アドラー心理学に基づく勇気づけの研修(外部研修も)とカウンセリング、コンサルティングを行っています。
アドラー心理学による勇気づけ一筋40年 「勇気の伝道師」   ヒューマン・ギルド岩井俊憲の公式ブログ



おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

今週は、外部でずっと研修の日々を送っています。

昨日(10/20)は、CSLベーリングという外資系企業で「傾聴トレーナー」研修、今日はNTTの研究者向けの指導員研修、夕方新幹線で移動し、大阪で財団法人 地方公務員安全衛生推進協会主催の「メンタルヘルス研修」で「セルフケア―自分自身への勇気づけ」を担当します。


さて、今朝も『フロイト―視野の暗点』(ルイス・ブレガー著、後藤素規・弘田洋二監訳、大阪精神分析研究会訳、里文出版)をもとにフロイト派から見たアドラーについて同書の第14章「アルフレッド・アドラー:最初の反論者」をもとに紹介します。


この箇所では、アドラーの生育歴に触れながら、フロイトとアドラーのほんの少しの共通点と多くの相違点が書かれています。

若い頃のアドラーとフロイトは、共に貧困を経験したが、アドラーの方は労働者階級や貧困者に同一化し、恵まれない子どもたちや低く留め置かれた女性たちに同一化する剥奪的な家族背景から出立した。


フロイトとアドラーが精神分析を実践した患者の社会階層に関するある調査のことが出ていて(1.)、これに続いて2人の人物が比較されます(2.-6.)。
この要点は、次のようです。

1.フロイトの患者の74%は裕福な階層であり、中産階級が33%で労働者階級はわずか3%だったのに対して、アドラーが診た患者は25%が上流階級、中産階級が39%で、下層階級は35%であった。

2.フロイトは格式張って自制が利いており、個人的な、また情緒的な表現は書き物だけに留め、気持ちを打ち明ける相手をあまり持たなかった。一方アドラーは社交好きで、外交的で話好きであった。

3.フロイトが音楽を嫌ったのに対し、音楽好きの家庭に育ったアドラーは、素晴らしいテノールで、頭の中にしばしば音楽が流れていた。

4.2人ともユダヤ人として生まれたが、フロイトは熱心な反宗教主義者であったにもかかわらずユダヤ人としてのアイデンティティを放棄せず、迫害を受けるよそ者としての自分という自己感を自らの一部として持ち続けた。
一方のアドラーは、キリスト教信者の多い地域で生まれ、全く宗教を意識することのない家庭で育ち、子ども時代に反ユダヤ主義に出合うことも自分自身をユダヤ人と考えることもなく、成人してキリスト教に改宗した。しかしアドラーは、宗教を実践せず、自分のことをただウィーン人とだけ考えていた。

5.フロイトは服装や外観にたいへん気を遣ったが。アドラーは気にかけず気ままだった。

6.2人は自分の考えを表現する語彙が非常に異なっていた。フロイトは「リビドー的エネルギー」とか「メタ心理学」とか「死の本能」といった術語を使い、それによって心理学的な観察を擬似生物学的な推量と結びつけて自分の理論に深淵で深みのある雰囲気を与えた。しかしアドラーは、「劣等感」とか「補償」とか「愛」とか「力」といったような日常語で書いたり話したりした。


こうして読んでみると、「この2人が共存するのは困難」と、ほとんどの人が思いますよね。


<お目休めコーナー> 栃木文化会館の噴水(先日と別の角度から)



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おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

『フロイト―視野の暗点』(ルイス・ブレガー著、後藤素規・弘田洋二監訳、大阪精神分析研究会訳、里文出版)をもとにフロイト派から見たアドラーについて今まで6回にわたって書いてきました。

フロイト―視野の暗点
ルイス ブレーガー
里文出版

しばらくフロイトとユングの関係について触れてきました。このことは、フロイトとアドラーとの決別に大きく関係があるからです。

いよいよアドラーの本格的な登場です。

『フロイト―視野の暗点』では、わざわざ第14章を「アルフレッド・アドラー:最初の反論者」としています。

この章の冒頭にはこう書かれています。

1910年のニュルンベルグ会議におけるフロイトの行動は、ウィーン精神分析学会の中に葛藤を引き起こし、アルフレッド・アドラーやヴィルヘルム・シュテーケルは、不公平なやり方に不満を口にした。ウィーン精神分析学会の者は皆、フロイトがユングとスイス人を厚遇し、自分たちを軽く扱ったといって怒りを抱いた。それに加えてフロイトは、自身の教義に反するような考え方に対して不寛容だった。


もともとフロイトは、アドラーのことを「ウィーンで一番の分析家」と呼び、自分の兄アレクサンダーの妻の治療をアドラーに依頼していたほどでしたが、アドラーは、フロイトだけでなく誰の分析も受けていませんでした。

アドラーは、当初からウィーン学会の中で共存して仕事を進めていたのですが、フロイトの側から見ても「弟子」あるいは「信奉者」のしての色合いは薄れ、より独立した理論家となり、そして、フロイトとの決裂は避けがたいものとなったのです。


ところで、フロイト派から「弟子」とよく書かれているアドラーは、この発言に関してどんな思いを持っていたのでしょうか? アドラー自身の見解は、『生きる意味を求めて』(岸見一郎訳、アルテ、2,000円+税)に次のように書かれています。

生きる意味を求めて―アドラー・セレクション
Alfred Adler,岸見 一郎
アルテ

(夢の解釈について)私は彼の誤りから学んだのである。私は一度も精神分析を受けたことはない。
(P.206-207)

続けて憤り気味に次のように書いています。

フロイトと彼の弟子たちは、明らかに自慢するように、私がフロイトの弟子であったということを大いに好む。私が精神分析のサークルでフロイトと大いに論争したからである。しかし、私は一度もフロイトの講義に出たことはないのである。このサークルがフロイトの見解を支持することを誓わせることになったとき、私が最初に彼のもとを去った。
(P.207)


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