○東京国立博物館 月例講演会『東京国立博物館のはじまりの日々-博覧会・美術館・動物園』(講師・木下直之)
木下先生の講演は、何度か聞いたことがある。いつも楽しいスライド写真を山のように見せてくれたが、今回はパワーポイントにグレードアップ(?)。冒頭、『一歩近づいて見る日本の美術』という書籍を紹介し、「私の見方はこれと逆です」という。むしろ美術品から下がってみる。遠ざかってみる。すると、その美術品を容れている建物が見えてくるし、その建物(美術館・博物館)がどこにあるかが見えてくる、というわけである。
さて、東京国立博物館の始まりは、同館のホームページ『館の歴史』やWikipediaにまとめられている通りで、明治5年(1872)、湯島聖堂大成殿における文部省博覧会をもって、その嚆矢としている。ただし、明治4年(1871)にも、大学南校(文部省の前身)は九段(千鳥ヶ淵か)で小さな博覧会(物産会)を催している。これについては、木下先生の論考「大学南校物産会について」(『学問のアルケオロジー』所収)あり。Web上で全文が読める。このときの展示棚の写真をよく見ると、人の頭蓋骨と象の頭骨が同居しているという。ほんとだ!!
明治5年(1872)、湯島聖堂の博覧会は、かなり大規模なもので、多数の古写真や錦絵が残っている。その中に、湯島聖堂の「本尊」であるべき孔子像がカニの博物図や剥製に囲まれた錦絵があった。儒者の慨嘆を誘った光景だという。描いたのは河鍋暁斎。この時期、洋学派・神官・儒者は三つ巴の権力闘争をやっているが、儒者は旗色が悪い。なんと、北海道のツキノワグマも、聖堂の庭で飼育展示されたそうだ。
明治6年(1873)から14年まで、博物館は山下門内(今の日比谷、帝国ホテル辺り)で展観を行う。これについて、講師が見せてくれた写真は、東大の建築学科に「何だか分からないまま伝わっていた」ものの由。「博覧会之図」という付箋はあるものの、いつどこの博覧会のことか、ずっと分からなかったそうだ(上記、木下先生の論考に詳述)。処分されなくてよかった!
そして明治10年(1877)、上野公園で第1回内国勧業博覧会が開かれ、明治14年(1881)、第2回内国勧業博覧会を契機に博物館が建てられる。その場所は、徳川将軍家の菩提寺、寛永寺の本坊(幕末の上野戦争で焼失)の跡地であった。勧業博覧会には、現在の古美術中心の博物館と違って、さまざまな物産(生きた家畜を含む)が持ち込まれた。当時の写真を見ると、焼け残った徳川家霊廟の正面を塞ぐように、家畜小屋、おまけに茶屋や寿司屋が林立している。ううーむ。要するに、博物館・美術館・動物園を集めた現在の上野公園は、徳川家の「聖地」(と、激しい上野戦争の記憶)を覆い隠し、作りかえることで成り立ったとも言えそうである。
しかし、寛永寺墓所に眠る徳川将軍6人の中に、吉宗の名前があるのを私は見逃さなかった。吉宗は、名うての博物・物産好きである。自分の墓所の前に動物園ができることを嘆くどころか、むしろ大喜びしそうな気がする。明治の博覧会が最後に上野という地を選びとったのは、実は吉宗の霊魂が招き寄せたのではないかしら? 珍獣好きの吉宗なら、1億円出してもパンダを欲しがりそうである。
このほか、古写真や錦絵を通じて、いろいろ興味深い話を聞き、知らなかった人名を覚えた。内田恒次郎(正雄)って面白いなー。造船・操船を学ぶためオランダに派遣されたのに、絵を学び、大量の油絵を買い込んで帰ってくる。文化財保護に尽力し、壬申検査を実施した蜷川式胤(にながわ・のりたね)、彼のもとで江戸城の写真を撮った横山松三郎も覚えた。復刻版『奈良の筋道』(中央公論美術出版、2005)は、まだ入手可能らしい。欲しいな、高いけど。
木下先生の講演は、何度か聞いたことがある。いつも楽しいスライド写真を山のように見せてくれたが、今回はパワーポイントにグレードアップ(?)。冒頭、『一歩近づいて見る日本の美術』という書籍を紹介し、「私の見方はこれと逆です」という。むしろ美術品から下がってみる。遠ざかってみる。すると、その美術品を容れている建物が見えてくるし、その建物(美術館・博物館)がどこにあるかが見えてくる、というわけである。
さて、東京国立博物館の始まりは、同館のホームページ『館の歴史』やWikipediaにまとめられている通りで、明治5年(1872)、湯島聖堂大成殿における文部省博覧会をもって、その嚆矢としている。ただし、明治4年(1871)にも、大学南校(文部省の前身)は九段(千鳥ヶ淵か)で小さな博覧会(物産会)を催している。これについては、木下先生の論考「大学南校物産会について」(『学問のアルケオロジー』所収)あり。Web上で全文が読める。このときの展示棚の写真をよく見ると、人の頭蓋骨と象の頭骨が同居しているという。ほんとだ!!
明治5年(1872)、湯島聖堂の博覧会は、かなり大規模なもので、多数の古写真や錦絵が残っている。その中に、湯島聖堂の「本尊」であるべき孔子像がカニの博物図や剥製に囲まれた錦絵があった。儒者の慨嘆を誘った光景だという。描いたのは河鍋暁斎。この時期、洋学派・神官・儒者は三つ巴の権力闘争をやっているが、儒者は旗色が悪い。なんと、北海道のツキノワグマも、聖堂の庭で飼育展示されたそうだ。
明治6年(1873)から14年まで、博物館は山下門内(今の日比谷、帝国ホテル辺り)で展観を行う。これについて、講師が見せてくれた写真は、東大の建築学科に「何だか分からないまま伝わっていた」ものの由。「博覧会之図」という付箋はあるものの、いつどこの博覧会のことか、ずっと分からなかったそうだ(上記、木下先生の論考に詳述)。処分されなくてよかった!
そして明治10年(1877)、上野公園で第1回内国勧業博覧会が開かれ、明治14年(1881)、第2回内国勧業博覧会を契機に博物館が建てられる。その場所は、徳川将軍家の菩提寺、寛永寺の本坊(幕末の上野戦争で焼失)の跡地であった。勧業博覧会には、現在の古美術中心の博物館と違って、さまざまな物産(生きた家畜を含む)が持ち込まれた。当時の写真を見ると、焼け残った徳川家霊廟の正面を塞ぐように、家畜小屋、おまけに茶屋や寿司屋が林立している。ううーむ。要するに、博物館・美術館・動物園を集めた現在の上野公園は、徳川家の「聖地」(と、激しい上野戦争の記憶)を覆い隠し、作りかえることで成り立ったとも言えそうである。
しかし、寛永寺墓所に眠る徳川将軍6人の中に、吉宗の名前があるのを私は見逃さなかった。吉宗は、名うての博物・物産好きである。自分の墓所の前に動物園ができることを嘆くどころか、むしろ大喜びしそうな気がする。明治の博覧会が最後に上野という地を選びとったのは、実は吉宗の霊魂が招き寄せたのではないかしら? 珍獣好きの吉宗なら、1億円出してもパンダを欲しがりそうである。
このほか、古写真や錦絵を通じて、いろいろ興味深い話を聞き、知らなかった人名を覚えた。内田恒次郎(正雄)って面白いなー。造船・操船を学ぶためオランダに派遣されたのに、絵を学び、大量の油絵を買い込んで帰ってくる。文化財保護に尽力し、壬申検査を実施した蜷川式胤(にながわ・のりたね)、彼のもとで江戸城の写真を撮った横山松三郎も覚えた。復刻版『奈良の筋道』(中央公論美術出版、2005)は、まだ入手可能らしい。欲しいな、高いけど。