おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。
昨日(10月16日)は、宇都宮の栃木文化会館でNPO法人 セニア・サービスセンター主催の「ピア・カウンセラー養成講座」で10:00-16:00までアドラー心理学と勇気づけの研修を行いました。
(栃木文化会館の庭の噴水)
参加者数38名のうち私の郷里の鹿沼からご参加の方々が10人近くいました。
私のジョークやパーフォーマンスに大いに笑いで反応してくれる人たちで、まるで綾小路きみまろのような気分になった私でした。
さて、『フロイト―視野の暗点』(ルイス・ブレガー著、後藤素規・弘田洋二監訳、大阪精神分析研究会訳、里文出版)をもとにフロイト派から見たアドラーについてお伝えする第5回目です。
1908年にザルツブルグで行われた精神分析の会議では、アドラーは「生活における、そして神経症における加虐性(サディズム)」を発表、ユングは「早発性痴呆(注:いわゆる統合失調症のこと)」についての講義を行いました。
フロイトは、ザルツブルグ会議での成功を気をよくし、ユングを編集長とする最初の精神分析雑誌あるいは年報『精神病理学年報』を創刊しました。
ユングに「御しがたい同性愛的リビドー」で肩入れするフロイトのユングに対する肩入れはますます強まります。
1909年、アメリカの心理学者G・スタンリー・ホールの招待を受けて、フロイトとユングは、ハンガリー人のサンドール・フェレンツィーを加えて渡米。、マサチューセッツ州にあるクラーク大学でフロイトとユングは講義を行いました。
この当時、フロイトとユングは、大変親密な関係にあり、2人の間では頻繁に文通が交わされていました。
アメリカ訪問を機に、精神分析運動による新たな征服がフロイトの中で始動しました。
次の国際会議を1910年にドイツのニュルンベルグで開催することに決め、フェレンツィーには、国際学会を創立し、ユングを終身会長としてチューリッヒで運営することを提議させました。
フロイトは、お気に入りの若いスイス人の精神科医のユングのことを国際的な運動を推進するのに理想的な人物だと確信していたのです。
このことがウィーンの精神分析家たちから大きな反発を受けることになるのです。
<お目休めコーナー> 栃木文化会館の庭