おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
『フロイト―視野の暗点』(ルイス・ブレガー著、後藤素規・弘田洋二監訳、大阪精神分析研究会訳、里文出版)をもとにフロイト派から見たアドラーについて今まで6回にわたって書いてきました。
しばらくフロイトとユングの関係について触れてきました。このことは、フロイトとアドラーとの決別に大きく関係があるからです。
いよいよアドラーの本格的な登場です。
『フロイト―視野の暗点』では、わざわざ第14章を「アルフレッド・アドラー:最初の反論者」としています。
この章の冒頭にはこう書かれています。
1910年のニュルンベルグ会議におけるフロイトの行動は、ウィーン精神分析学会の中に葛藤を引き起こし、アルフレッド・アドラーやヴィルヘルム・シュテーケルは、不公平なやり方に不満を口にした。ウィーン精神分析学会の者は皆、フロイトがユングとスイス人を厚遇し、自分たちを軽く扱ったといって怒りを抱いた。それに加えてフロイトは、自身の教義に反するような考え方に対して不寛容だった。
もともとフロイトは、アドラーのことを「ウィーンで一番の分析家」と呼び、自分の兄アレクサンダーの妻の治療をアドラーに依頼していたほどでしたが、アドラーは、フロイトだけでなく誰の分析も受けていませんでした。
アドラーは、当初からウィーン学会の中で共存して仕事を進めていたのですが、フロイトの側から見ても「弟子」あるいは「信奉者」のしての色合いは薄れ、より独立した理論家となり、そして、フロイトとの決裂は避けがたいものとなったのです。
ところで、フロイト派から「弟子」とよく書かれているアドラーは、この発言に関してどんな思いを持っていたのでしょうか? アドラー自身の見解は、『生きる意味を求めて』(岸見一郎訳、アルテ、2,000円+税)に次のように書かれています。
(夢の解釈について)私は彼の誤りから学んだのである。私は一度も精神分析を受けたことはない。
(P.206-207)
続けて憤り気味に次のように書いています。
フロイトと彼の弟子たちは、明らかに自慢するように、私がフロイトの弟子であったということを大いに好む。私が精神分析のサークルでフロイトと大いに論争したからである。しかし、私は一度もフロイトの講義に出たことはないのである。このサークルがフロイトの見解を支持することを誓わせることになったとき、私が最初に彼のもとを去った。
(P.207)