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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

春宵十話

2016-12-08 20:39:03 | 読んだ本
岡潔 昭和44年発行・平成26年改版 角川ソフィア文庫版
『棋士という人生』というアンソロジー文庫を読んだときに、芹澤博文九段の文章のなかに、
>(略)たいへんお世話になったひとに、数学の岡潔先生がいる。もちろん、一度も会ったこともなければ、お話をしたこともない。
という一節があり、さらに、
>確か『春宵十話』だと思うが、あの本の中から、私は将棋に関するヒントをたくさんいただいた。
と書かれてたりしたので、たいそう気になって、つい最近文庫買って読んでみた。
もっとも、芹澤九段が「とてつもない数学の大理論が一瞬にして解ける瞬間を表現して“紫の火花”と形容している」と紹介しているのの該当箇所は見つからず、岡氏の好きな芥川龍之介の書いたもののなかに、町を散歩していると「電線が切れてその端が雨水のたまりにふれ、紫の火花が散っているのを見た。」(p.153「好きな芸術家」)というのがあるだけである。
岡氏は偉大な数学者であったらしいが、「多変数解析函数論」というその専門のことを聞いても何のことかわからない私に、その偉大さがわかるはずもない。
ただ、この随筆集は、むずかしい数学の話なんかではなく、教育に関することなんかが中心なので、数式なんか出てこない。
それにしても、
>いまの教育に対する不安を述べると、二十歳前後の若い人に、衝動を抑止する働きが欠けていることである。(p.14「春宵十話」)
なんて1963年の時点で言っちゃってんだけど、そんなこといったら現代のほうが、もっと悪くなってないか、って気になる。
学生が「ただちにわかるはずの問題」をすぐにできないことについて、
>これは、わかったかわからないかもはっきりわからないのに、たずねられたらうなずくといったふうな教育ばかりやってきたために違いない。(p.45「春宵十話」)
と嘆いたり、自分で判断できないひとが増えてることにも、
>先生が合っているといえば合っているというだけで、できた場合もできなかった場合もぼうっとしている。本当は答が合うことよりも、自分で合っていると認めることのほうが大切なのに、それがわかっていない。(p.97「三河島惨事と教育」)
といったふうに教育の問題だと指摘している。
そもそもが、いちばん肝心なのは知識を仕入れることぢゃなくて、情緒や理性を養うことだってとこからスタートしてるんで、ちょっと普通のひととは言うことがちがう。
>頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。(p.13「春宵十話」)
という宣言は、なかなかパッとはわからないんぢゃないかと思う。
>何かについて述べた意見を人がよく聞いてくれそうになったり、書物を書いてよく売れたりしたときに、朝ふと目がさめて自分のいっていることに不安を感じる。この不安な気持が理性と呼ばれるものの実体ではないだろうか。(p.89「一番心配なこと」)
っていうのは、かなり深いものがある。なかなかそういう定義はできるもんぢゃない。
それは何となくわかるところがあるような気がする。
ただ、
>数学教育について一言したい。数学は人の心からとって知性の文字板に表現する学問・芸術の一種である。したがって心の中にある数学を開発することが数学教育の任務である。(p.118「義務教育私話」)
までいっちゃうと、私にはなんのことかまったく理解できない。
コメント
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