吉田健一 2006年 光文社文庫版
吉田健一のつづき、エッセイ集(こういう人の書いたのは“随筆”って呼んだほうがふさわしいか?)。
タイトルは「さけさかなさけ」と単純に読む。
その名のとおり、飲むこと食べることについて書いたものが集められてる。
食べることについて書いたものが多いと思われてる作者であるが、そのへんのとこ「二日酔い」という一節では、
>何でもいいから書いてくれといわれると、きまって食べもののことが書きたくなるのは不思議である。それでいて、食べもののことについて何か書けといって寄越されると、馬鹿馬鹿しいと思う気持ちも手伝って(略)、断り続けている。
と複雑な心境(?)を明かしたりしてる。
「舌鼓ところどころ」という章は、どうやら雑誌の出版社に依頼されて、日本のあちこちの「食べもの行脚」を文章にするという企画だったらしい。
どこの店で、何を食べて、それは何円だったとか、わりと細かく書いてあるんだけど、最後のほうで、
>食べて廻る旅行も、あとで原稿を書くことが目的であるためにすべてがぶち壊しになる。とか、
>やはり始終、何か食べては手帳につけていなければならない。そしてそれをやっていては、大概のものがまずくなる。とか、
>うまいものを食べながら、これをどんな言葉で書き立ててやろうかなどと考えるのは下の下のこと
などと本意ぢゃない仕事だったようなことを語ってます。
でも、それらの記事を読むと、それにしても、よく食べるなあと言いたくなる。
食べるのにもまして、まあ、よく飲むなあと感心する。朝から昼から夜まで、飲みどおしである。
酒というもの、日本酒にかぎらず、あらゆる酒のよさということについても、あちこちでいろんな書き方してるけど、たとえば、
>しかし酒というのは勿論、味だけの問題ではないので、ブルゴーニュの白葡萄酒を注いだ盃を口に持って行くと、ほら、唇を濡らしたよ、舌の上に乗ったよ、喉を通っているよ、お腹に降りたよと、酒の味、匂い、厚さその他、一切の機能を挙げて知らせてくれて、何だか生きているということが嬉しくなる
なんてのを読むと、特に最後の“生きているということが嬉しくなる”あたりで、私なんかは烈しく同意してしまう。
「文学に出てくる食べもの」という一節では、小説のなかに書かれている食いものについて紹介してくれてるんだが、これはすごいと思ったのが、シリル・コノリーという批評家の「月桂冠に蔭を」というなかに出てくる料理。
オリーヴの実を頬白(ホオジロ)に詰めて、それを蒿雀(あおじ)に詰め、それを鶉(うずら)の中に入れ、それを千鳥に詰め、それを小綬鷄(コジュケイ)に入れ、それを山鴫(やましぎ)に詰めて、それを小鴨に入れ、それをほろほろちょうの中に入れて、それを鷄(ニワトリ)の中に入れ、それを雷鳥のなかに入れ、それを鵞鳥のなかに入れ、それを七面鳥の入れ、それを野雁に詰める。
この(ホントは途中で葡萄の葉で包んだり、もっと手間がかかってる)詰め物を、調味料とかと一緒に鍋に入れて、二十四時間とろ火で煮る。んで、できあがったら、順にまわりの鳥を開いて捨てて(!)、最後にオリーヴの実を取り出して、それを食べる。…いいね。
全編をとおして、小説の「金沢」とはちょっとちがったリズムのよい文章で、サクサク読んでいけた。
作者のいいところは、各所で触れてるんだけど、いわゆる通になんかなりたくないってスタンス。
なので、雑誌の取材とかで仕方なくメモった記事以外のとこでは、うまいもの食べたことについて書いてても、意外と“わからない”、“知らない”、“おぼえていない”とかって言葉でサラッと通り過ぎてたりする。「どーだ、俺はうまいもの食ってるんだ、何でも知ってるんだ」的なものが感じられないのが、読んでて気持ちいい理由のひとつだと思う。
吉田健一のつづき、エッセイ集(こういう人の書いたのは“随筆”って呼んだほうがふさわしいか?)。
タイトルは「さけさかなさけ」と単純に読む。
その名のとおり、飲むこと食べることについて書いたものが集められてる。
食べることについて書いたものが多いと思われてる作者であるが、そのへんのとこ「二日酔い」という一節では、
>何でもいいから書いてくれといわれると、きまって食べもののことが書きたくなるのは不思議である。それでいて、食べもののことについて何か書けといって寄越されると、馬鹿馬鹿しいと思う気持ちも手伝って(略)、断り続けている。
と複雑な心境(?)を明かしたりしてる。
「舌鼓ところどころ」という章は、どうやら雑誌の出版社に依頼されて、日本のあちこちの「食べもの行脚」を文章にするという企画だったらしい。
どこの店で、何を食べて、それは何円だったとか、わりと細かく書いてあるんだけど、最後のほうで、
>食べて廻る旅行も、あとで原稿を書くことが目的であるためにすべてがぶち壊しになる。とか、
>やはり始終、何か食べては手帳につけていなければならない。そしてそれをやっていては、大概のものがまずくなる。とか、
>うまいものを食べながら、これをどんな言葉で書き立ててやろうかなどと考えるのは下の下のこと
などと本意ぢゃない仕事だったようなことを語ってます。
でも、それらの記事を読むと、それにしても、よく食べるなあと言いたくなる。
食べるのにもまして、まあ、よく飲むなあと感心する。朝から昼から夜まで、飲みどおしである。
酒というもの、日本酒にかぎらず、あらゆる酒のよさということについても、あちこちでいろんな書き方してるけど、たとえば、
>しかし酒というのは勿論、味だけの問題ではないので、ブルゴーニュの白葡萄酒を注いだ盃を口に持って行くと、ほら、唇を濡らしたよ、舌の上に乗ったよ、喉を通っているよ、お腹に降りたよと、酒の味、匂い、厚さその他、一切の機能を挙げて知らせてくれて、何だか生きているということが嬉しくなる
なんてのを読むと、特に最後の“生きているということが嬉しくなる”あたりで、私なんかは烈しく同意してしまう。
「文学に出てくる食べもの」という一節では、小説のなかに書かれている食いものについて紹介してくれてるんだが、これはすごいと思ったのが、シリル・コノリーという批評家の「月桂冠に蔭を」というなかに出てくる料理。
オリーヴの実を頬白(ホオジロ)に詰めて、それを蒿雀(あおじ)に詰め、それを鶉(うずら)の中に入れ、それを千鳥に詰め、それを小綬鷄(コジュケイ)に入れ、それを山鴫(やましぎ)に詰めて、それを小鴨に入れ、それをほろほろちょうの中に入れて、それを鷄(ニワトリ)の中に入れ、それを雷鳥のなかに入れ、それを鵞鳥のなかに入れ、それを七面鳥の入れ、それを野雁に詰める。
この(ホントは途中で葡萄の葉で包んだり、もっと手間がかかってる)詰め物を、調味料とかと一緒に鍋に入れて、二十四時間とろ火で煮る。んで、できあがったら、順にまわりの鳥を開いて捨てて(!)、最後にオリーヴの実を取り出して、それを食べる。…いいね。
全編をとおして、小説の「金沢」とはちょっとちがったリズムのよい文章で、サクサク読んでいけた。
作者のいいところは、各所で触れてるんだけど、いわゆる通になんかなりたくないってスタンス。
なので、雑誌の取材とかで仕方なくメモった記事以外のとこでは、うまいもの食べたことについて書いてても、意外と“わからない”、“知らない”、“おぼえていない”とかって言葉でサラッと通り過ぎてたりする。「どーだ、俺はうまいもの食ってるんだ、何でも知ってるんだ」的なものが感じられないのが、読んでて気持ちいい理由のひとつだと思う。
