ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
10月9日以来、他の話題に移ったり、お休みいただいたりしていましたが、『フロイト―視野の暗点』(ルイス・ブレガー著、後藤素規・弘田洋二監訳、大阪精神分析研究会訳、里文出版、税込み7,500円)をもとにフロイト派から見たアドラーについて再開します。
今回は、第4回目です。
前回は、フロイトを中心とした心理学「水曜会」が会員が着実に増え、ウィーン以外の他の都市からもフロイトを求める人がやって来るようになった、というところで終わりました。
さて、そのような訪問者の1人は、カール・G・ユング(1875-1961)でした。
ユングはその当時、スイスのチューリッヒにある世界的に有名なブルクヘルツリ精神病院のスタッフである若い精神科医で、精神分裂病(統合失調症)の専門医として高名なオイゲン・ブロイラーの助手として働いていました。
ブロイラーから『夢判断』を読むように勧められ、非常に興味を持って研究したユングは、フロイトに大いに期待し、2人は1906年の4月から文通を始め、翌年ユングは、同僚の精神科医のツートヴィッヒ・ビンスワンガーと2人でフロイトの会いにウィーンにやって来ました。
この最初の出会いからユングは、フロイトの才能と人物に大きな感銘を受け、一方のフロイトは、ウィーンを越えて精神分析を広めようとしてしていたため、ユングを通じてブロイラーの好意を得ようとしていたフロイトは、スイスに精神分析を広められる絶好の機会と捉えました。
ルイス・ブレガーは、フロイトのユングとの関係についてこう書いています。そのまま引用します。
ユングにとって、フロイトの魅力は個人的な要素も職業的な要素もあったが、フロイトの側にとってもこの関係は複雑なものであった。そこには政治的な関心と個人的な魅力が入り混じっていた。ユングとの関係は、ブラウン、フライシェル、フリースとの一連の関係とは別物で、フロイトはユングに身も心も引かれいった。これらの男性たちのそれぞれとの関係の中に、「御しがたい同性愛的リビドー」の残響とフロイトが後に呼ぶことになるものが存在していたのである。
1908年、水曜会はウィーン精神分析学会と名を改め、やがてヨーロッパやアメリカと接触を持つことによって、最初の国際的な会議が開かれる段階となりました。
この会議は、ウィーンとチューリッヒのちょうど中間に位置するザルツブルグで開催されました。
フロイトは場所の設定として、精神分析の2つの主要な中心を考慮していました。
一方はより大きな、もっぱらユダヤ人が中心のウィーン学会で、会議の出席者の半数を占めていました。
もう一方はスイス人たちで、その中でユングが重要な人物となっていました。
ここでは、ユングに「御しがたい同性愛的リビドー」で肩入れするフロイトをマークしておいて下さい。