見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

「侠」の三国志、「幻」の西遊記/中国の五大小説(井波律子)

2008-05-07 23:58:22 | 読んだもの(書籍)
○井波律子『中国の五大小説(上)三国志演義・西遊記』(岩波新書) 岩波書店 2008.4

 明代に完成した『三国志演義』『西遊記』『水滸伝』『金瓶梅』の「四代奇書」に、清代に書かれた『紅楼夢』を加えて「五大白話長編小説(五大小説)」と呼ぶ。本書は、上下2冊で、この長大な五大小説の梗概と読みどころを紹介しようというもの(下巻は未刊)。

 どうなのかなあ。前半の『三国志』は、1,000人を超える登場人物が織りなす一大巨編。それを12章170ページほどで紹介しようというのだから、荒業である。各章の冒頭には名場面の訳出が掲げられ、なるべく略さずに筋を追う努力が払われている。大要を知っている人なら、そう、そんな場面もあった、とか、そんな登場人物もいたいた!と膝を打って楽しめると思うが、初めてこの複雑なストーリーに触れる読者には、どこまで分かるのな?と首をひねった。いや、今時の若者は、ストーリーなど知らなくても、名場面と名キャラだけで楽しめるのだろうか。

 今回、私が認識を改めたキャラは呂布。強い武将だとは思っていたけど、美将のイメージはあまりなかった。それは、著者が書いているとおり、「爽快感がなく、マイナスのイメージ」がつきまとうためである。にもかかわらず、呂布は美将であったらしい。「らしい」というのは、ちょっと著者の願望が加わっているような気もするので。しかし、類い稀な武勇と美貌を備えながら、同時に「邪気に満ちた貪婪さ」の持ち主(→知性と理性に欠ける)という設定が、ある種悲劇的で、蠱惑的である。

 曹操もいい。智謀に長けたリアリストなのに、強くてカッコいい武将を見ると、自分のものにしたくてたまらなくなる。その偏愛に応えて、多くの剛勇無双の武将たちが曹操に忠誠を誓った。蜀の武将では、私は趙雲が好きだ。「趙雲は、呂布のような美将軍ではありませんが、惚れ惚れするような颯爽感のある人です」という著者の評言に同感した。「演義」の作者は、関羽びいきであるというのにも納得。

 『三国志』では、どうしても第一世代の武将たちの活躍に目が釘付けになってしまうので、三国終焉の幕を引いた世代の印象は薄い。本書の著者は、劉禅(劉備の息子)の能天気ぶりに注目を促す。こんなふうに終わる長編小説は世界に類がなく、「幾度となく王朝の興亡を経験した長い歴史をもつ中国で生まれた物語ならではの、開き直った明るい達観」があるという。傾聴すべき意見である。

 後半は『西遊記』。この物語は、西天取経の旅が始まって以降は、予定調和のゴールに向かって「八十一難」をクリアしていくゲームみたいなものなので、ざっくりダイジェストで紹介されても、あまり違和感がない。

 興味深いのは、清浄無垢な高僧であっても「凡胎」の三蔵法師と、だらしのない俗物の猪八戒に、「食い意地」という親近性が見られる、という指摘。『西遊記』に先行する語り物のテキスト『大唐三蔵取経詩話』には、三蔵を食欲旺盛の大食漢とする説があるという。なんだか親しみが湧く。

 冒頭に設けられた、五大小説の書誌学レファレンスは、何かと参考になりそう。また『西遊記』は、かなり時代が下った明代中期に成立したので、文法的によく整理された文章で読みやすい、という指摘も興味深かった。『演義』は基本的に文言、『水滸伝』は語りの痕跡が強いそうだ。いつか原語で読んでみるなら『西遊記』か。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人のいない風景/岡鹿之助展(ブリヂストン美術館)

2008-05-06 23:46:44 | 行ったもの(美術館・見仏)
○ブリヂストン美術館 『岡鹿之助展』

http://www.bridgestone-museum.gr.jp/

 日本人の描く洋画(油絵)に、私の関心が向き始めたのは、実はごく近年のことである。そんな中で、岡鹿之助という画家を意識したのは、比較的早い。2004年、葉山の神奈川県立近代美術館で行われた『近代日本絵画に見る「自然と人生」展』で、彼の代表作『雪の発電所』を見た。

 タイトルどおり、雪の発電所風景を描いた何の変哲もない作品である。いかにもモダニズム建築らしい、箱型の発電所。どっしり安定した三角形の山。素朴な幾何学的造型の後ろから沁み出してくるような、不思議な懐かしさを感じて、私は、岡鹿之助という名前を記憶に留めた。

 岡は、あまり多様な題材に挑戦した画家ではない。むしろ、同じモチーフを繰り返し描いた。そこで、本展は岡が好んだ9つの題材「海」「掘割」「献花」「雪」「燈台」「発電所」「群落と廃墟」「城館と礼拝堂」「融合」に沿って、作品70点を紹介している。

 すぐに気がつくのは、岡の作品には、ほとんど人物が描かれないということだ。人物画はまったく無い。ごくまれに、波止場や掘割を題材とした作品に、目鼻立ちも分からないような人物が小さく、曖昧に描かれているくらいである。しかし、人のいない風景画であるにもかかわらず、岡の作品は、どこか人間臭い。発電所にしろ、燈台にしろ、いつも人間が作った造型が中心テーマになっているためだろう。雪道に続く車輪の痕も、何気なく止めおかれた荷車も、そこに人の生活がある(あり得る)ことを予感させる。ついでに言えば「献花」のセクションで、繰り返し描かれているパンジーの花に、岡は「人の顔」を見ていたそうで、これまた微笑ましい人間臭さというか、人恋しさを感じさせる。

 岡の作品は、いつも無人であるけれど「孤独」とか「孤高」という言葉は似合わない。むしろ、対立や摩擦など困った人間関係のない、静かで安らかな幸福感が満ちているように思う。かなうことなら、私は、岡の作品を寝室に飾りたい。そして、夢の中で、岡の描いた発電所や城館に駆け入って、その内側に身を潜めてしまいたいと願う。二度と誰にも見つからないように。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉で舞楽を愉しむ

2008-05-05 23:14:06 | なごみ写真帖
5月5日、鶴岡八幡宮では「菖蒲祭」が行われる。私のお楽しみは、東京楽所(とうきょうがくそ)による舞楽の奉納。炎天下で1時間も立ち見するのは、ちょっと辛い年もある。今年は曇り空で過ごしやすかった。



↓「北庭楽(ほくていらく)」。壱越調、中曲、早八拍子、左方の平舞、舞人四人。オレンジ色の袍(うえのきぬ)が、とてもきれい。裾の裏の紺色が見え隠れするのもセンスがいい。足首を飾るポンポンも可愛い。



↓「林歌(りんが)」。高麗平調、小曲、四拍子、右方の平舞、舞人四人。一見プレーンな装束には、背にも腹にも袖にも、ネズミの刺繍が! 甲(かぶと)も変わった形(紙製らしかった)。



最後の「長慶子」を聴かずに退席し、北鎌倉に急いだ。東慶寺の「仏像特別展」(15時30分まで)を見に行こうと思ったのだ。

そうしたら、建長寺の前の長寿寺が開いている! 思わず、ふらふらと山門を入ってしまった。これまで基本的に非公開であったが、耳に挟んだ会話によれば、とりあえず5、6月の金土日は一般公開の予定だそうだ(5/10は除く)。ひろびろした苔庭が美しい。足利尊氏の墓といわれる石塔にお参り。

結局、東慶寺の宝蔵公開には間に合わなかった。しょうがないや。尊氏公に引き止められたと思おう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福の源/神秘家水木しげる伝(水木しげる)

2008-05-04 13:27:04 | 読んだもの(書籍)
○水木しげる『神秘家水木しげる伝』 角川書店 2008.4

 あ、水木先生の自伝マンガだ、と思って立ち読みを始めたら、どんどん引き込まれて買わざるを得なくなってしまった。角川書店の雑誌『怪』に連載されていたものだという。

 私は、幼少期から水木マンガが大好きだった。そのことは、以前、『大(Oh!)水木しげる展』の感想に書いたことがある。1970年代、中学生になると、周囲は少女マンガ一色だった。萩尾望都、竹宮恵子、池田理代子など少女マンガの全盛期だったし。その中で「水木しげるが好き」なんて公言すると、かなり仲のいい友人からも、変な眼で見られたものだ。それでもあの、不定形なのにどこか硬質の質感のある、縹渺とした独特の絵が好きだった。いま、私は、自分の好悪を捨てなくてよかった、と思っている。

 本書に淡々と語られているエピソードには、なかなかすごいものもある。幼少期の水木少年は「人は死んだらどうなるか」という関心に取り付かれ、ある日、弟を海に突き落として「実験」しようとした。弟はたまたま通りかかったおじさんに救われ、水木少年はこっぴどくお灸をすえられたというが、これが「成功」していたら、立派な犯罪少年である。「好きなことにしか興味がない」から、就職してもすぐクビ、朝から晩まで黙って絵を描いていたら、あるとき、声がつかえて、うまく喋れなくなってしまったという。今のニートと変わるところがない。

 戦地で片腕を失い、復員後はマンガ家となって貧乏暮らし。〆切1週間前は絶食状態。電気を切られてロウソクの灯りでマンガを描いたとか、申告所得があまりにも少ないので税務署が不審がってやってきたとか、「世の中にこんなに働いても、こんなに貧乏な商売があるなんて」と妻(40歳目前、見合いの翌日に結婚)に不思議がられる。要するに、犯罪少年(一歩手前)→ニート→ワーキング・プアと、見事に「落ちこぼれ」の前半生なのだ。

 けれども、今の「ワーキング・プア」と呼ばれる人たちと何が決定的に違うかといえば、「その頃のぼくをささえていたのは、ただ自信だけだった/作品の”自信”ではなく、生きることの”自信”だった、エヘン/しかし、これには悲愴感はなく、むしろ「絶対に生かされる」という楽天的な信念だった」という部分ではないかと思う。この自信は、現代に比べれば、当時(昭和30年代)はまだ社会全体に共有されていたものだと思うが、とりわけ、精霊や妖怪や死者と交信できる水木先生には強かったのだろうと思う。

 昭和40年代以降の水木先生の活躍は知られるとおり。でも、ご本人は相変わらずだ。妖怪たちに生かされ、招かれ、支えられ、時にはこき使われていると感じながら、百歳を目指している。そんな水木先生を慕って、京極夏彦、荒俣宏ら、さまざまな人たちが集まっているのも周知の通り。水木先生といると不思議と幸せな気持ちになれるそうで、荒俣宏氏は、この感染力の強いナニモノかを「幸福菌」と名付けたそうだ。次女・水木悦子さんのあとがきは「この本を読んで下さった方々にも『幸福菌』が感染しますように」と結ばれる。幸せな本である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日米修好の始まり/ペリー&ハリス(江戸東京博物館)

2008-05-03 23:25:57 | 行ったもの(美術館・見仏)
○江戸東京博物館 開館15周年記念特別展『ペリー&ハリス~泰平の眠りを覚ました男たち~』

http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/

 安政5年(1858)、日米の本格的な通商の開始を意味する『日米修好通商条約』が結ばれてから150年。これを記念し、米海軍提督ペリーと初代駐日米国総領事ハリスに焦点をあて、幕末の対外関係を紹介する展覧会である。
 
 嘉永6年(1853)、ペリー率いる4隻の黒船が浦賀に入港、久里浜に上陸した。初めて知ったのは、ペリーの艦隊が、大西洋→ケープタウン→シンガポール→上海→琉球を経由して来航したということ。私は、太平洋を横断してきたものと勝手に思い込んでいた。アメリカにとっての日本は、太平洋を挟んで向かい合う「隣国」ではなくて、まさに「極東」の国だったのだなあ、と思った。ペリー著『日本遠征記』には、琉球の王城で歓待を受ける一行の姿が挿絵入りで紹介されている(この原稿が、アメリカ公文書館にあるというのも意外)。

 本展には、アメリカから、当時を物語る資料が多数出品されている。ビーバー皮の三角帽や、意外としょぼいサーベルとか。ペリー艦隊が久里浜に掲げた星条旗(日本に初めて上陸したアメリカ国旗)は、よく見ると、等幅の赤白の帯を交互に縫い合わせて縞模様を作っている。星も縫いつけである。この星条旗は、1945年、日本が降伏文書に調印する際、マッカーサーがミズーリ艦上に掲げさせたものでもあるそうで、二重に感慨深い。

 嘉永7年(1854)、『日米和親条約』調印。日本側原本は、江戸城火災により焼失しており、本展には、アメリカ国立公文書館が保存する原本が出品されている。英語・日本語・中国語(漢文)・オランダ語の4カ国語の調印書があるが、日本側の全権代表・林大学頭は、意を解さない英語版へのサインを拒否したため、英語版にはペリーのサインしかない。いいのか、それで? オランダ語版には「Moriyama」という日本名のサインが読み取れた。調べてみたら阿蘭陀通詞の森山栄之助らしい。

 後半の主人公は、初代駐日公使となったタウンゼント・ハリス。幕臣たちの混乱・逡巡に動じず、『日米修好通商条約』の締結によって、実質的に日本を開国に導いた。日本人に対しては、なんとなく恫喝的・高圧的で嫌なヤツだと思っていたが、本国では、医療・消防・教育などの公共事業に功績のある人物であることを初めて知った。また、5年9ヶ月の滞在ののち、(幕臣たちに)「惜しまれながら去った」という解説を読んで、ちょっと意外だった。嫌われてはいなかったのか。墓所はニューヨークのブルックリンにあるとのこと。ニューヨークに行ったとき、墓参してくればよかった。

 日本に残る資料から読み解く、日本側の対応も興味深い。時代が遡るが、『阿蘭陀風説書』(寛政9年=1797)は、現存する同書の唯一の原本だそうだ。オランダとフランスの戦争、トルコとロシアの戦争など、徳川幕府の上層部は、結構しっかりと国際情勢を把握していたことが分かる。幕末の『鴉片始末』『阿蘭陀機密風説書』などは、日本の命運に直結した、より緊迫した国際情勢を伝える。一方で、錦絵で民間に流布したペリー像の牧歌的なことは、苦笑するしかない。

 会場内は、いつになく西洋人の姿が多かった(やっぱりアメリカ人かな?)。なお、展示図録には、資料解説と別に、これら文書(展示箇所)の釈文(翻刻)が掲載されている。これには感激した。江戸博って、ハコもの行政の遺産と思われているフシがあるけど、いい仕事をしているのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメリカン・ドリームの極北/ルポ貧困大国アメリカ(堤未果)

2008-05-02 23:05:17 | 読んだもの(書籍)
○堤未果『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書) 岩波書店 2008.1

 気になるままに放っていたら、あれよあれよという間にベストセラーになってしまった。しかし、話題の沸騰度とは別に、読む価値のある1冊だと思う。

 超大国アメリカの内部で、普通の(だったはずの)人々の暮らしがどうなっているかを、赤裸々に伝えるルポルタージュ。マイホームを夢見て、サブプライムローンに手を出し、膨大な借金を抱え込んだ家族。ファーストフード・チェーンと提携することで、少ない予算をやりくりし、貧困家庭向けの無料給食を実現している公立学校。その結果、生み出されるジャンクフード漬けの肥満児童。世界一高い医療費で破産する中間層。市民権の取得や学費免除につられて、軍に入隊する若者。アメリカ国内だけの話ではない。今や世界中の貧困層がリクルートされ、イラクで「民営化された戦争」を支えているという。恐ろしい話だ。

 これは、不安を煽りすぎる書き方なのではないか、と何度も疑った。しかし、数字は嘘をつかない。たとえば、先進国中で最も高い(日本の倍近い)といわれる乳児死亡率。本書の数字とやや異なるが、厚生労働省の実績評価書で検証することができる。「盲腸手術入院の都市別総費用ランキング」の出典はこれかな? 最新データは、本書掲載分(2000年)より下がっているが、それでもニューヨークでは2日入院で200万円近い。私は経験がないが、日本なら30万円を超えることはまずない、という。「一度の病気で貧困層に転落する」というのも、誇張でないと思われる。

 今日の事態を引き起こしたのは、「自由競争」という言葉に弱い、アメリカ人の性(さが)である。自由競争の下でこそ、サービスの質の向上が図られ、国民の福祉は増大する、そして勝者はアメリカン・ドリームを手に入れる、と予想されていた。しかし、「教育」「医療」「災害対策」など、国家が国民に責任を負うべき業務に「市場原理」が導入された結果、中間層は貧困層へ、貧困層は最貧困層へ、ものすごいスピードで転落しつつあるという。

 さらに、9.11以降「ルール無用」の段階に進んだ「戦争ビジネス」は、貧困層に「いのち」の切り売りを強いている。クウェート勤務と聞いていたのにイラクに派遣され、仕事はトラック整備士のはずが、銃弾の飛ぶ中で、劣化ウラン弾を取り扱う。それでも、生きる(食べる)ために嫌と言えない人々。前近代の農奴制か?と疑うような事例が、いくつも紹介されている。これを読んでしまうと、日本の自衛隊の派遣先が非戦闘地域か否かなんて議論は、国際社会では、ほとんど寝言にしか聞こえないだろうなあ、と思う。

 やっぱり、全ての人が人間らしい生活を営むためには、「市場原理」で回してはいけない仕事があるのだ。「民営化」でバラ色の未来が開けると思った人たちは、そろそろ自分の間違いを認めなければならないと思う。それと同時に、これまで近代の成功した資本主義国家は、「外部」(植民地)にツケを押し付けることで、国内格差の調整を図ってきたと思う。もし、こんなふうに、グローバリゼーションによって、外部のない格差社会が極限まで進行したら、そのときこそ共産主義革命は起こらないだろうか?(妄想だけど)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幕藩体制の始まり/関ヶ原合戦(笠谷和比古)

2008-05-01 23:52:00 | 読んだもの(書籍)
○笠谷和比古『関ヶ原合戦:家康の戦略と幕藩体制』(講談社学術文庫) 講談社 2008.1

 『関ヶ原合戦』(講談社選書メチエ、1994)の再刊。関ヶ原合戦(慶長5年9月15日=西暦1600年10月21日)において、家康の率いた東軍からは、徳川主力軍が欠落していた。これは、徳川秀忠の軍が、信州上田城の真田昌幸を攻めあぐみ、合戦当日に間に合わなかったことによる(『真田太平記』の世界だ!)。この結果、東軍勝利における豊臣系武将の比重がきわめて大きくなり、戦後の論功行賞にも影響を及ぼした。このことは、徳川幕藩体制にも深い刻印を施すことになる。

 慶長8年(1603)、家康は征夷大将軍に就任した。しかし、豊臣秀頼が一大名に転落したというのは誤りで、豊臣家はやはり「別格」の位置を保っていた。むしろ、秀吉が遺した関白型公儀と家康を中心とする将軍型公儀の、二重体制が成立したと見るべきである。家康は、秀頼と千姫の婚姻によって、この二重公儀体制の融合一体化をもくろんでいたのではないか。それならば、なぜ大阪の陣が生じたか。家康の「豹変」は「不可解な謎」として残しておきたい。

 本書は、関ヶ原合戦の意義について根本的な認識の変更を迫ったものだというが、私は、近年、ようやく戦国大名の名前を覚え始めたくらいなので、著者の自己評価が当たっているのかどうかは判断できない。だが、関白型公儀と将軍型公儀が並存する二重体制という説は、面白いと思った。多元的あるいは分権的な政治体制というのは、日本文化のお家芸(ただし最近までの)みたいなものかもしれない。

 この関ヶ原合戦の前後、戦国大名たちは、きわめて政治的な動きをしている。もはや武芸一辺倒の時代ではないのだなあ。その結果、後世に高評価を残した人物もいれば、その逆もいる。感慨深い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする