○子安宣邦『昭和とは何であったのか:反哲学的読書論』 藤原書店 2008.7
2003~2007年に雑誌『環』に連載された読書論(書評エッセイ)。ただし、対象は新刊書ではなく、古書ばかりである。しかも、大学勤めを離れて年金生活者になった著者は、「二千円以上の本は買わない」という原則のもと、古書展めぐりを楽しんでいる。したがって、本書に取り上げられている本は、古書店主がゴミと呼んでいるような雑多な本、時代遅れのかつての流布本などである。
たとえば、火野葦平『小説 陸軍』、橘樸『国体論序説』、田辺元『種の論理の弁証法』など。雑誌『文藝春秋』昭和13年新年号は、前年7月の盧溝橋事件に始まった「支那事変」が全面戦争化した時期であるが、この雑誌には、政治・経済・軍事のみならず、風俗・文化・女性・料理に至るまで「支那が溢れている」ことに著者は驚く。「支那事変」とは不思議な戦争である。日本人は、戦争をしながら、熱烈な好奇心をもって「支那」を語り、体験しているのだ。
また、文部省『小学国語読本』巻11(小学六年生が使用)では、賀茂馬真淵と本居宣長の対面「松阪の一夜」が、国民的な物語として形成されていく過程を考える。それにしても、同じ国語読本(小学六年生用)でも、大正12年(1923)版と昭和13年(1938)版の目次を並べてみると、ずいぶん違うことが分かる。前者が「暦の話」「ゴム」「南米より」「リンカーンの苦学」など、科学的知識や国際的な視野をバランスよく採用しているのに対して、後者は「吉野山」「源氏物語」「法隆寺」「皇国の姿」など日本文化・伝統の比重がぐっと高くなる。
だいたい書評のアンソロジーというのは、1篇(1冊)ごとにトーンが異なるので、どんなに質の高い書評でも、まとめて読むと散漫な印象しか残らない。しかし、本書は、著者の問題意識が一貫しているので、その点、読みやすかった。
私がいちばん関心をもったのは、清水安三の自伝的著作『朝陽門外』である。清水安三は桜美林大学の創設者で、北京の朝陽門外に学校を建て、妻美穂とともに、最下級の貧民のために献身した。清水は「わたくしの一生は支那人のために、呉れてしまった」と述べている。今もむかしも、世界中に、歴史の陰に、こういう人たちがいるんだなあと思った。国家の顕彰などとは無縁なままに。私は、まず入手しやすい、山崎朋子の『朝陽門外の虹』(岩波書店、2003)を読んでみようと思う。「ぜひ多くの方々がこの山崎の書によって清水安三たちの記憶を共にもたれることを私は切望する」という、著者のことばをここに引いておく。
2003~2007年に雑誌『環』に連載された読書論(書評エッセイ)。ただし、対象は新刊書ではなく、古書ばかりである。しかも、大学勤めを離れて年金生活者になった著者は、「二千円以上の本は買わない」という原則のもと、古書展めぐりを楽しんでいる。したがって、本書に取り上げられている本は、古書店主がゴミと呼んでいるような雑多な本、時代遅れのかつての流布本などである。
たとえば、火野葦平『小説 陸軍』、橘樸『国体論序説』、田辺元『種の論理の弁証法』など。雑誌『文藝春秋』昭和13年新年号は、前年7月の盧溝橋事件に始まった「支那事変」が全面戦争化した時期であるが、この雑誌には、政治・経済・軍事のみならず、風俗・文化・女性・料理に至るまで「支那が溢れている」ことに著者は驚く。「支那事変」とは不思議な戦争である。日本人は、戦争をしながら、熱烈な好奇心をもって「支那」を語り、体験しているのだ。
また、文部省『小学国語読本』巻11(小学六年生が使用)では、賀茂馬真淵と本居宣長の対面「松阪の一夜」が、国民的な物語として形成されていく過程を考える。それにしても、同じ国語読本(小学六年生用)でも、大正12年(1923)版と昭和13年(1938)版の目次を並べてみると、ずいぶん違うことが分かる。前者が「暦の話」「ゴム」「南米より」「リンカーンの苦学」など、科学的知識や国際的な視野をバランスよく採用しているのに対して、後者は「吉野山」「源氏物語」「法隆寺」「皇国の姿」など日本文化・伝統の比重がぐっと高くなる。
だいたい書評のアンソロジーというのは、1篇(1冊)ごとにトーンが異なるので、どんなに質の高い書評でも、まとめて読むと散漫な印象しか残らない。しかし、本書は、著者の問題意識が一貫しているので、その点、読みやすかった。
私がいちばん関心をもったのは、清水安三の自伝的著作『朝陽門外』である。清水安三は桜美林大学の創設者で、北京の朝陽門外に学校を建て、妻美穂とともに、最下級の貧民のために献身した。清水は「わたくしの一生は支那人のために、呉れてしまった」と述べている。今もむかしも、世界中に、歴史の陰に、こういう人たちがいるんだなあと思った。国家の顕彰などとは無縁なままに。私は、まず入手しやすい、山崎朋子の『朝陽門外の虹』(岩波書店、2003)を読んでみようと思う。「ぜひ多くの方々がこの山崎の書によって清水安三たちの記憶を共にもたれることを私は切望する」という、著者のことばをここに引いておく。