関西旅行2日目(5/3)。大阪の江坂を出て、京阪電車の八幡市に向かう。今年のゴールデンウィークは涼しい(というか、寒い)ので、駅前の喫茶店で朝食を食べようとしたら、ストーブを焚いていた。
■石清水八幡宮(京都府八幡市)
ずいぶん昔に来たことがあるはずだが、ほとんど記憶がない。ケーブルカーで男山の上に上がると、すぐ本殿。本殿の向かって右横に特別公開の受付があり、回廊の中に入れてもらえる。色鮮やかな装飾を間近に見ながら、本殿の裏側をぐるりと半周することができる。色鮮やかなのも道理で、ホームページの説明によれば、御本殿は平成21年3月に修復を終えてまもないらしい。
出口(向かって左)の門に待機していた説明員の方が、回廊の上の装飾に「左甚五郎作」の猿が彫られていて、夜な夜な抜け出して悪さをするので、片目を釘で打ち付けられてしまった、という「目貫の猿(めぬきのさる)」の話をしてくれた。それを聞いて、対照となる入口の門の上には、どんな装飾があったか、気になり始めた。説明員の方に聞いても分からないというので、引き返して見にいくと、水鳥のような装飾があった。十二支というわけではないみたいだ。
途中で別の説明員の方が「あまりご説明はしていないのですが、建築など見るのがお好きなようなので」と教えてくれたのは、本殿に設けられた黄金の樋(とい)。織田信長の寄進による。回廊からはチラリと見える程度。危急のときの財源とする意図もあったという。神仏嫌いのイメージのある信長だが、源氏の氏神である八幡宮に対しては、ずいぶん殊勝なことをしているんだな。ふと中国湖北省で訪ねた武当山の金殿を思い出す。
次に書院にて宝物を拝観。見ものは、今季特別公開のポスターなどに盛んに取り上げられている木造女神坐像である。会場には、もう1体、写真で見たのとは別の女神像も出ていた。大きさは30cmくらい。室町時代とある。平成3年(1991)本殿西北隅の校倉内からバラバラの木片状態で発見され、復元された1体だが、昭和7年頃の刊行物に絵入りで紹介されており、昭和9年の室戸台風で本殿が甚大な被害を蒙り、大修理が必要となった際、とりあえず校倉に搬入され、忘れられたのではないか、という推測が記されていた。決して過去だけのことではなくて、平成の大震災やその他の災害でも、同様の運命をたどって、いま忘れ去られている文化財があるのではないかなあ、と感じた。こちらの女神像は、衣の左胸に一輪の花の文様が見られる。両腕の先は欠損しているが、右手を膝上におろし、左手は胸の前にあげて(何か持物を有して)いた様子。
もう1体、ポスターになっている女神像のほうが、襟のひらひらなど唐風を感じる装い。両手は体の前で拱手する。ケースの背面が鏡になっていて、覗き込むと自分の顔が映るのでびっくりするが、背面が見やすいのでありがたい。二体ともベストを着ているように見えるが、背中を見ると、体に密着した領巾(スカーフ)の表現だと分かる。この時代の女神像は、ふんわりセミロングヘアが基本なんだな。
ほかに信長朱印文書、秀吉朱印文書、境内全図、江戸期の舞楽屏風など。変わったところで、堂本印象筆『八幡太郎義家社参之図』(昭和13年)は、皇軍慰問用絵葉書の原画だという。京阪電車が50万枚を制作し、石清水八幡宮に寄贈、参詣者に配られたそうだ。武運長久の神様だものなあ。
ところで、女神像が発見された「本殿西北の隅の校倉」というのが気になったので、本殿に戻って探してみる。東西南北がよく分からないので、神職の方に聞いてみると、向かって左奥の建物を教えてくれた。現在は「清め衣納所」の札が掲げられている。
■絲杉山 神応寺(神應寺)(京都府八幡市)
いったんケーブルカーで駅前まで下り、商店街を迂回して、石清水八幡宮の参道口から少し登る。平成24年8月の豪雨の影響で裏参道が通行止めになっているため、このコースが早いと教えられた。
山門までは大したことのない上り坂だったが、その奥に息の切れる階段が待っている。でも多様な宝物に出会うことができて、訪ねる価値あり。広い方丈に入ると、右奥の狩野山雪筆障壁画(傷み激しく、これはいまいち)、中央の本尊・小さな薬師如来、左奥の豊臣秀吉像と行教律師坐像の説明を受ける。行教像は平安時代の像(9世紀の特徴あり)だというが、そんな古い時代の肖像彫刻って、かなり珍しいのではなかろうか。
参拝客の様子を見ていると、方丈の説明だけ聞いて帰ってしまう人もいた。お寺の方も、説明員の学生さんも、それをあまり引き止めようとしないのがもったいない。私がこのお寺に来たのは、もうひとつ中国絵画っぽい普賢菩薩像の写真を見たからで、きょろきょろしていると、廊下をわたって、書院へ「順路」が設定されている。その床の間に見たかった普賢菩薩像の掛軸が掛かっていた。文化財指定にはなっていないようだが、かなり精緻で美しい。普賢菩薩が左手に掲げる経典が巻子本でなく経本(折本)なのが、ちょっと珍しい気がする。床の間の隣りの違い棚は伏見城の遺構と伝えられ、朱印を入れておく非常持出用(?)の笈があったり、いろいろ面白かった。いま京博に出品中の狩野山雪筆『竹虎図杉戸絵』(居眠りするお父さん虎+カメラ目線のメス子虎+オス子虎)も、ふだんはここにあるらしい。
方丈に戻る途中の仕切り戸に、神応寺の普賢菩薩掛軸の写真を大きく使った今季特別拝観のポスターが貼られていた(何バージョンかあるようだ)。お寺の方(奥様?)に「これ、いいですよね」と話しかけたら「そうなの、女神はんを抑えて、山寺がんばったでしょ!」と嬉しそうだった。拝観者が増えて「一番喜んではるのは仏様だと思うわ」とおっしゃったのが印象的だった。窓からは八幡駅方面を見下ろす絶景。「奥の院にもぜひ寄っていらっしゃい」と勧められた。実は、また階段なら遠慮しておこうと思っていたのだが「いいえ、すぐですよ。不動堂があるの。せっかくここまで表の階段を上がっていらしたんだから、全部見ていってください」という。さっき、制多迦童子像・矜羯羅童子像の「市指定文化財」の証書が飾られているのを見て、方丈にはなかったなあ、と思っていたところなので、行ってみることにした。
確かに本堂から奥の院への道はなだらかだった。奥に観音堂、手前に不動堂がある。本尊の不動明王は秘仏で、2010年3月27~31日に約70年ぶりのご開帳があったそうだ。制多迦・矜羯羅の両像は拝観できる。等身大に近いくらいの大きさなので、本尊はさらに大きいのかと思ったら「いや、そのお厨子に入っているよ」と檀上の小さなお厨子を示された。畳敷きの不動堂は堂守さんの詰所を兼ねていて、冷蔵庫から何やら取り出し、炬燵で昼食をとるおじいちゃんたちになごんだ。私も老後はこういう生活がしたい。
神応寺には、豪商・淀屋辰五郎、大奥総取締・右衛門佐(えもんのすけ)、飛行機を制作した二宮忠八の墓所もあるという。以上は、説明員の学生さんやお寺の方も教えてくれたこと。ところが、あとで特別拝観の「拝観の手引」を読んだら、長澤蘆雪の墓もあるという。え!なんと! 探してお参りしてくるんだった…。というか、一般人は「長澤蘆雪」と聞いても反応しないんだろうなあ。私は逆に、右衛門佐が誰だか分からなくて、あとで調べたのである。
2日目午後の奈良編は、稿をあらためて。
■石清水八幡宮(京都府八幡市)
ずいぶん昔に来たことがあるはずだが、ほとんど記憶がない。ケーブルカーで男山の上に上がると、すぐ本殿。本殿の向かって右横に特別公開の受付があり、回廊の中に入れてもらえる。色鮮やかな装飾を間近に見ながら、本殿の裏側をぐるりと半周することができる。色鮮やかなのも道理で、ホームページの説明によれば、御本殿は平成21年3月に修復を終えてまもないらしい。
出口(向かって左)の門に待機していた説明員の方が、回廊の上の装飾に「左甚五郎作」の猿が彫られていて、夜な夜な抜け出して悪さをするので、片目を釘で打ち付けられてしまった、という「目貫の猿(めぬきのさる)」の話をしてくれた。それを聞いて、対照となる入口の門の上には、どんな装飾があったか、気になり始めた。説明員の方に聞いても分からないというので、引き返して見にいくと、水鳥のような装飾があった。十二支というわけではないみたいだ。
途中で別の説明員の方が「あまりご説明はしていないのですが、建築など見るのがお好きなようなので」と教えてくれたのは、本殿に設けられた黄金の樋(とい)。織田信長の寄進による。回廊からはチラリと見える程度。危急のときの財源とする意図もあったという。神仏嫌いのイメージのある信長だが、源氏の氏神である八幡宮に対しては、ずいぶん殊勝なことをしているんだな。ふと中国湖北省で訪ねた武当山の金殿を思い出す。
次に書院にて宝物を拝観。見ものは、今季特別公開のポスターなどに盛んに取り上げられている木造女神坐像である。会場には、もう1体、写真で見たのとは別の女神像も出ていた。大きさは30cmくらい。室町時代とある。平成3年(1991)本殿西北隅の校倉内からバラバラの木片状態で発見され、復元された1体だが、昭和7年頃の刊行物に絵入りで紹介されており、昭和9年の室戸台風で本殿が甚大な被害を蒙り、大修理が必要となった際、とりあえず校倉に搬入され、忘れられたのではないか、という推測が記されていた。決して過去だけのことではなくて、平成の大震災やその他の災害でも、同様の運命をたどって、いま忘れ去られている文化財があるのではないかなあ、と感じた。こちらの女神像は、衣の左胸に一輪の花の文様が見られる。両腕の先は欠損しているが、右手を膝上におろし、左手は胸の前にあげて(何か持物を有して)いた様子。
もう1体、ポスターになっている女神像のほうが、襟のひらひらなど唐風を感じる装い。両手は体の前で拱手する。ケースの背面が鏡になっていて、覗き込むと自分の顔が映るのでびっくりするが、背面が見やすいのでありがたい。二体ともベストを着ているように見えるが、背中を見ると、体に密着した領巾(スカーフ)の表現だと分かる。この時代の女神像は、ふんわりセミロングヘアが基本なんだな。
ほかに信長朱印文書、秀吉朱印文書、境内全図、江戸期の舞楽屏風など。変わったところで、堂本印象筆『八幡太郎義家社参之図』(昭和13年)は、皇軍慰問用絵葉書の原画だという。京阪電車が50万枚を制作し、石清水八幡宮に寄贈、参詣者に配られたそうだ。武運長久の神様だものなあ。
ところで、女神像が発見された「本殿西北の隅の校倉」というのが気になったので、本殿に戻って探してみる。東西南北がよく分からないので、神職の方に聞いてみると、向かって左奥の建物を教えてくれた。現在は「清め衣納所」の札が掲げられている。
■絲杉山 神応寺(神應寺)(京都府八幡市)
いったんケーブルカーで駅前まで下り、商店街を迂回して、石清水八幡宮の参道口から少し登る。平成24年8月の豪雨の影響で裏参道が通行止めになっているため、このコースが早いと教えられた。
山門までは大したことのない上り坂だったが、その奥に息の切れる階段が待っている。でも多様な宝物に出会うことができて、訪ねる価値あり。広い方丈に入ると、右奥の狩野山雪筆障壁画(傷み激しく、これはいまいち)、中央の本尊・小さな薬師如来、左奥の豊臣秀吉像と行教律師坐像の説明を受ける。行教像は平安時代の像(9世紀の特徴あり)だというが、そんな古い時代の肖像彫刻って、かなり珍しいのではなかろうか。
参拝客の様子を見ていると、方丈の説明だけ聞いて帰ってしまう人もいた。お寺の方も、説明員の学生さんも、それをあまり引き止めようとしないのがもったいない。私がこのお寺に来たのは、もうひとつ中国絵画っぽい普賢菩薩像の写真を見たからで、きょろきょろしていると、廊下をわたって、書院へ「順路」が設定されている。その床の間に見たかった普賢菩薩像の掛軸が掛かっていた。文化財指定にはなっていないようだが、かなり精緻で美しい。普賢菩薩が左手に掲げる経典が巻子本でなく経本(折本)なのが、ちょっと珍しい気がする。床の間の隣りの違い棚は伏見城の遺構と伝えられ、朱印を入れておく非常持出用(?)の笈があったり、いろいろ面白かった。いま京博に出品中の狩野山雪筆『竹虎図杉戸絵』(居眠りするお父さん虎+カメラ目線のメス子虎+オス子虎)も、ふだんはここにあるらしい。
方丈に戻る途中の仕切り戸に、神応寺の普賢菩薩掛軸の写真を大きく使った今季特別拝観のポスターが貼られていた(何バージョンかあるようだ)。お寺の方(奥様?)に「これ、いいですよね」と話しかけたら「そうなの、女神はんを抑えて、山寺がんばったでしょ!」と嬉しそうだった。拝観者が増えて「一番喜んではるのは仏様だと思うわ」とおっしゃったのが印象的だった。窓からは八幡駅方面を見下ろす絶景。「奥の院にもぜひ寄っていらっしゃい」と勧められた。実は、また階段なら遠慮しておこうと思っていたのだが「いいえ、すぐですよ。不動堂があるの。せっかくここまで表の階段を上がっていらしたんだから、全部見ていってください」という。さっき、制多迦童子像・矜羯羅童子像の「市指定文化財」の証書が飾られているのを見て、方丈にはなかったなあ、と思っていたところなので、行ってみることにした。
確かに本堂から奥の院への道はなだらかだった。奥に観音堂、手前に不動堂がある。本尊の不動明王は秘仏で、2010年3月27~31日に約70年ぶりのご開帳があったそうだ。制多迦・矜羯羅の両像は拝観できる。等身大に近いくらいの大きさなので、本尊はさらに大きいのかと思ったら「いや、そのお厨子に入っているよ」と檀上の小さなお厨子を示された。畳敷きの不動堂は堂守さんの詰所を兼ねていて、冷蔵庫から何やら取り出し、炬燵で昼食をとるおじいちゃんたちになごんだ。私も老後はこういう生活がしたい。
神応寺には、豪商・淀屋辰五郎、大奥総取締・右衛門佐(えもんのすけ)、飛行機を制作した二宮忠八の墓所もあるという。以上は、説明員の学生さんやお寺の方も教えてくれたこと。ところが、あとで特別拝観の「拝観の手引」を読んだら、長澤蘆雪の墓もあるという。え!なんと! 探してお参りしてくるんだった…。というか、一般人は「長澤蘆雪」と聞いても反応しないんだろうなあ。私は逆に、右衛門佐が誰だか分からなくて、あとで調べたのである。
2日目午後の奈良編は、稿をあらためて。