○井波律子『中国の五大小説(上)三国志演義・西遊記』(岩波新書) 岩波書店 2008.4
明代に完成した『三国志演義』『西遊記』『水滸伝』『金瓶梅』の「四代奇書」に、清代に書かれた『紅楼夢』を加えて「五大白話長編小説(五大小説)」と呼ぶ。本書は、上下2冊で、この長大な五大小説の梗概と読みどころを紹介しようというもの(下巻は未刊)。
どうなのかなあ。前半の『三国志』は、1,000人を超える登場人物が織りなす一大巨編。それを12章170ページほどで紹介しようというのだから、荒業である。各章の冒頭には名場面の訳出が掲げられ、なるべく略さずに筋を追う努力が払われている。大要を知っている人なら、そう、そんな場面もあった、とか、そんな登場人物もいたいた!と膝を打って楽しめると思うが、初めてこの複雑なストーリーに触れる読者には、どこまで分かるのな?と首をひねった。いや、今時の若者は、ストーリーなど知らなくても、名場面と名キャラだけで楽しめるのだろうか。
今回、私が認識を改めたキャラは呂布。強い武将だとは思っていたけど、美将のイメージはあまりなかった。それは、著者が書いているとおり、「爽快感がなく、マイナスのイメージ」がつきまとうためである。にもかかわらず、呂布は美将であったらしい。「らしい」というのは、ちょっと著者の願望が加わっているような気もするので。しかし、類い稀な武勇と美貌を備えながら、同時に「邪気に満ちた貪婪さ」の持ち主(→知性と理性に欠ける)という設定が、ある種悲劇的で、蠱惑的である。
曹操もいい。智謀に長けたリアリストなのに、強くてカッコいい武将を見ると、自分のものにしたくてたまらなくなる。その偏愛に応えて、多くの剛勇無双の武将たちが曹操に忠誠を誓った。蜀の武将では、私は趙雲が好きだ。「趙雲は、呂布のような美将軍ではありませんが、惚れ惚れするような颯爽感のある人です」という著者の評言に同感した。「演義」の作者は、関羽びいきであるというのにも納得。
『三国志』では、どうしても第一世代の武将たちの活躍に目が釘付けになってしまうので、三国終焉の幕を引いた世代の印象は薄い。本書の著者は、劉禅(劉備の息子)の能天気ぶりに注目を促す。こんなふうに終わる長編小説は世界に類がなく、「幾度となく王朝の興亡を経験した長い歴史をもつ中国で生まれた物語ならではの、開き直った明るい達観」があるという。傾聴すべき意見である。
後半は『西遊記』。この物語は、西天取経の旅が始まって以降は、予定調和のゴールに向かって「八十一難」をクリアしていくゲームみたいなものなので、ざっくりダイジェストで紹介されても、あまり違和感がない。
興味深いのは、清浄無垢な高僧であっても「凡胎」の三蔵法師と、だらしのない俗物の猪八戒に、「食い意地」という親近性が見られる、という指摘。『西遊記』に先行する語り物のテキスト『大唐三蔵取経詩話』には、三蔵を食欲旺盛の大食漢とする説があるという。なんだか親しみが湧く。
冒頭に設けられた、五大小説の書誌学レファレンスは、何かと参考になりそう。また『西遊記』は、かなり時代が下った明代中期に成立したので、文法的によく整理された文章で読みやすい、という指摘も興味深かった。『演義』は基本的に文言、『水滸伝』は語りの痕跡が強いそうだ。いつか原語で読んでみるなら『西遊記』か。
明代に完成した『三国志演義』『西遊記』『水滸伝』『金瓶梅』の「四代奇書」に、清代に書かれた『紅楼夢』を加えて「五大白話長編小説(五大小説)」と呼ぶ。本書は、上下2冊で、この長大な五大小説の梗概と読みどころを紹介しようというもの(下巻は未刊)。
どうなのかなあ。前半の『三国志』は、1,000人を超える登場人物が織りなす一大巨編。それを12章170ページほどで紹介しようというのだから、荒業である。各章の冒頭には名場面の訳出が掲げられ、なるべく略さずに筋を追う努力が払われている。大要を知っている人なら、そう、そんな場面もあった、とか、そんな登場人物もいたいた!と膝を打って楽しめると思うが、初めてこの複雑なストーリーに触れる読者には、どこまで分かるのな?と首をひねった。いや、今時の若者は、ストーリーなど知らなくても、名場面と名キャラだけで楽しめるのだろうか。
今回、私が認識を改めたキャラは呂布。強い武将だとは思っていたけど、美将のイメージはあまりなかった。それは、著者が書いているとおり、「爽快感がなく、マイナスのイメージ」がつきまとうためである。にもかかわらず、呂布は美将であったらしい。「らしい」というのは、ちょっと著者の願望が加わっているような気もするので。しかし、類い稀な武勇と美貌を備えながら、同時に「邪気に満ちた貪婪さ」の持ち主(→知性と理性に欠ける)という設定が、ある種悲劇的で、蠱惑的である。
曹操もいい。智謀に長けたリアリストなのに、強くてカッコいい武将を見ると、自分のものにしたくてたまらなくなる。その偏愛に応えて、多くの剛勇無双の武将たちが曹操に忠誠を誓った。蜀の武将では、私は趙雲が好きだ。「趙雲は、呂布のような美将軍ではありませんが、惚れ惚れするような颯爽感のある人です」という著者の評言に同感した。「演義」の作者は、関羽びいきであるというのにも納得。
『三国志』では、どうしても第一世代の武将たちの活躍に目が釘付けになってしまうので、三国終焉の幕を引いた世代の印象は薄い。本書の著者は、劉禅(劉備の息子)の能天気ぶりに注目を促す。こんなふうに終わる長編小説は世界に類がなく、「幾度となく王朝の興亡を経験した長い歴史をもつ中国で生まれた物語ならではの、開き直った明るい達観」があるという。傾聴すべき意見である。
後半は『西遊記』。この物語は、西天取経の旅が始まって以降は、予定調和のゴールに向かって「八十一難」をクリアしていくゲームみたいなものなので、ざっくりダイジェストで紹介されても、あまり違和感がない。
興味深いのは、清浄無垢な高僧であっても「凡胎」の三蔵法師と、だらしのない俗物の猪八戒に、「食い意地」という親近性が見られる、という指摘。『西遊記』に先行する語り物のテキスト『大唐三蔵取経詩話』には、三蔵を食欲旺盛の大食漢とする説があるという。なんだか親しみが湧く。
冒頭に設けられた、五大小説の書誌学レファレンスは、何かと参考になりそう。また『西遊記』は、かなり時代が下った明代中期に成立したので、文法的によく整理された文章で読みやすい、という指摘も興味深かった。『演義』は基本的に文言、『水滸伝』は語りの痕跡が強いそうだ。いつか原語で読んでみるなら『西遊記』か。