だと

そこで敗戦国日本の負は精算されたのだと

勿論、国土の一部、沖縄などがまだアメリカに占領されていたり、

不平等な条約で縛られた敗戦国という足かせは外れていないから

完全な独立国とは言いがたい

けれども今日食べる米さえ、隠れて得なければ生きていけなかった戦後の

苦しい生活から見れば、家だって小さくても文化的で清潔になったし

食い物も有り余るほど流通してきて、腹ぺこなんてことも無くなった

洗濯機、冷蔵庫、営業用トラック、扇風機、ミシン、テレビ、便利な世になった

人々は活き活きと働いているし、外に出れば元気な子供達の走り回る

姿がそこかしこで見られる、子供の後を飼い犬たちが鎖も無くついて走って

いる

こんな小さな町でさえ戦後のベビーブームで子供があふれかえっている

我が家は3人、むかえに立ち並ぶ家々でも小学生、中学生が3人、4人

2人、2人、3人などと、それぞれ家庭に住んでいる

陽一が小学校に入学したときなどは生徒数が2000人、一学年は55人

程で6クラス、陽一より1~3級上のベビーブーム(団塊の世代)は更に

いクラス多かったのだから教室が不足した

子供が多いと言うことは、その国がこれから少なくとも30年以上繁栄する

ということだ、人口増は即、口に胃に繋がる、衣服に繋がる、建築に繋がっていく

かずの店が毎年、倍々ゲームで売上が増えていくのはそのためだ

 

昭和38年は、北陸、越後を中心に大雪が3ヶ月も降り続けた

関東で生まれ育ったかずにとって、雪国の冬は苦手である

もう、ここに来て15年以上が過ぎたが、雪の扱いはへたくそだから

雪かきは主に弟の徳磨が受け持った、日頃は仕事が遅いとか徳磨を叱りつける

けれど、こんな時は頼りになるのだ

息子の陽一も雪が大好きで、徳磨と何やら楽しそうにじゃれ合いながら雪かきを

楽しんでいる、それを見て改めて徳磨と陽一が叔父と甥の関係である事に

気づく、かずだった

自分と徳磨は17歳違う兄弟だが、徳磨と陽一は9歳しか違わないのだから

どっちが兄弟かわからない

しかしこの年の雪は半端でなく、1日に50cm以上も降る日が続き、とうとう

道路は1階の部分より高くなってしまい、足場の階段を雪面に造って道路に

上るざまになってしまった、店は日中から電気をつけないと暗いし、客足も

遠のき、仕入もままならない開店休業状態が続いた

吹雪の日には小学生が集団下校をしてきた、現在の4倍近い子供達がいた

時代だから、親が心配するよりも子供達の集団の方がよほどたくましい

高浜地区には小学生だけで200人近く居たから、それらが黒いマントを着て

一列になって真っ白な雪道を歩いてくるのは壮観であった

この頃の子供は滅法雪に強い、吹雪いていてもじゃれ合ったりしている

陽一も買ってやったスキーを持って友だちと近くの土手で滑って遊んで居る

この頃の子供スキーは、板の上に皮の輪が左右にまたいでいて、そこに

長靴を差し込むだけの簡単なものだった、だから脱げてしまうとスキーは

どこまでも滑っていってしまう

中学生になった頃、ようやくカンダハという装置がつきワイヤー状の締め具で

長靴の後からも確保出来るようになった、スキー板はまだ木製である

この大雪を38豪雪と名付けたが,40年前後は何度もこのクラスの豪雪に

見舞われて雪に弱いかずを苦しめた

38年6月には新潟市中心に大地震が起きた、新潟地震と名付けられM7.5

信濃川にかかる出来たばかりの昭和大橋がドミノ崩しのように川に崩落した

しかし明治時代に出来た萬代橋はびくともしなかった

越後は地震の多いところだ、それに比べ越中というところは地震が皆無と

言っても良い、勿論他所の大地震の揺れは来ることがある、震源地としての

地震が無いのだ。

かずが産まれる9ヶ月前に東京で関東大震災が起きた、幸い家族はこの頃

まだ古河にいたから大丈夫だったが、古河でも少しは被害があったらしい

だからかずは、これまで地震らしい地震を感じたことが無かった、新潟地震も

どーんという衝撃が一発来ただけで、この町では被害もほぼ皆無だった

夏休みになると子供達は近所誘い合わせて、通学団単位で海に泳ぎに行く

砂浜が海に沿って1km以上続き、砂浜の始まりから波打ち際までは50m以上

ある、まったく小学生だけの自治で海へ行く、6年生が大将になって1年生まで

10数名の団体だ、トラックの大きなゴムタイヤチューブを浮き輪にしてもつ子供

賑やかに歩いて海に行く

海に行けば小学生が端から端までひしめき、監視の人たちが目を光らせて居る

ここの海は深くてすぐに背が立たなくなるから危険なのだ、だがだからこそ

子供達は泳ぎが達者だ、特に漁師の子供達は赤い「金釣り」という簡易フンドシ

で泳ぐ、泳ぎは誰も敵わないほどうまい

1964東京オリンピックに出て銀メダルを取った山中毅さんは、能登輪島で

日本海の荒波の中を泳いでいたのだ

まだプールなど無い時代だったのだ、子供達は野生児だった

これから5年も経つと長野県からの道路事情は次第に良くなって、海水浴

ブームが起きてくる、昭和40年頃はまだその域に達していない

しかし松本から前回書いた、大口さんの家族が、かずの家にやってきた

大口夫婦、お父さんの宏一さんは、かずより4歳ほど年上だった

彼も例に漏れず戦争に参戦したが、かずとちがって外地「南方諸島」への

志願兵としての赴任だった、在籍年数も3年を超えていたが、学歴も高いので

下士官であった

パラオに進駐していたがパラオ諸島の激戦地ペリュリュー島で5倍ほどの

重装備のアメリカ軍と戦い撃退させたこともあったが力尽きて玉砕した

しかし大口さんは全滅必至になった頃、上部からの命令を託されて

軍艦で島を離れて別の島へと脱出して命を繋いだのだそうだ

一緒に来たのは高校生の長男と陽一より一つ年上の中学生の次男

それに温泉で相部屋だった大口さんのおばあさんの5人だった

二人の子供は、いずれもスポーツマンで凜々しい顔をしている

陽一が軟弱に見えた

ここに来る前に、30km程離れた海水浴場で男三人は泳いできたのだそうだ

今夜は魚をたっぷり食べて一晩、この家に泊まっていく

かずは太っ腹で前向きな宏一氏をすっかり気に入った、信州人と付き合う

のは善光寺の伯母さん一家とあるから初めてでは無いが、宏一氏は

若いながらも松本市の調理器具、、厨房機器の会社の専務取締役だという

飲食を扱う職業の、かずにも少しは関連がある、これからどっちの方向に

進んで行くのか、かず自身もわからないが、今の位置ではとどまらないと

自分に言い聞かせたばかりだ、いずれにしても魚からは、魚料理からは

離れないだろうと思った、そんな事を前提に宏一氏と話していると何か

自分の進む道が見えてくるような気がした

「大口さんに出会えて、なにかヒントを得ることが出来ました、これからも

よろしくおつきあいをお願いしします」と言うと

宏一氏も「いやー、井川さんもなかなかの苦労人で話しを聞いていて

面白れいっせ、厨房に関わることなら何でも相談にのるだで遠慮無く」

かずは飲めないけれど、少しだけ相手をした、いつもよりも飲んだ

宏一氏は豪傑だ「米どころの酒は、やっぱりうまい!」とご満悦だ

すっかり酔って寝床に就いた、大口宏一氏とのつきあいは、この後

30年以上続くことになる、そして人生に大きな影響を与える人となるのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和38年から40年 様々な出会い

2020年01月12日 20時49分13秒 | 小説/詩

昭和30年に次男を産んで暫くたった頃から、みつこの体調が

悪くなった

病院の検査の結果が出た、胃下垂で栄養吸収が良くなく太れない

それに加えて、もっと深刻なのは甲状腺障害の疑いがあることだった

甲状腺などと言われても、かずも、みつこもさっぱりわからない

だが体調不良の主因はそこにあるようだった、場合によっては入院の

必要もあるらしい

それで、かずは忙しい日々の合間に、みつこを5日、一週間と小刻みに

近場の温泉に保養にやるようになった

当然、店番が手薄になるので店員を募集したら坂口松子という19歳

の娘が務めたいとやってきた

小柄で小太り、丸い顔、細い目でなかなか愛嬌があるし、おっとりした

話し方も好感が持てる、中卒だという

娘だと思ったら亭主がいた、これまた愛嬌たっぷり、というよりおべっか言いの

お調子者に見えた、歳は25だそうだ

ある日、色浅黒く、厳つい顔、いかにも強面の、あきらかに鳶職とわかる男が

店に顔を出した、すでに酔っていて酒臭い

「さしみをくれ」と言った

かずが刺身を1人前切って渡すと、「すぐ食べるから、醤油をかけて割り箸も

一箭くれ」と言った

鳶の男は玄関先で座り込んで一合瓶の酒をラッパ飲みしながら、刺身を

食べようとしたが、酒瓶が邪魔でうまく食べることができない

かずは見かねて「お客さん、中で食べたらいい」と誘うと、驚いた顔で

「いいのけ?」と嬉しそうな顔をした

笑うと、厳つい顔が消えて優しい顔になったのが意外だった

奥の小上がりの縁に腰掛けて飲んでは、刺身をつまむ

「うめえな、ここの刺身はよ」と舌鼓を打つ

「お客さん、どこの出身かね?」

「おれかい、うん名古屋だが」

「えらく遠くから来てるんだね」

「あ~日本中どこへでも仕事のあるとこへ飛んでいく」

「おとう!もう一本いいかね?」

「ああ、いいよ、ゆっくりしていけばいい」

喜んで隣の渡辺商店でまた一合買ってきた

「おとう、この町へきてこんなに親切にしてもらたんは

はじめてだ」

「へーそうかい? あんた家族は?」

「女房はいたが・・・今はどうしとるかわからん」

「・・・」

彼は氷室という名前で、北信越マシン工業の工事50mの高さの

煙突工事を担当しているのだそうだ、命綱などつけずに上がっていても

平気だと笑った

老け顔なので、かずとあまり歳は代わらないと思っていたが、まだ

28歳なのだという、かずよりも一回り近く若い

すっかりかずに親しんで「おとう、おとう」と呼ぶ、かずはもともと人情に

厚く、人を信じないと言いながら頼られると無条件に受け容れる短所(長所?)

がある

最初は、みつこや店員達も怖がっていたが,慣れてくると、なかなか

良い人だし、毎回なんやらのささやかな菓子をみやげに持ってきてくれる

今ではこの店の常連となっていた

 

酒飲みと言えば、店員坂口松子の亭主もそうで、これが飲むと我を忘れる

酒乱癖があって、普段は小心者なのに酔うと子分100人のヤクザの

親分に変身してしまう(勿論妄想だ)

松子が休みで実家に行った日のことだ、鬼のいぬまにと思ったのか、家で

しこたま飲んで、まだ足りず酒を買いに下りてきた、そのついでに、かずの店

に顔を出したが、みつこが酒臭いと言ったのが気にくわないと言って

店頭で怒鳴りはじめた

ちょうど配達から戻ったかずが「どうした坂口さん」と言うと、矛先を買えて

かずに絡み始めた、最初は受け流していたが、ついに堪忍袋の緒が切れた

かずは、痩せて背の高い坂口の胸ぐらを掴むと、道路の端まで押していき

その勢いのままに坂口を側溝に突き落とした

それから店先の一斗缶を持って行き、それで坂口の頭を何度も叩いた

誰かが警察に電話したのか、やがて巡査がやってきて、かずを停めた

「あんた!事情は聞いたが、これ以上やったら、あんたを逮捕だよ、ここまでだ」

巡査は手を伸ばして目を回している坂口を引っ張り上げて

「もう今日は家に帰って寝なさい、これ以上飲んだら豚箱で泊まることになる」

と釘を刺した

 

ところが、それから一週間くらいたって、また酔った坂口がやってきて

「この前の借りを返しに来た、俺の一声で子分が100人集まるんだぞ」などと

言って、息子の陽一にせまった

このときも、かずは配達に出ていていなかったが、たまたま鳶の氷室が奥で

飲んでいて声を聞いて出てきた

氷室は状況を把握すると,坂口の腕を掴んで外に引っ張っていき、いきなり

げんこつで坂口の頬を殴った

「ぐぇ!」あっという間に坂口は道路に倒れ込んだ、そして仁王立ちになっている

氷室の顔を見上げて、突然土下座をした、そして「兄貴!子分にしてください」

氷室の方が驚いた。

 

40年の夏、夏休みの子供3人とみつこは町から40kmほどの山間部にある

川原湯温泉に湯治に行った、予定は1週間だった

川原湯は、ひなびた1軒宿で湯治場としてこのあたりでは有名である

まだ相部屋というのが当たり前で、混んでいる夏休みは尚更だった

それでみつこ達も当然ながら相部屋になった、相部屋とは他の客と同室で

寝泊まりすることである

その相方は信州松本の初老の婦人二人であった、どちらも穏やかなおばあさんで

子供達もすぐに慣れた、一人は大口さん、もう一人は山根さんという

一週間もいると家族同様になって、みつこが「うちは魚屋をしている」と言うと

海無し県の長野だけにたいへんな興味を示して、うまい魚を食べに行きたいね

などと言った

これが翌年実現するのだ、この頃は道路事情は悪く、山道は舗装されていないし

細くて狭い、片側崖などというのは普通で、トラックなどの転落事故もたまに起きた

そもそも国道が開通したのも数年前の事で、乗用車をもつ個人などまだまだ

少なかった、しかし大口さんの家には大型乗用車があったのだ

それで大口さんの家族がやってきた、それがかずの運開きになるとは・・・

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和39年 16年ぶりの東京

2020年01月10日 21時28分05秒 | 小説/詩

昭和39年は日本にとって忘れられない記念の年となった

去年の大河ドラマ「いだてん」を見た人なら、そのいきさつがわかるだろうが

東京でオリンピックが開催されたのである

太平洋戦争開戦の前年、1940年(昭和15年)にも東京でオリンピックが

開催されることが決定していた

しかし当時は日本軍が中国大陸や満州で中国軍と戦争をおこなっていた

平和の祭典であるオリンピックの開催国が、戦争をしているのでは理にかなわない

結局、日本はオリンピックを辞退、しかも国際連盟まで脱退して大東亜、太平洋

戦争に突入したのだった。

しかし今度のオリンピックは、戦争放棄の新憲法下で繁栄の兆しが著しい日本で

開催されたのだ

日本中が沸き立ったが、この田舎町では一部の人間が聖火リレーに選ばれて

歓喜したくらいで、あまり盛り上がりはなかった。

かずの子供達は中学2年になった長男をはじめ、誰一人東京に行ったことが

ない、なにしろ東京までは汽車で10時間以上、半日はかかるのだ

かず自身も昭和23年にこの町へ流れ着いて以来16年、東京とご無沙汰だった

それで長男を連れて、東京へ行こうと思いたった

オリンピックを見せることは出来ないが、長男は来年は中学校の修学旅行で

東京へ行くから、そのとき競技場などの施設は見学出来るだろう

だから自分のホームグラウンドだった上野から浅草あたりを見物させようと

考えた

そして当日は上野公園、不忍池、浅草寺などを見せて皇居二重橋へ

それから、今、日本で一番人気の芝の東京タワーへつれて行った

上野で一泊して翌日は亀戸まで足を伸ばした、両親の終焉の地

10代の頃の自分が蘇ってくる

東京はオリンピックで大きく変貌をはじめているが、どこを歩いて見ても

昔のとおりに迷うこと無く歩けたのが嬉しかった

帰路はタクシーで上野まで乗ったが、花王石鹸、遠く千住のお化け煙突が

見えて、息子に昔を語ったのであった

お化け煙突は偶然だが、この年の暮れには壊されて消え去ったのだと言うことだった

子供時代に見ていた風景が消え去るのは寂しかった

 

しばしの休憩をとったかずだが、田舎に戻るとまた日々の忙しい暮らしが

待っていた

そんなおり、隣の渡辺青果店の主人がやってきて「井川さん、私ね商工会議所から

頼まれたんだけど、高浜でも商工会をつくりませんか」と言った

渡辺青果店は奥さんが営業しているのだが、主人は中央商店街の大きな

呉服店の番頭で、そこの社長は町の名士で商工会議所の副会頭なのだ

渡辺さんは、そんな主人から店を任されている程の才人であった

性格は温厚だが頭は切れる

これまでのかずは、商売をしているとは言え、その行動範囲は山深い農村部と

高浜地区の域をでていない、いわば「井の中の蛙」なのである

田舎、田舎と、この町を少し斜めに見ていた「かず」だが、こんな村でも

山田先生などという権力がある、それだって町全体の市議会の中では

あまり発言力をもたないのだから、まだまだ自分は小さい男だと自省した

(もっと上を目指すべきだ)とこの時、思った

「やりましょう,いい話だと思います、手伝わせてください」

それから1ヶ月ほどで高浜商工会が発足した、この町では7番目に出来た

地域の商工会である、その会員数は30名、商業系と工業系半々であった

会員の多くは30代40代で血気盛んな年頃である、いままで、かずと面識

がない会員も多くいた

積極性が売り物のかずだから、この中でもすぐに頭角を現した

会が出来れば長が必要となる、こんな小さな団体でも派閥が出来る

かずが押すのは勿論、渡辺さんだ、一方、あの金三も会員となっていたが

そのボスの山田市議も木工所を経営しているので会員になった

そしてすぐにオブザーバー的立場になったので金三も威張っている

山田市議の後援会長である村松運送の村松は、山田市議の後釜を狙っている

それを快く思わない大下機械店の大下は成り行きでかずの側に近い

他に理髪店の長谷川が、どっちつかずだが力を持っている

一応こんなところが高浜商工会のうるさい連中なのだ

結局、話し合いで渡辺さんが会長、山田市議が副会長になった

東京にいたときには、こんな構造とは無縁だったかずは、腹の中で

笑っている、(こんな所にいつまでもいるものか、上をもっと上を)

ここにきて、かずは初めて自分が何を求めているのか、うっすらと

わかるようになってきた、そして自分の成すべき方向だけが見えてきた

しかしまだ天の利、地の利、人の利全てが身についていないことも

わかっている、これらを得ないことには、よそ者の自分が表に出ることは

出来ない、かずの頭がクルクルと回り始めた

そして昭和40年代に入ると、かずの人生に大きく関わってくる人々が

次々と現れてくるのだ。

 

 

 

 


荒波人生 昭和38年 宴会場ができた!

2020年01月09日 18時49分52秒 | 小説/詩

古河から戻って来た「かず」だが二階建ての増築という大仕事が

待っている

かずにとって、同じ敷地内にはあるが、家としてはこれが3軒目に等しい

最初の家は、結婚して長男が生まれたために借家を出て我が家を

ほしいと思ったためで、あの時は資金が全く足りないで、借金した上に

まだ足りない分を大工さんの手伝いをして、何とか建てた二間の家

だった。

二軒目は今の地に土地を求め、1階店舗、2階6畳二間の小さな家を

建てた、この時も5万円足りなくて、建設会社の社長の好意で猶予

してもらったが、それを返すのに3年もかかったのだった。

しかし今度の増築は3分の1ほどの頭金を準備出来た、それは日本全体が

好景気に突入したからだった。

かずの町でも大手自動車メーカーの部品を製造する「北信越マシン工業」が

進出してきて、高浜地区の4分の1にも及ぶ広大な敷地(農地)を買収して

工場建設を開始した、これは第一次、第二次と実に15年間も拡張工事が

続いたので、その工事関係者だけでもかなりの延べ人数が県外から入り

食料品、飲料、そして夜の町には建設労働者が夜な夜なくりだして

繁華街は賑わった

またこの工場に田畑を売却した大部分の地主は高浜地区の農家だった

それで一気に消費が高まり、かずの魚屋でも仕出しや刺身などが何倍も

売れたし、工場建設の魬場(工事関係者の宿舎)からも魚の切り身や

刺身の注文が連日入った、それで開店当時の数倍も売上が伸びたのだった

 

増築中の間は、家族は近くの空き家を借りて住んでいたが風呂が無い

それで300mほどの所にある銭湯に通った

風呂上がりの楽しみは、帰り道にある屋台の「夜鳴きそば」を食べること

そばやの主人は以前は町内を屋台を押して歩いて居たけれど60過ぎて

からは自宅の前に屋台を置いて商売をしていた

風呂上がりで小腹が空いたせいもあるが、これが絶品で、風呂帰りの

客でいつも満員だった

そばと言っても、日本蕎麦ではなく志那そば(ラーメン)である、煮干しの

出汁でとった汁がうまい(まだスープなどとは言わない)

このあと二年くらい経ったとき、役所のものがやってきて、衛生法で

露天での営業はまかりならんと一方的に退去を命じた

おじいさんは驚いたが相手が役所ではどうにもならず、生活が困るわけでも無い

のでやめようかと思うようになった

しかし常連客は、そうはいかない、せっかくの楽しみを奪われてたまるかと

何人かの者は役所に掛け合ったが、やはりだめだった

そんな時、かずが主立った常連客に声をかけた

「露天でダメなら家の中でやれば文句は無いはずだから、おじいさんの家は

玄関が広く,その先に10畳ほどの居間があるから、少しお金をかけて改装

すれば商売は続けられると思うが、我々も協力していくらか応援しませんか」

と言ったら、大工が生業の人もいて「改装くらいなら、俺がやる、安くやってやるよ」

と乗って来た、おじいさんも少しくらいの蓄えもあるし、銀行に勤めている息子も

助けてくれるだろうと、やる気になった

常連客が集めた金額は改装費の5分の1ほどだったが、それでも無理なく

そば屋を開店することが出来たのだった

そして、おじいさんが寝込むまでの10年間は、ずっと繁盛していたのである

 

昭和38年の3月についに増築工事は終わり、床の間付きの20畳の座敷

二階建ての家が完成した、そしてさっそく宴会場の営業許可をとった

近所の料理達者な千佳さんという人を雇って宴会があるときだけ調理に

来てもらうことにした、千佳さんは、かずと同い年であった。

去年、かずは人生初めての仲人を経験した、弟の徳磨に嫁を世話したのだ

嫁の名は晴美という、健康そうな女であった

そして5月に、あたらしいこの座敷で二人の結婚式と披露をおこなった

これは,かずの家で宴会ばかりでなく結婚式も出来ると評判を呼ぶことになり

次第に座敷の仕事がでてきた。

それで夜の宴席の手伝いとして昌代さんという30歳の近所の主婦を雇った

これで店番の徳磨、千佳さん、昌代さんと従業員が3人になった。

いずれも刺身くらい切ってしまう調理上手な主婦なので助かった。

更に、この頃は店が忙しくなって、女房のみつこも店の切り盛りだけで

手一杯になったので家政婦を頼もうと思った

そんなとき最初の家を建てたとき世話になった金貸しの長瀬セツが遊びにやってきた

今はもう、金貸しはやめていた、しかも数年前に甲斐性無しの亭主を見限って

離婚して一人暮らしなのだそうだ

やることも無いのでプラプラしていると言うから、家の中の事をやってもらえないか

と恐る恐る聞いたら、逆に喜んで「ああ、いいぜ」と快諾してくれた

長男の陽一も気が合うのか「セツおばさん」と呼んで親しんだ

このセツさんは男勝りの性格で更に巨漢である、漁場で育ったせいか言葉遣いも

荒っぽい、だが腹の中には何も無いからっとした性格なのだ。

かずは、こうして近所の千佳さん、昌代さんが店の仲間になったので

近所の女房達を呼んで、座敷の披露を兼ねて食事を提供しようと考えた

それで15人ほどの奥方達を招いておもてなしをしたのだった。

ところが思わぬ波紋が起きた

高浜地区で小さな赤提灯の店を経営している、奥谷金三という男がやってきた

金三は、かずより5歳くらい年上で教養の無いずるがしこい貧相な顔つきの

男だ、ただ酒を飲みたい男で、かずがもっとも嫌うタイプなのだ

「この前の夜、女衆を集めて酒を飲ませていただろう、何の集会だ!」

いきなり高飛車な物言いだった

「ああ、あのことですか、座敷をつくったから近所の女衆に披露したんですが

なにか?」

「披露だったら村の偉い先生方から招くのが筋だろ!、披露などと言って

選挙運動をしていたんじゃないか?」

「そんなたいそうなことを考えてなんかいないですよ・・・ばかばかしい」

「バカバカしいとはなんだ! この村には山田先生という市会議員の先生

がいる事くらい知ってるだろ」

「それは選挙に行っているからわかりますが?」

(そうか!金三は山田市議の後援会の使いっ走りをやっていたのだ)

「おまえは山田先生の後援会に入っていないだろ、高浜で商売をやって

いるものはみんな入っている、おまえが山田先生に刃向かって別の者を

押すなら、このくらいの店は簡単につぶせるんだぞ!」

最初からけんか腰だ、かずはあきれてしまった

「そんなことは無いです、だいたい選挙自体興味が無いですからね、

だが、この地区で住んでいるから、前回の選挙では山田さんに投票しま

したがね、もし俺を無理矢理、敵にして山田さんから切り離そうというのなら

社会党にでも共産党にでもなりますよ、そうしたいんですか?奥谷さん」

「やっぱり社会党か! おまえは」

「困ったなあ、もののわからない人だ・・・面倒くさいから、あんたが難癖

つけて山田さんの反対派にしたがっているって、直接あんたの山田先生

のところに行って言うから、これからすぐ一緒に行きましょう、山田さんの

命令でここに来たんでしょ?」

「先生は関係ない!」

「じゃあ勝手に、あんたの判断で俺を山田さんの敵にしようと考えたんですね」

「そんなことはない」

「じゃあ何なんだ! いったい何しに忙しい俺の店に来たんだ!難癖つけやがって」

かずが怒鳴ると、山田先生の子分を気取る軽薄者はたじろいだ

「魚屋だからってなめるなよ!つぶすだと!おまえだけの力でやって見ろ

先生の力を借りないでどれだけやれるんだ、山田先生だって俺を敵にする

愚か者じゃ無いよ、おまえは俺と一対一でやれるのか! やるか!!」

「そんなに怒るなよ、俺も言いすぎた、勘弁してくれ」

そそくさと逃げ帰ったので、そばでハラハラしていた店員達もほっとした顔を

している

「おい、かあちゃん店先に塩をまけ、虎の威を借る狐とは、あいつのことだ

ちょつと手柄をたてて先生とやらに褒められてご褒美でももらいたかったんだろ

田舎根性丸出しの田舎もんだ、二度と来ないだろう」

かって闇米商売の時に駐在とやり合って言い伏せた、かずだ、このくらいの

太鼓持ちなどとは格が違いすぎたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


荒波人生 昭和37年 古河へ墓参りに行く

2020年01月07日 21時43分16秒 | 小説/詩

茨城県古河市、茨城県というと大洗、水戸など海岸の印象があるけれど

関東平野のど真ん中、内陸にむかって針のように伸びた先端

そこに古河市がある、かずが生まれた時は、まだ猿島郡(さしま)古河町

であった。

古河の駅に降り立ったのは実に20年ぶりだった、それだって既に東京へ

上京した後の事で、正式にこの町を出たのは小学校5年生、昭和10年

のことだから、古河を離れて27年が過ぎていた

寺を訪ねる前に、自分が生まれ育った家を見たいと思って、そっちへ

むかった

古河は江戸時代は城下町で、初代藩主は有名な老中、土井大炊頭

(おおいのかみ)利勝で石高は16万石

利勝は徳川家康の重要なポストを受け持ち、その正体は家康の一族

あるいは実子という説もある人物だ

その他にも歴史的には河越夜戦で北条氏康に敗れた古河公方の

本拠地でもあった

そんな城下町であるから、その地名も厩町、仲ノ町、白壁町など雰囲気の

ある地名があり、かずが産まれたのは白壁町の旧武家屋敷であった

家は風呂もあり、部屋数も5つほど、その中にはいかにも武家的な4畳間

切腹の時に使う(しじょうのま)と呼ばれていた。

ここを訪ねるのは27年ぶりだった、少し迷ったけれど雀神社へ向かう

大通りから左手の小径に入ると、間もなく塀に囲まれた大きな旧家があらわれた

かずの家の隣は、家老松井様のお屋敷だったと子供の頃から聞かされていた

その松井様の家があった、その隣に畑に囲まれたかっての我が家があった

電球柿の木、お稲荷さん、栗の木、懐かしかったが嫌な記憶も多い家であった

複雑な気持ちでそこを立ち去り、子供の頃に遊んだ「おすずめさん」雀神社へ

むかった

入口には上って遊んだケヤキの木が、朽ち果てそうな姿でまだ立っていた

お詣りしてから、祖母が働いていた製糸工場にむかった、建物はあったが

もう稼働していなかった。

子供の時には製糸工場で働いている祖母を機械の音を真似て「ガーガーばあちゃん」

家事をする祖祖母を「おうちばあちゃん」と呼び分けていたものだった、

かずには二人のばあちゃんがいたのだ

けれど父や母は物心ついたときには家にはいなかった。

この町の駅近くにある寺に祖母、祖母の連れあいの義祖父そして祖母と義祖父の

一人息子正男が眠っている

寺に着いた、さっそく墓参りをしようと寺に入って声をかけた、寺の若奥さんが顔を出した

かずと似た年頃だった

「白壁町にいた阿南の者です、長い間ご無沙汰していましたが、今日は祖母達の墓参り

にやってきました」

すると奥さんは「私は嫁でわからないので住職と代わります」と言って奥に入っていった

間もなく年配の住職が現れた

「阿南さんというと、徳五郎さんのことかね?」と聞き返した

覚えていてくれたと、かずは喜んで「そうです、そうです」と言った

すると住職の顔が曇った、「立ち話もなんだから上がってください」

住職について控えの間に入った、そこで改めて挨拶をして永代経や小布施を丁寧に

差し出すと住職は困った顔をして

「実は徳五郎さんの墓は墓じまいさせてもらったのです」

「えっ!?」言っている意味がわからなかった

「徳五郎さんが亡くなって、家族の方が東京から納骨に来られたが、その後

音信不通になってしまった、20年には東京が空襲で焼かれて家族の方は

残念ながらみんな亡くなったというような風の便りも聞こえてきた、それでも

25年頃まではもしかしてと思って,墓の掃除などもしておったが、誰もお見えに

ならなんだ、それでもう誰も親族はおられんのだと思って共同廟の方にうつさせて

もらって読経だけは欠かさずしているのだが・・・まことにすまんことをした」

かずは呆然とした・・・義祖父が水死した息子と、亡くなった妻のために建てた墓

だから、先祖代々というわけではないが自分を可愛がってくれた祖祖母の墓

が無くなったと思うと全身の力が抜けてしまった。

しかし口だけは「そうでしたか、おっしゃるとおり私の両親は東京で空襲に遭って

亡くなりましたが、私だけが兵隊に行っていて難を逃れ生き残ったのです、しかし

戦後は生活に追われてついには親戚を頼って日本海の方へ移り、今はそこで

結婚して生活しています、ようやく一息ついて墓参りを思い立ってきたのです」

と言った

住職は「このようなことになって小布施はいただけません」と返そうとしたが

「墓は亡くても、このお寺にお骨と魂があるから、どうかこれからも仏を守って

いただければありがたいのです、なかなかここまで来ることは出来ないので

お盆には毎年、小布施をお送りしますのでぜひお経だけはあげてやってください」

と頼んだ

住職は「わかりました、心を込めておつとめさせていただきます」答えた

 

帰りの汽車の中で、かずは思った(両親の葬儀を、義父の弟の慶次に任せた為に

浅草の日輪寺でおこなったが、あの時、古河の寺で葬儀をすれば良かった、

そうすれば俺が生きていたこともわかって、墓じまいはされなかったのに)

そう思うと悔しくて涙が出そうになった。

(おれは親不孝者だ・・・)この思いは一生心に残った、そのため、かずは

自分の死と向かい合った90歳頃から、「いずれ守る者が無くなる墓よりも、

毎年、会員が集まって供養をしてくれる共同墓地に入る」という信念をもち

自ら共同墓地の会長を務めたのだった。

 

 

 


荒波人生 昭和33年~37年 忘れていた事が

2020年01月06日 22時50分58秒 | 小説/詩

かずが住宅兼店舗を建てた昭和33年は、長男陽一が小学校に

入学したとしでもあった。

長女は5歳、次男は3歳になっていた、そしてかず自身は間もなく

34歳になろうという年だった、この町に来て11年が過ぎていた。

田舎では時間の流れが遅い、そんなのんびりした田舎町でも、かずの

時間だけは早く過ぎている、それだけめまぐるしく生きているという証だ

そろそろ,この町にも中央商店街の旦那さんの家から順次、テレビが

入るようになってきた。

昭和33年という年は、3にまつわるビッグニュースが続いた

プロ野球では立教大三羽がらすが入団、巨人に長嶋茂雄内野手

阪急に本屋敷錦吾内野手、南海に杉浦忠投手がそれぞれ鳴り物入りで

入団した、特に六大学ホームラン記録を塗り替えた長嶋選手は背番号3

派手なパフォーマンスと実力で瞬く間にスターになった。

また333mの東京タワーが完成したのも、この年、昭和33年だった

日本がいよいよ発展していく予感がしたのは東海道線に特急「こだま」が

東京-大阪間に登場、約7時間で走った、これは当時としては画期的なスピード

だった。

かずの家にも、まだテレビは入っていない、近所の家にも入っている様子は

なかったが、孫兵衛の爺さんが毎日、孫の手を引いて店にやってくる

ここから500mほど下ると西町商店街がある、そこの電気店では

店頭の棚にテレビを置いて、通行人に相撲の時間だけ放送を見せるのだ

爺さんは、それを楽しみに行くのだが、その前にかずの店先で刺身を切って

もらって食べていく、それが隠居の楽しみだと言う、そして

「おまえが、ここで魚屋を開いてくれてありがたい、町までいかんでもうまい

刺身が食べられる」と毎回言う、これを聞くと、かずもなんだか嬉しくなるのだった

夏の夕暮れには店先に縁台を出して涼む、明るい時間は縁台将棋で楽しむ。

ちょっとした家や店の修繕があるとむかえの家の爺さんに頼む、

この爺さんは元大工で今は隠居の身だ

仕事が終わって「じいちゃん、これ」と謝礼の包みを差し出すと決まって

「こんなもんは、いらん」と言ってから

「いつものがあれば、それが一番だ」と付け足す

かずもわかっていて、焼酎の一合瓶と刺身一皿を縁台に腰掛けている爺さんに

持って行くと

「これこれ、これが一番だ、極楽極楽」と目を細める

戦後間もない、生き馬の目を抜くような殺伐とした東京で生きてきた、かずにとって

こういった田舎のまったりとした人間関係は心が癒やされる

こうして田舎に同化しながら生きているうちにまた2年も過ぎ、テレビが大半の

家に普及した、それでもかずはテレビを入れなかったが、息子達が毎晩

近所のテレビのある家に「テレビ見せてください」と行くことが次第に

哀れに見えてきた。

かずは、お金が少し貯まるとなぜか店や家にかけたくなるクセがある

裏の空き地にも平屋の建物を作って、前半分は風呂、後半分は物置にした

店にも木製の冷蔵庫入れたし、運搬車も買った

しかし家族の団らんとなるとそれに費やす道具は一切買わない

しかし息子が「昨日、うちにもテレビが入った夢を見た」と言ったとき

さすがに買う気になったのだった。

テレビが来た日、子供達のボルテージが一気に上がった、陽一は

興奮して舞い上がっているし、妹の由希子は不思議そうにテレビの

四面のあらゆるところから中をのぞき込んでいる

映画のように映写機があるわけでも無いのに、ガラスの中で映画や

スポーツが写るのだから魔法としか思えない。

テレビの導入をリアルタイムで経験した子供達の驚きはとうてい

今の子供にはわからないだろう。

今思えば14インチほどの小さな画面、そして白黒画面で画像も粗い

チャンネルと言っても、リモコン以降の今の人にはわかるまい

丸いダイヤルに1~12まで数字がついていて、それを基点に合わせて

チャンネル選択をする。

だから今でも70歳前後から上の人は別番組に替えたいときは

「チャンネルをまわしてくれ」とか「おーいチャンネルをくれ

(リモコンをくれのつもり)」と言うことがある。

 

もう店を出して5年目に入った、この間、地元での足固めに全力を

注ぎ込んで元旦以外の364日間、休み無しに夫婦で働き、弟の

徳磨のほかに、松子という20代の主婦も店員として雇った

そしてついに、裏に建てた平屋の倉庫を壊して、二階建てにして

小さな母屋とくっつける事を決断した、そして新築の2階を宴会場

とする新たな商売を考えていた。

そんな頃、時々買い物に来ていた沢村貞子似の客、浅草育ちも同じ

三松美鈴の娘、三松京子がたびたび遊びに来るようになった。

京子もまた、母親に似たチャキチャキ娘で、歯切れが良くて早口だ

歳は23歳だという、これがまたこの近所では滅多に見られない美人で

しかも代用教員をしているというから、才女でもあるのだ。

利発そうな大きな目は、またくるくるとせわしく動き回って好奇心の旺盛さも

物語っている

鼻筋も緩やかに高く通っていて、ふっくらとした健康そのものの頬

なのに少しも気取らず、美人を鼻にかけず、「ふ~ん?」「そうなの?」

「え-! ほんとなの?」が口癖、羽に衣を着せぬさっぱりした下町言葉

かずは、この母子と話していると浅草にいる気分に浸れるのだった

そして、それは東京大空襲で死んでしまった浅草のセイ叔母さんと珠子さんを

思い出させるのだった。

そして大事なことを忘れていたことに気づいた、それは生まれ故郷茨城の

古河にある寺、祖祖母、祖母、義祖父が入った墓参りだった

最後に行ったのは義祖父の納骨の時だったから、かれこれ20年が

過ぎたのだった。

思い出した途端、矢も楯もたまらない思いが駆け巡った

「古河に行ってくる」、かずはみつこに、そう言って準備を始めた

この時代、古河は遥かに遠いところであった。