2人の茶人にかかわる展覧会をまとめて紹介しておこう。
■三井記念美術館 特別展 茶人のまなざし『森川如春庵の世界』
http://www.mitsui-museum.jp/index2.html
森川如春庵(本名・勘一郎、1887-1980)は、尾張一宮の大地主森川家の当主であり、近代を代表する茶人のひとりである。私は、名前を見たことがあっても、じょしゅんあん?にょしゅんあん?という具合で、読み方も知らなかった(後者が正しい)。ただ、私の好きな黒楽茶碗『銘・時雨』と赤楽茶碗『銘・乙御前』(どちらも本阿弥光悦作)が出ているというので、ふらふらと出かけた。
うう、やっぱりいいなあ。赤楽茶碗『乙御前』は、口の開きが均一でないので、見る位置によって、ずいぶん印象が変わる。正面から見るとガードが固いが、横や後ろに回ると、あけすけな感じになる。このへんが益田鈍翁のいう「たまらぬものなり」なのかしら。黒楽茶碗『時雨』は、ざらっとした外側と、とろりとした内側の釉薬の風合いの違いが面白い。解説を読んでびっくりしたのは、森川如春庵が16歳で『時雨』を入手し(先代に買い与えられた)、19歳で『乙御前』を所持していたということ。なんてヤツだ!! ”中京の麒麟児”とはよくも言ったものである。
如春庵の優れた審美眼を愛したのが、三井物産の初代総轄にして、伝統にとらわれない新しい茶の湯の提唱者でもあった益田鈍翁(本名・孝、1848-1938)。2人の出会いは大正2年(1913)頃というから、鈍翁65歳、如春庵26歳頃か。39歳の年齢差を感じさせない交友が始まったという。数寄の道を歩み通せば、孫子の世代にも”心の友”が見つかるかも知れない、と思うと、長生きしてみるのも楽しくなるではないか。
■畠山記念館 2008年度秋季展『数寄者 益田鈍翁-心づくしの茶人』
http://www.ebara.co.jp/socialactivity/hatakeyama/
そういえば、畠山記念館では、益田鈍翁を回顧する展覧会が始まっていたはずだ、と思い出して行ってみた。会場では、ズラリ並んだ5点の掛け軸に陶然となる。宗達の『扇面草花図』に、冷泉為恭の白描、秀吉の仮名消息(奔放な筆跡がいい)、そして鈍翁自身の書が2点。脇役らしい、心づくしの表装も見どころ。
可笑しかったのは『布き冨草子』。室町時代の絵巻物『福富草紙』になぞらえて、茶人のカエル(富田宗慶)が、数寄者お代官のキツネ?(鈍翁)を招いて茶席を設けるが、緊張しすぎて、放屁の粗相をしてしまうという、お伽草紙ふうのパロディ絵巻。その瞬間のカエルの表情は必見。展示替え後の後期には、イノシシの森川如春庵も登場するそうだ。鈍翁自ら詞を書き、挿絵は画家の田村彩天に描かせたもの。
畠山記念館の創設者である畠山即翁(1881-1971)もまた、益田鈍翁の年下の友人のひとりだった。鈍翁は、李朝・柿の蔕(へた)茶碗の名品『銘・毘沙門堂』を見出しながら、「隠居の身であるから」という理由で購入をあきらめ、結局、これは即翁のものとなったという。天下の三井財閥の総帥といえども、生涯、金に飽かせた収集をしていたわけではなく、分をわきまえたコレクターだったんだな、ということが分かり、微笑ましかった。
鈍翁は、自作の書画・茶碗もいいが、腕のある工人を庇護したことも、特筆すべき功績だと思う。大野鈍阿作の鶴首花入は、秀吉→利休→水戸徳川家に伝来した名品『鶴の一声』を写したもので、「写し」といえども、凛とした気迫に満ちている。こういうのは、軽々しく「ニセモノ」と呼ぶことができない。骨董は奥が深いなあ。
■三井記念美術館 特別展 茶人のまなざし『森川如春庵の世界』
http://www.mitsui-museum.jp/index2.html
森川如春庵(本名・勘一郎、1887-1980)は、尾張一宮の大地主森川家の当主であり、近代を代表する茶人のひとりである。私は、名前を見たことがあっても、じょしゅんあん?にょしゅんあん?という具合で、読み方も知らなかった(後者が正しい)。ただ、私の好きな黒楽茶碗『銘・時雨』と赤楽茶碗『銘・乙御前』(どちらも本阿弥光悦作)が出ているというので、ふらふらと出かけた。
うう、やっぱりいいなあ。赤楽茶碗『乙御前』は、口の開きが均一でないので、見る位置によって、ずいぶん印象が変わる。正面から見るとガードが固いが、横や後ろに回ると、あけすけな感じになる。このへんが益田鈍翁のいう「たまらぬものなり」なのかしら。黒楽茶碗『時雨』は、ざらっとした外側と、とろりとした内側の釉薬の風合いの違いが面白い。解説を読んでびっくりしたのは、森川如春庵が16歳で『時雨』を入手し(先代に買い与えられた)、19歳で『乙御前』を所持していたということ。なんてヤツだ!! ”中京の麒麟児”とはよくも言ったものである。
如春庵の優れた審美眼を愛したのが、三井物産の初代総轄にして、伝統にとらわれない新しい茶の湯の提唱者でもあった益田鈍翁(本名・孝、1848-1938)。2人の出会いは大正2年(1913)頃というから、鈍翁65歳、如春庵26歳頃か。39歳の年齢差を感じさせない交友が始まったという。数寄の道を歩み通せば、孫子の世代にも”心の友”が見つかるかも知れない、と思うと、長生きしてみるのも楽しくなるではないか。
■畠山記念館 2008年度秋季展『数寄者 益田鈍翁-心づくしの茶人』
http://www.ebara.co.jp/socialactivity/hatakeyama/
そういえば、畠山記念館では、益田鈍翁を回顧する展覧会が始まっていたはずだ、と思い出して行ってみた。会場では、ズラリ並んだ5点の掛け軸に陶然となる。宗達の『扇面草花図』に、冷泉為恭の白描、秀吉の仮名消息(奔放な筆跡がいい)、そして鈍翁自身の書が2点。脇役らしい、心づくしの表装も見どころ。
可笑しかったのは『布き冨草子』。室町時代の絵巻物『福富草紙』になぞらえて、茶人のカエル(富田宗慶)が、数寄者お代官のキツネ?(鈍翁)を招いて茶席を設けるが、緊張しすぎて、放屁の粗相をしてしまうという、お伽草紙ふうのパロディ絵巻。その瞬間のカエルの表情は必見。展示替え後の後期には、イノシシの森川如春庵も登場するそうだ。鈍翁自ら詞を書き、挿絵は画家の田村彩天に描かせたもの。
畠山記念館の創設者である畠山即翁(1881-1971)もまた、益田鈍翁の年下の友人のひとりだった。鈍翁は、李朝・柿の蔕(へた)茶碗の名品『銘・毘沙門堂』を見出しながら、「隠居の身であるから」という理由で購入をあきらめ、結局、これは即翁のものとなったという。天下の三井財閥の総帥といえども、生涯、金に飽かせた収集をしていたわけではなく、分をわきまえたコレクターだったんだな、ということが分かり、微笑ましかった。
鈍翁は、自作の書画・茶碗もいいが、腕のある工人を庇護したことも、特筆すべき功績だと思う。大野鈍阿作の鶴首花入は、秀吉→利休→水戸徳川家に伝来した名品『鶴の一声』を写したもので、「写し」といえども、凛とした気迫に満ちている。こういうのは、軽々しく「ニセモノ」と呼ぶことができない。骨董は奥が深いなあ。