見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

デジタルも活用/當麻寺(奈良博)

2013-05-16 00:58:30 | 行ったもの(美術館・見仏)
奈良国立博物館 當麻曼荼羅完成1250年記念 特別展『當麻寺(たいまでら)-極楽浄土へのあこがれ-』(2013年4月6日~6月2日)

 最後に当麻寺を拝観したのはずいぶん前だったなあ、と思って自分のブログに検索をかけたら、2004年の記事が出てきた。このときは連れが一緒で、その前の師走に来たときは一人だったように思う。記事にも書いているとおり、私は同寺の四天王像が大好きなので、展覧会の会場に入って、最初に持国天立像がいるのを見たときは、にやにやしてしまった。みうらじゅん氏が「勝新太郎に似ている」と発言していなかったけな。膝を抱いて小さく丸まった邪鬼も憎めない。室町時代の絵巻『当麻寺縁起』(初見か?)に「役行者が四天王を百済から勧請する」という場面があって、なるほど、こわもてぶりが大陸or半島人らしいな、と妙に納得した。

 第1会場は、平安時代(9~12世紀)の仏像が多数出ていて、ゆったり眺められるつくりになっていたのはありがたかった。確か現地では、暗いお堂の須弥壇に窮屈そうに肩を寄せ合っていた印象があって、四天王以外はよく覚えていないのだ。板光背を並べた展示も面白かった。

 第2会場(西新館)に移ると、待っていたのは当麻寺中之坊の中将姫像(鎌倉時代)。白い頭巾を被っているが、展示図録に頭巾を外した写真があって、ふっくらした頬が若い女性らしい。女性の肖像彫刻って、珍しいのではないかしら。『当麻曼荼羅絵巻』は、原本(鎌倉・光明寺蔵)+摸本で、久しぶりに全ストーリーを確認する。

 それから、極楽への憧れに焦点をあて、絵画・彫刻、「迎講」で用いられた菩薩面などを展示。30センチくらいの小さな二十五菩薩が、思い思いのポーズを取る群像図(江戸時代)は、むかし当麻寺で見たとき、やりすぎだろうと思って引いてしまったが、開き直って、フィギュアっぽく並べた展示は面白かった。確か、このセクションで、当麻寺には「人が中に入れる阿弥陀如来像」があると知って、ものすごく驚いた。着ぐるみじゃあるまいし。図録を見ると、出品リストには該当がなくて、巻頭の写真集にある「阿弥陀如来立像 本堂」がそれらしい。会場ではパネルだけだったのかしら。忘れた。

 そして『綴織当麻曼荼羅』(根本曼荼羅)そのものも見ることができた。ちょうど原本の展示期間(4/6-14,4/23-5/6)に当たっていたのだが、よかったかどうか。肉眼では、図様はほとんど見えない状態なのだ。初めて当麻寺に行ったとき「こちらが当麻曼荼羅です」と案内されても、自分が見ているのは、ただの板扉だと思って「ふだんは出していないんですか?」とお聞きしてしまった記憶がある。室町時代の模写「文亀本」(4/16-21,/21-6/2)なら、もう少し図様が分かるのではないか。会場には、原寸大のパネル上で、部分を拡大映写しながら、曼荼羅の見かた(ストーリー展開)を説明する方法がとられていて、ありがたかった。出品リストを見ると、原本って「中国・唐または奈良時代」ということになっているんだな。

 さらに途中のコーナーにあったパソコンでは、原本画像の任意の箇所を拡大し、クリックすると、対応する「文亀本」の画像、あるいは、より明晰な「貞享本」の画像を切替表示するシステムが操作できた。奈良博と国立情報学研究所との共同開発。子供だましではなく、研究に活用できるレベルであることに感心した。時間が遅かったせいか、誰も触っていなかったのが残念。もっと宣伝すればいいのに。

 後世に伝わった様々な転写曼荼羅も見ることができた。私は、日本的な浄土曼荼羅の重要ポイントは、蓮池の中央に描かれる「童子たち」ではないかと思う。敦煌などの浄土変相図だと、必ずしも童子がいなくて(あるいは隅に追いやられていて)、中心では琵琶を持った天女が舞っていたりする。

 当麻曼荼羅を格納する厨子の扉も展示されていて、内側がこんなにきれいだとは思わなかった(蓮池の蒔絵文様)。結縁者の中に源頼朝の名前があるのも、もちろん見逃さなかった。

※補記。私がお堂で見て、図様が確認できない…と思ったのが文亀本だったかもしれない、と思い始めた。すでに曖昧な記憶だが、このままにしておく。

※補記その2。会場にあった無料配布の二色刷のリーフレットを貰ってきたので、開けてみたら、マンガふうのイラストで当麻曼荼羅の見かたが掲載されていた。作者は、2009年の『聖地寧波展』のこどもガイドブック「寧波虎の巻」のイラストを描かれた方だと思う。品があって、かわいいし、分かりやすい。でも中折リーフレットの表面には、それほど可愛いイラストがないので、開けてくれないんじゃないかと思う。惜しい!もったいない!
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京都画壇の源泉/狩野山楽・山雪(京都国立博物館)

2013-05-14 08:58:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
京都国立博物館 特別展覧会『狩野山楽・山雪』(2013年3月30日~5月12日)

 5月14日現在、まだ残っている展覧会ホームページを開くと「狩野永徳展から6年。/永徳の画風を受け継ぎ、/京の地で花開いた『京狩野』誕生の物語を、/史上初の大回顧展でご紹介」という文句が流れる。

 6年前の狩野永徳展、混んでたなあ。入館待ちの大行列が昨日のことのように思い出される。さすが狩野派随一のビッグネームである。それに比べると、この『山楽・山雪』展は空いていた。でも私は、永徳よりも山楽・山雪が好きだ。実は彼らのほうが、現代人が見て「分かりやすい」画家ではないかと思う。

 少しWikiで復習。狩野山楽(1559-1635)は近江生まれ。浅井氏の家臣の子で、のち秀吉に仕え、豊臣方の残党の嫌疑をかけられるなど、波乱の人生を送る。永徳の養子となり、永徳様式を継承したといわれる。第1室、大覚寺の『牡丹図襖』は、桃山障壁画と異なる新しさを感じた。ポスターになっている妙心寺『龍虎図』のトラは、口の中まで写実的。言われてみると、虫歯予防のポスターみたいに、ちゃんと臼歯が描き込まれている。

 狩野山雪(1590-1651)は肥前生まれ、狩野山楽の婿養子となる。最晩年に師・山楽の次男が起こした金銭トラブルで入牢する憂き目を見ている。近世画人の伝記って、それぞれ面白いなあ。京狩野代々の墓は泉涌寺にあるのか(拝観不可)。

 山雪の人となりを知ったのは初めてだが、その作品は、長いこと気になっていた。辻惟雄先生の『奇想の系譜』にも取り上げられているし、山下裕二先生が『美術手帖』2008年6月号「京都アート探訪」で「障壁画BEST1」に推していたのも、狩野山楽・山雪筆の妙心寺天球院方丈襖絵だった。天球院は非公開寺院なので、いつか見る機会があったらいいなあと漠然と思っていたのだが、本展で『梅花遊禽図襖』および『朝顔図襖』(←美しい!)を見ることができて、大感激。米国メトロポリタン美術館蔵『老梅図襖(旧・天祥院障壁画)』は、2009年の妙心寺展で見たものだが、再会できて、嬉しかった。

 しかし、山雪のイメージを、装飾的な襖絵・屏風だけでとらえていた私は、この展覧会でボロボロと目から鱗を何枚も落とすことになる。牧谿や等伯の描いたテナガザルを究極までキャラクター化した『猿候図』は、愛らしさと言い、薄墨の精妙な美しさと言い、若冲を思わせる。かと思えば、『寒山拾得図』(これも初見に非ず)の怪しい目つきは蕭白っぽく、いや、むしろ人の気配を徹底的に消した山水図のぞくぞくする「冴え」に蕭白を感じたり、これって応挙じゃない?とか、18世紀京都画壇の百花繚乱を準備した源泉が、山雪にはあると思った。「雪」へのこだわりも興味深い。

 中国の故事・歴史画もずいぶん描いているけど、人の顔が定型化していなくて、魅力的だ。チェスター・ビーティ・ライブラリー(アイルランド)の『長恨歌図巻』見たかったんだ~。嬉しい! 古い絵巻物のように人物の大きさが一定でなく、ところどころモブシーンや、うんとカメラを引いたようなシーンがあって、面白かった。相撲協会相撲博物館所蔵の『武家相撲絵巻』もよくぞ掘り出してくれた。

 出品リストを見ていると(博物館や美術館より)お寺の名前が目につく。こういう画家って、一般の美術ファンに認識されるのは難しいのだろうな。今回は、本当に貴重な展覧会だったと思う。

 最後の部屋で『雪汀水禽図屏風』を見たときは嬉しかった。これ、リストを見ると京博の所蔵ではなくて個人蔵なのか。私は、2008年に京博の『暁斎 Kyosai』展を見に行ったとき、常設展示室でこれを見て、狩野山雪の名前を覚えた記念の作品なのである。大絶賛の展示キャプションを記録してあるので、参考までにどうぞ。→※記事
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「かざり」と「あそび」/大神社展(東京国立博物館)後期・補遺

2013-05-12 23:38:32 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『国宝 大神社展』(2013年4月9日~6月2日)

 すでに前期のレポートを長々と書いているけれど、後期の見どころについても補記しておきたい。

 いちばん大きく入れ替わったのは、第1章「古神宝」である。後期は、鶴岡八幡宮、厳島神社、熱田神宮が中心。なんとなく源氏、平家、源氏という布陣だなと感じる。いちばん馴染みが薄い分、新鮮に感じたのは熱田神宮の神宝で、特に衣装類が興味深かった。

 第3章「神社の風景」で目がとまったのは、三の丸尚蔵館本の『春日権現記絵巻』。連休中に春日大社の宝物館で見た模写本と同じ巻ニ、寛治御幸の図である。車中の白河上皇の顔は見えないのだが、身体の向きが、少し冷泉為恭模写本と異なる気がした。まわりに裹頭した大衆が大勢集まっているが、衣の下に鎧のようなものが見える。公卿や従者たちの表情も豊かで面白い。熊野那智大社の『那智山宮曼荼羅』にも「上皇の御幸が描かれている」とあったけど、誰? 回数からいえば、やっぱり後白河上皇かな? 香川・観音寺の『琴弾宮縁起絵』は初見だと思うが、写実的な地形図に可愛らしく名勝・聖地が記されていて、楽しかった。

 第4章「祭りのにぎわい」では、久しぶりに狩野内膳の『豊国祭礼図屏風』を見たが、「1089(とーはく)ブログ」に紹介されていた「竹の子コスプレ」は見逃してしまった。

 このセクションは装束類が楽しい。前期の黄色とブルーの『蛮絵袍』もカッコよかったけど、後期は『紺地白鷺葦模様』の狩衣がイチ押し。明の道士の服を仕立て直したというキンキラの狩衣もあって、これが山形に伝来しているというのも、予想を裏切って面白かった。そして、日本の神様って基本的に「かざり」と「あそび」、美しいものと楽しいことが大好きなんだ、と思った。

 第5章「伝世の名品」はあまり展示替えがなさそうなので、流し見しようと思ったら、『北野天神縁起絵巻』(根本縁起)が出ていたので、慌てて最前列に並ぶ。でもパネルには「清涼殿落雷の場面」を取り上げているのに、展示されているのは巻八「日蔵六道めぐり」の箇所だった。まあ紹介されることの少ない珍しい巻で、最下層の庶民の様子が面白かったけど。

 第6章「神々の姿」は、彫刻は展示替えがないが、絵画は入れ替わっている。展示図録を見て衝撃を受け、どうしても本物が見たいと思ったのが、仁和寺の『僧形八幡神影向図』。こんな表現をどうして思いついたんだろうか。畏怖に満ちた、神秘的な図像である。

 なお、この日は東洋館地下のミュージアムシアターで、VR(バーチャルリアリティ)作品『三蔵法師の十一面観音』を見ていく。私は好きだけど、有料(500円)にするほどの価値があるのかなあ。無料にして、より多くのお客さんに見てもらうほうがいいと思うのに。
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個性豊かな神々/大神社展(東京国立博物館)前期を中心に

2013-05-12 21:25:18 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『国宝 大神社展』(2013年4月9日~6月2日)

 連休前の4月20日(土)にまず前期を、友人と見に行った。それからブログを書く時間が取れないまま、きのう5月11日(土)後期も見てきたので、まとめてレポートする。

 前期の参観日は冷たい雨の降る日で、東博の特別展としては、比較的空いていた。仏像好きの友人なので「まず第二会場の神像から回りましょうか」とも話したが、結局、順路に従うことにする。そのほうが気持ちが盛り上がっていいみたい。

 第1章は、みやびやかな「古神宝」から始まる。前期は春日大社と熊野速玉大社が中心。そこに第2章「祀りのはじまり」が入り組んでいて、沖縄や沖ノ島の考古文物(銅鏡、子持ち勾玉など)が混じり、『古事記』『日本書紀』などの文献資料に進む。『延喜式』の神名帳の前で「このアマテラスから化生した三女神が宗像神社の神でさ」と話している男子がいて、詳しいな、若者、と思った。全体に会場の会話がクロウトっぽくて面白かった。なお、出品目録では第5章「伝世の名品」にリストアップされている『平家納経 願文』(平清盛の自筆)は、いきなり第1室に展示されていて、ハッとした。筆跡って、肖像画よりも何よりも、その人が本当に生きていたことを生々しく伝える資料だと思う。

 第3章「神社の風景」では『伊勢両宮曼荼羅』の前で、三重県出身の友人から現地の様子を聞く。文化庁所蔵の『天神社頭図』が面白かった。絵巻か何かの断簡だろうか。試しに検索してみたら「随意契約の公示」という下世話な情報が引っかかってきて、苦笑。

 第4章「祭りのにぎわい」の見ものは、何と言っても和歌山・鞆淵八幡神社の『沃懸地螺鈿金銅装神輿(いかけじらでんこんどうそうしんよ)』である。展示室の奥まった薄暗がりにひっそりと、しかし堂々と鎮座した様子は、龍が蟠居しているような迫力だ。12世紀の神輿が残っているって、もう奇跡としか思えない。これ、和歌山県博の『高野山麓 祈りのかたち』で(写真?複製を?)見なかったかなあ、と思ったが、私の記憶違いのようだ。でも鞆淵八幡神社の名前は、同展の記憶の中からよみがえってきた。ちなみに「日曜美術館」でこれが映ったときは、twitterの平清盛クラスタが「神輿キター!」「強訴じゃー!」で大騒ぎになって笑った。

 ここから第2会場。第5章「伝世の名品」冒頭は刀剣多し。鹿島神宮の巨大な『直刀 黒漆平文大刀』は、むかし現地で見て、呆気にとられたなあ。石上神宮の『七支刀』はあまり見る機会のないもので嬉しい。意外と細身で華奢な作りである。同じく石上神宮に伝わる『鉄盾』は重たそうだった。ああ、映画『レッド・クリフ』の歩兵もこんなのを持っていたかもしれない。手向山八幡宮に伝わる『唐鞍』一式の重装備にも驚く。やっぱり「神社」って、大陸や朝鮮半島の鉄器・銅器文明との親近性が強いような気がする。

 いよいよ第6章「神々の姿」は、4つほどの部屋に分かれる。まず獅子・狛犬、そして随身像に招かれて進むと、奥には松尾三神像が鎮座まします。左右一対の『随身立像』は岡山・高野神社という知らない神社だった。松尾三神像と並んでいた大きな女神像は、京都・東寺のものだというが、ぜんぜん記憶になかった。このへん、キャプションで所蔵先を確かめながら、へえとかほうとか驚く。写実的だったり、いくぶん抽象化されていたり、唐風だったり和風だったり、さまざまなタイプの神像(絵画もあり)を眺めながら進んでいくと、最も奥まったところに、小浜の若狭神宮寺に祀られた男神(小丹生之明神 和加佐国比古神)・女神像(小丹生之明神 和加佐国比女神)がおいでになった。

 向かって右に男神、左に女神を安置する。どちらも実に静かな御姿で、憤怒や威圧からは程遠い。沈思するというか、むしろ放心しているにも見える。しかし単純に運命を甘受するばかりでない、一種の凛々しさも感じられる。雪深い小浜の人々が祈り求めた神の姿はこのようなものか、と思うと、納得できる気がした。

 チラシ、ポスターに使われているおおらかな地母神的な女神像『吉野子守神像』(個人蔵)は最後に展示されている。個性豊かな神々とともに、この小さな国土に生きていることが嬉しくなる展覧会だった。

 前期参観の日は、このあと『平成25年 新指定 国宝・重要文化財』(2013年4月16日~5月6日)を見ていく。静岡・願成就院の不動明王及二童子立像など、仏像が多くて楽しかった。さらに法隆寺館を覗いて、充実の1日。

 『大神社展』後期の感想は別稿にて。
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2013黄金週@関西:藤森神社の駈馬神事

2013-05-11 22:03:21 | 行ったもの(美術館・見仏)
関西旅行最終日(5/5)。以前から見たいと思っていた洛南・藤森(ふじのもり)神社の駈馬神事を見に行く。

藤森神社(京都市伏見区深草鳥居崎町)

 神事は13時と15時の2回行われる。到着したのは12時過ぎで、境内の隅で、入念な馬具のチェックが行われていた。



 どこを駈けるんだろう?と思って警備の方に聞いてみたら、社殿に向かって伸びている参道だという。なるほど片側には観覧席が設置されているが、もう一方の側には露店が立ち並んで、馬場には見えない。しかし、15分ほど前になると、ロープが張られ、その内側に鉄柵も設置されて、人の流れが遮断される。露店の前も立見の観客で埋まるので、しばらく商売は中断。

13時になると、関係者は社頭に参詣し、馬場を清めたあと、いよいよ駈馬が行われる。馬は、赤・青・緑の紐をつけた三頭。最初の一回は馬を馴らすために普通に駈け、二回目から各種の技(わざ)を見せる。私は、比較的社殿に近い位置で見ていて、途中の様子が見えなかったので、いきなり逆立ちした乗り手が目の前を駈けていったときは、度肝を抜かれた。

 そうかと思えば、技を繰り出すタイミングを逸して、そのまま駈けていっただけの回もあった。相当な危険をともなうので、無理はしないことになっているらしい。社殿の前で馬が止まれず、紅白幕に体当たりするような場面も見られた(乗り手は機敏に飛び降りていた)。



 藤森社のホームページを見ると、技(わざ)には、それぞれ戦場での意味づけがされていて、単なる曲乗りではないことが分かる。



 馬も人もカッコいい。



 会場アナウンスによれば、午前の部(13時)よりも午後の部(15時)のほうが、馬が馴れてくるので、技の成功率は高いそうだ。

 続けて見ていこうか、ちょっと迷ったけど、大阪市美術館の『ボストン美術館展』に寄っていきたかったので切り上げる。次回は15時の部をねらってくることにしよう。
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2013黄金週@関西:非公開文化財特別公開(松尾大社)

2013-05-10 00:41:46 | 行ったもの(美術館・見仏)
関西旅行最終日(5/5)。迷った末に阪急電車で再び京都方面に向かう。今回は神社シリーズに徹することにする。

松尾大社(西京区嵐山宮町)

 松尾神社も十数年前に一度来たきり。要するに、名所旧跡なので一度は訪ねてみるのだが、お寺と違って神社には、これまであまり魅力を感じなかったので、もう一度来てみたいと思わなかったのだ。鳥居と楼門の間では、フリーマーケット「亀の市」開催中。



 非公開文化財特別公開の受付をすると「○時○分にお集まりください」と申し渡される。それまでは、庭園入口を入り、三つの名庭を拝観。いずれも重森三玲の作で、現代的な造園。その中に「神像館」があり、松尾大社の摂社・末社で発見された神像(9~14世紀)20体ほどが展示されている。手前に独立した三つの展示ケースが並んでいて、ははあ、『大神社展』に出ていた松尾三神像(老年男神像、壮年男神像、女神像)は、ふだんここにいらっしゃるのだな、と思う。『松尾大社の神影』という冊子(表紙は老年男神像の写真)をしげしげ見ていたら、受付に座っていたの女性の方が「今はここにいないんですよ」と済まなそうにおっしゃるので、「いえ、私は東京から来ましたので(←嘘だなw)国立博物館で見ました」と申し上げたら「そうですか!」と表情が明るくなった。「この間、テレビでもやってましたよね」とおっしゃったのは、日曜美術館のことかな。

 冊子の「あとがき」(伊東史朗氏)によれば、ながらく京都国立博物館に寄託されていた三神像が、松尾大社の宝物館に返却されたのは平成6年(1994)、実に86年ぶりの里帰りだったという。私はこの三神像、「なかなか見られない」というイメージが強くあったのだが、平成6年以降はここで常時公開されていたのか。そして、同社の摂社末社に伝えられた神像18体の調査が行われたのは、平成22年。その報告書として、カラー図版入りの立派な冊子が作られたのである。うーむ、これは欲しい。と思っていたら、拝観開始の時間が近づいてきたので、いったん神像館を出る。

 拝殿前で十数人の集団になり、神職さんのお祓いを受けて、本殿がよく見える回廊の中に入れてもらう。こちらの本殿の屋根は、前後が均等な長さを持つ両流れ造で、他には厳島神社(広島県)と宗像大社(福岡県)しかない珍しいもの。「松尾造」とも呼ばれる。前日、上賀茂神社で、一般的な流れ造(前の屋根が後ろより長い)を見てきたので、違いがよく分かった。厳島神社・宗像大社・松尾大社は、いずれも海上守護の女神を祀るという点に共通性がある。

 拝殿の見学が終わったあと、神像館に戻って気になった冊子を買っていく。3泊4日の旅行で3冊目…。次回は、裏山の磐座(いわくら)にも行ってみたい。登山の覚悟をしてこなくては。
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2013黄金週@関西:大原詣、上賀茂神社

2013-05-09 00:37:32 | 行ったもの(美術館・見仏)
関西旅行3日目(5/4)は、京都在住の友人を呼び出し、大原詣に付き合ってもらう。大原のバス停で1本前に乗ってきた友人と落ち合う。

寂光院(左京区大原草生町) 建礼門院800年御遠忌法要(2013年4月14日~5月12日)

 大原は久しぶりだ。最後に訪ねたのは、寂光院が火災に遭う以前の話である。寂光院の宝物殿(鳳智松殿)に展示されていた新聞を見たら、火災は平成12年(2000)5月9日の未明。桃山時代に建立された本堂は灰燼に帰し、鎌倉時代の地蔵菩薩立像と小地蔵尊像、建礼門院像、阿波内侍像も焼けてしまった。非常にショックだったことはよく記憶している。

 その後、関係者の努力によって、本堂は昔どおりに再建された。焼失前の本堂の写真と現在の本堂を見比べても区別がつかないほどだ。また本尊・地蔵菩薩像は、昔の黒光りする威容から一転して、彩色鮮やかな御姿でよみがえった。美術院の技量が確かなので、うわついた感じはない。建礼門院像、阿波内侍像は、江里康慧・佐代子夫妻(平安仏所)によって再建された。どこかで聞いたお名前だと思ったら、法住寺の後白河法皇像の模刻を制作された方であった。なんだか奇縁を感じるなあ。法住寺の後白河法皇像を大原に連れてきて、対面させてみたい。

 なお、焼損した旧本尊の地蔵菩薩立像は重要文化財指定を解除されることなく、収蔵庫に安置されている。このたび建礼門院800年御遠忌法要にちなみ、この収蔵庫を開扉して、旧本尊と建礼門院御持仏と伝える普賢延命菩薩像を公開している。そば屋みたいな紺のれんを笑ってくぐると、半ば炭化した巨大な旧本尊が正面にぬっと立っていて、一瞬たじろぐ。痛々しいが異様な迫力である。普賢菩薩像は、美しいが、一身三頭の白象に乗る奇怪な姿(儀軌どおりだけど)。



 建礼門院御陵。何にせよ、徳子ちゃんよかったね。



三千院(左京区大原来迎院町)

 大原に来るときは、必ず寂光院と三千院をセットで参拝しているので、やはり2000年より以前にしか来ていないのだろう。苔庭に寝転ぶわらべ地蔵や、円融蔵展示室に復元された往生極楽院(阿弥陀三尊がいらっしゃる建物)の天井画など、記憶にない見ものがいろいろあって、面白かった。

上賀茂神社(北区上賀茂本山)

 上賀茂神社のそばに美味しい鯖味噌煮の食堂があるというので、かなり遅い昼食をとるつもりで向かう。行ってみたら、もう営業が終わっていたので、上賀茂神社に参拝していくことにする。神馬「神山号」の注意書き「ニンジンはお皿であげてください」に和む。「神馬に話しかけないで下さい」も、話しかけたらどうなるのか、想像してしまう。



 上賀茂神社でも今季の「非公開文化財特別公開」が行われていた。ここは、座敷に上がってしばらく待っていると、神職さんが現れる。神社の由緒の説明を聴き、お祓いを受けて、本殿・権殿(ごんでん)を参拝することができる。ご祭神は本殿にいらっしゃるのだが、権殿は本殿と全く同様の設備が備えられていて、非常の際はいつでもご祭神を遷すことができるのだそうだ。なんという用意周到さ。それだけ畏れられた神様であるということか。本殿・権殿の前には、それぞれ一対の獅子・狛犬が鎮座しているのが、昔の絵画資料のとおりである。あるとき庭に灯した篝火(だったかな)によって社殿の壁に映った獅子・狛犬の影をなぞって描いたのが「影狛(かげこま)」と呼ばれる絵姿。面白い。

 このあとは神職さんでなく、学生さんの案内で、高倉殿(この小さな建物も重要文化財だった!)の特別企画展『賀茂競馬920年』展を見て、最後に渉渓園という庭園を見て、時間切れとなった。
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2013黄金週@関西:春日大社(万葉植物園、宝物殿)

2013-05-07 23:12:24 | 行ったもの(美術館・見仏)
関西旅行2日目(5/3)午後は奈良へ。大和文華館に行く予定にしていたのだが、京都の友人から「この時期は万葉植物園がおすすめですよ」という情報をもらって、気を変える。私は藤の花が大好きなのだ。

万葉植物園

 万葉植物園には、春日大社の社紋「下り藤」にもちなんで、20品種、約200本の藤の木が植栽されている。



↓ひときわ高い芳香を放つ「麝香藤(じゃこうふじ)」。



春日大社宝物殿 『特別公開 華やかな屏風と祭礼図』(2013年4月17日~7月15日)

 隣りの宝物殿も面白そうなので寄っていく。16世紀の『競馬図屏風』が目を引く。乗り尻(乗り手)たちの自由気ままな様子が、いかにも体育会系男子の集団っぽくて、微笑ましく楽しい。ふと自分のブログを調べたら、2011年歳末に奈良博の『おん祭と春日信仰の美術』展でも見ていた。

 春日祭や春日若宮御祭を描いた江戸時代の絵巻も面白かった。記録資料として描かれたものだが、素朴な味わいには、美術品としての魅力もある。『春日権現記絵巻』は、冷泉為恭模写本の巻二と春日本の巻四が出ていた。前者は寛治御幸の図で、車の中に白河院の姿がある。顔は見えない。後者は、藤原忠実が出家を前に暇乞いに訪れたところで、第三殿の祭神が童形で現れ、やがて氏の長者となる忠通と頼長について託宣したという場面。え、どんな託宣だったのか、本文が読みたい。保元の乱を予見しているんだろうか。

 春日大社本殿に参詣。名木「砂ずりの藤」も見ごろだった。

東大寺三月堂

 若草山のふもとを抜けて、手向山八幡宮から三月堂(法華堂)へ。そろそろ拝観が再開されると聞いたような気がしたので、様子を見に行った。



 まだ扉は鎖されていて、中から電動ノコギリの唸るような音が聞こえていた。前面の立て看板に曰く、「平成22年度から行われていた法華堂須弥壇・諸尊像修理事業が本年3月末で終了しました。但し拝観再開のための準備作業が5月中旬までかかります。法華堂の拝観再開は5月18日(土)からです。今しばらくお待ち下さい」。味わいのある書き文字にしばし見とれる。

 東大寺のホームページには「安置される諸尊像は、本尊不空羂索観音菩薩、梵天、帝釈天、金剛力士(阿吽)、四天王、執金剛紳(秘仏)の10躰です」とある。「日光・月光菩薩、弁財天、吉祥天、地蔵菩薩、不動明王」は東大寺ミュージアムから戻ってこないのか。不空羂索観音と日光・月光菩薩は、私の記憶の中ですっかり一体化しているので、もう一緒に見られないのかと思うと悲しい。しかし、2010年秋の時点では、四天王像も戻ってくるかどうか分からない状態だったので、まあ良かったのかもしれない。

 最後の奈良博はまた別稿。
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2013黄金週@関西:非公開文化財特別公開(石清水八幡宮、神応寺)

2013-05-06 13:31:59 | 行ったもの(美術館・見仏)
関西旅行2日目(5/3)。大阪の江坂を出て、京阪電車の八幡市に向かう。今年のゴールデンウィークは涼しい(というか、寒い)ので、駅前の喫茶店で朝食を食べようとしたら、ストーブを焚いていた。

石清水八幡宮(京都府八幡市)

 ずいぶん昔に来たことがあるはずだが、ほとんど記憶がない。ケーブルカーで男山の上に上がると、すぐ本殿。本殿の向かって右横に特別公開の受付があり、回廊の中に入れてもらえる。色鮮やかな装飾を間近に見ながら、本殿の裏側をぐるりと半周することができる。色鮮やかなのも道理で、ホームページの説明によれば、御本殿は平成21年3月に修復を終えてまもないらしい。

 出口(向かって左)の門に待機していた説明員の方が、回廊の上の装飾に「左甚五郎作」の猿が彫られていて、夜な夜な抜け出して悪さをするので、片目を釘で打ち付けられてしまった、という「目貫の猿(めぬきのさる)」の話をしてくれた。それを聞いて、対照となる入口の門の上には、どんな装飾があったか、気になり始めた。説明員の方に聞いても分からないというので、引き返して見にいくと、水鳥のような装飾があった。十二支というわけではないみたいだ。

 途中で別の説明員の方が「あまりご説明はしていないのですが、建築など見るのがお好きなようなので」と教えてくれたのは、本殿に設けられた黄金の樋(とい)。織田信長の寄進による。回廊からはチラリと見える程度。危急のときの財源とする意図もあったという。神仏嫌いのイメージのある信長だが、源氏の氏神である八幡宮に対しては、ずいぶん殊勝なことをしているんだな。ふと中国湖北省で訪ねた武当山の金殿を思い出す。

 次に書院にて宝物を拝観。見ものは、今季特別公開のポスターなどに盛んに取り上げられている木造女神坐像である。会場には、もう1体、写真で見たのとは別の女神像も出ていた。大きさは30cmくらい。室町時代とある。平成3年(1991)本殿西北隅の校倉内からバラバラの木片状態で発見され、復元された1体だが、昭和7年頃の刊行物に絵入りで紹介されており、昭和9年の室戸台風で本殿が甚大な被害を蒙り、大修理が必要となった際、とりあえず校倉に搬入され、忘れられたのではないか、という推測が記されていた。決して過去だけのことではなくて、平成の大震災やその他の災害でも、同様の運命をたどって、いま忘れ去られている文化財があるのではないかなあ、と感じた。こちらの女神像は、衣の左胸に一輪の花の文様が見られる。両腕の先は欠損しているが、右手を膝上におろし、左手は胸の前にあげて(何か持物を有して)いた様子。

 もう1体、ポスターになっている女神像のほうが、襟のひらひらなど唐風を感じる装い。両手は体の前で拱手する。ケースの背面が鏡になっていて、覗き込むと自分の顔が映るのでびっくりするが、背面が見やすいのでありがたい。二体ともベストを着ているように見えるが、背中を見ると、体に密着した領巾(スカーフ)の表現だと分かる。この時代の女神像は、ふんわりセミロングヘアが基本なんだな。

 ほかに信長朱印文書、秀吉朱印文書、境内全図、江戸期の舞楽屏風など。変わったところで、堂本印象筆『八幡太郎義家社参之図』(昭和13年)は、皇軍慰問用絵葉書の原画だという。京阪電車が50万枚を制作し、石清水八幡宮に寄贈、参詣者に配られたそうだ。武運長久の神様だものなあ。

 ところで、女神像が発見された「本殿西北の隅の校倉」というのが気になったので、本殿に戻って探してみる。東西南北がよく分からないので、神職の方に聞いてみると、向かって左奥の建物を教えてくれた。現在は「清め衣納所」の札が掲げられている。



絲杉山 神応寺(神應寺)(京都府八幡市)

 いったんケーブルカーで駅前まで下り、商店街を迂回して、石清水八幡宮の参道口から少し登る。平成24年8月の豪雨の影響で裏参道が通行止めになっているため、このコースが早いと教えられた。



 山門までは大したことのない上り坂だったが、その奥に息の切れる階段が待っている。でも多様な宝物に出会うことができて、訪ねる価値あり。広い方丈に入ると、右奥の狩野山雪筆障壁画(傷み激しく、これはいまいち)、中央の本尊・小さな薬師如来、左奥の豊臣秀吉像と行教律師坐像の説明を受ける。行教像は平安時代の像(9世紀の特徴あり)だというが、そんな古い時代の肖像彫刻って、かなり珍しいのではなかろうか。

 参拝客の様子を見ていると、方丈の説明だけ聞いて帰ってしまう人もいた。お寺の方も、説明員の学生さんも、それをあまり引き止めようとしないのがもったいない。私がこのお寺に来たのは、もうひとつ中国絵画っぽい普賢菩薩像の写真を見たからで、きょろきょろしていると、廊下をわたって、書院へ「順路」が設定されている。その床の間に見たかった普賢菩薩像の掛軸が掛かっていた。文化財指定にはなっていないようだが、かなり精緻で美しい。普賢菩薩が左手に掲げる経典が巻子本でなく経本(折本)なのが、ちょっと珍しい気がする。床の間の隣りの違い棚は伏見城の遺構と伝えられ、朱印を入れておく非常持出用(?)の笈があったり、いろいろ面白かった。いま京博に出品中の狩野山雪筆『竹虎図杉戸絵』(居眠りするお父さん虎+カメラ目線のメス子虎+オス子虎)も、ふだんはここにあるらしい。

 方丈に戻る途中の仕切り戸に、神応寺の普賢菩薩掛軸の写真を大きく使った今季特別拝観のポスターが貼られていた(何バージョンかあるようだ)。お寺の方(奥様?)に「これ、いいですよね」と話しかけたら「そうなの、女神はんを抑えて、山寺がんばったでしょ!」と嬉しそうだった。拝観者が増えて「一番喜んではるのは仏様だと思うわ」とおっしゃったのが印象的だった。窓からは八幡駅方面を見下ろす絶景。「奥の院にもぜひ寄っていらっしゃい」と勧められた。実は、また階段なら遠慮しておこうと思っていたのだが「いいえ、すぐですよ。不動堂があるの。せっかくここまで表の階段を上がっていらしたんだから、全部見ていってください」という。さっき、制多迦童子像・矜羯羅童子像の「市指定文化財」の証書が飾られているのを見て、方丈にはなかったなあ、と思っていたところなので、行ってみることにした。



 確かに本堂から奥の院への道はなだらかだった。奥に観音堂、手前に不動堂がある。本尊の不動明王は秘仏で、2010年3月27~31日に約70年ぶりのご開帳があったそうだ。制多迦・矜羯羅の両像は拝観できる。等身大に近いくらいの大きさなので、本尊はさらに大きいのかと思ったら「いや、そのお厨子に入っているよ」と檀上の小さなお厨子を示された。畳敷きの不動堂は堂守さんの詰所を兼ねていて、冷蔵庫から何やら取り出し、炬燵で昼食をとるおじいちゃんたちになごんだ。私も老後はこういう生活がしたい。

 神応寺には、豪商・淀屋辰五郎、大奥総取締・右衛門佐(えもんのすけ)、飛行機を制作した二宮忠八の墓所もあるという。以上は、説明員の学生さんやお寺の方も教えてくれたこと。ところが、あとで特別拝観の「拝観の手引」を読んだら、長澤蘆雪の墓もあるという。え!なんと! 探してお参りしてくるんだった…。というか、一般人は「長澤蘆雪」と聞いても反応しないんだろうなあ。私は逆に、右衛門佐が誰だか分からなくて、あとで調べたのである。

 2日目午後の奈良編は、稿をあらためて。
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2013黄金週@関西:非公開文化財特別公開(西方寺、大興寺)

2013-05-06 00:49:01 | 行ったもの(美術館・見仏)
関西旅行から帰宅。まず、「平成25年度京都春季非公開文化財特別公開」(2013年4月26日~5月6日)の寺社からレポートしておこう。今年はハズレがなくて、どこも楽しかった。

■願海山 西方寺(京都市左京区東山二条)

 実は2009年秋にも一度来ていて、小さな化仏がびっしり並んだ光背はよく覚えていた。藤原経宗(大河ドラマで有薗芳記さんが演じていたお公家さん)が自宅を寺にしたものと聞いて、経宗邸はこんなところにあったのか、と思ったら、はじめは一条新町にあり、秀吉の都市計画やら江戸時代の大火やらで転々として、現在の地におさまったのだそうだ。大きな阿弥陀如来坐像は白河院の法勝寺の遺仏と伝えられている。京都の町は歴史の保存庫というけれど、寺も仏像も移動や変遷を繰り返していることに注意が必要だ。



■霊芝山 大興寺(京都市左京区浄土寺真如町)

 静かな山の手の寺町にある。いちおうお寺らしい山門を構えているが、中に入ると、普通の住宅のような玄関から上がるよう促されて、ちょっとびっくりする。居間のような畳部屋の正面には、少し高いところに(須弥壇というより床の間っぽい)きれいな十一面聖観音像や小さな関羽像(脇侍つき)が置かれている。左手には十二神将立像が畳の上に並んでいる。右手には六畳くらいの次の間(エアコン付き)があって、本尊の薬師如来坐像が少し窮屈そうにおさまっていた。傷みの激しくなったお堂を取り壊してからは、現在のようなかたちで安置しているとの説明があったように思う。薬師如来は、衣の文様が美しかった。



このあと京都国立博物館に行って、初日は終了。
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