唐澤平吉 一九九七年 晶文社
こないだ『明治タレント教授』を読んだときに、そのなかで「なかなかおもしろい本であった」って触れられていて、機会あったら読もうかと思っていたら、先月だったか地元の古本屋であっさり見つけられたので、さくっと買ってみた。
>花森安治は、昭和二十三年に雑誌『暮しの手帖』をおこし、同五十三年に死ぬまでその編集長だった人である。著者はその花森の晩年に、『暮しの手帖』編集部でしごかれた若い編集者。(『明治タレント教授』p.109)
ということであるが、ちなみに『明治タレント教授』のなかで紹介されてるエピソードのひとつは、花森編集長は「藏」って字にこだわるとこあって、「藏」は鍵かかってるものであり、「蔵」の字には鍵がない、って見解をもってたって話で、藏の字の左側のとこはべつにカギを意味してるわけぢゃないんだけど、「文字をデザインとして見る人らしくておもしろい」ってもの。
文字をデザインとして、ってのは、どういうことかというと、
>また、原稿を書くのに、なにより大事だったことは、字の書体でした。花森さん好みの書体がありました。花森安治はこう書いています。(略)
>いちばん読みやすいのは、原稿用紙なら、マス目に一字ずつきちっと入っていて、大きからず小さからず、あまりくずしてなくて、どちらかというと、活字にちかいような書体、ぼくの言葉でいうと「原稿体」といった感じの字が、いちばん読みやすいし、疲れも少ない。(p.238-239)
みたいな書体のこともあるようなんだけど、どうもそれだけではない。
>しかし、字はマネられても、どうしてもマネできないことがありました。それは、花森安治の文章の読みやすさを解くカギになるとおもいます。句読点の打ち方もさることながら、なんといっても特徴的なことは、漢字とひらかなの精妙な使いわけです。
>(略)おなじ文章のなかで、漢字にしていたり、ひらかなにしていたり、用字の統一がとれていません。気まぐれでしているのでは、ありません。花森さんは意識して使いわけています。まず漢字を使うのを、最小限度にとどめています。
>(略)ひらかなの文章の中に、漢字が群がらないようにポツリポツリとちりばめてあり、その漢字もなるべく画数の少ない字を選んでいます。(略)
>これは文章力だけでなく、文字の配列の美的センスによってささえられています。(p.240)
というように一文字ずつの形だけぢゃなくて、文章全体の見た目をデザインしようという意思がはたらいていたと。
しかも出版物になったときには隣あわせの行で漢字が並ばないようにとか句読点が並ばないようにとかって、行数や文字間のレイアウトまで見通して文章が書けたらしい。
もともと文章がどうこういうよりも美術の才能があったひとで、表紙の絵を描いたり、見出しとかの書き文字をデザインするのがうまく、だからたとえ原稿用紙に文章書いても出来上がりの作品としての掲載時の誌面での見映えが見通せてたんだろうが。
「暮しの手帖」って私は読んだことないと思うんだが、驚いたことに、なんでも隔月刊の表紙の誌名ロゴが毎号ちがってたんだという、ふつう出版物の顔なんだから一度決めたら動かさないと思うんだがロゴ、毎回花森編集長がそのたびにデザインしてたらしい、好きなんだろうね、そういうつくることが。
それと、私が本書を読もうと思ったのは、まえに丸谷才一さんの『ウナギと山芋』を読んだなかに、「暮しの手帖」のエピソードがあったのが、ずっと引っ掛かっておぼえてたからで。
>いつだつたか、大江健三郎さんと料理の本の話をしてゐましたら「暮しの手帖」の料理の本はいいですよ、と大江さんは言ふんですね。
>以前「週刊朝日」の書評欄を担当してゐたとき、大江さんに料理の本の書評が割当てられたことがあるんださうです。(略)さうして実地にやつてみると「暮しの手帖」の記事は、大江さんでも(略)きちんとやれるやうに書いてあるのださうです。(略)
>聞くところによると、暮しの手帖社は男であらうと女であらうと、新入社員にはまづ料理記事を担当させるんださうですね。これは先代の編集長である花森安治さんの方針だつたんですが、新入社員をしかるべき板前ないしコックのところに行かせる。目の前で作つてもらひながら教はる。帰つて来て作り方を文章にする。(略)わからないところは(略)新入社員につきつける。そこの文章を新入社員は直す。さういふことを何度かくりかえすうちに、完全な料理記事が書けるやうになる。それが新入社員の訓練法だといふのです。この花森さんの考へ方の基本には、散文といふもののいちばん大事な機能は伝達性だ、といふ認識がある。(『ウナギと山芋』p.284-285
ってとこですね、それで「暮しの手帖」ってのはどんなこと書いてあるんだろうかってのが気になってた。
その件についても、もちろん本書でも一章がさかれてる。
>丸谷さんが指摘しているように、『暮しの手帖』の料理記事は、作り方の説明がわかりやすく、また正確なことで定評があります。(略)
>料理というのは、作っただけでは料理ではありません。かんじんなことは食べてみてうまいかどうか。(略)まず、その見きわめから料理記事ははじまります。(略)
>(略)作った料理を、うまいかどうか判定するのが〈試食〉です。これは料理担当者がしますが、近くにいればだれでも食べてよろしい。(略)その結果、うまいと評価された料理がのこり、(略)記事に採用する料理としていました。これが第一の関門です。
>第二の関門は、丸谷さんの発言のとおり、料理担当者の書いた原稿を読んで、べつの編集者が作ります。これが〈試作〉です。(略)この試作を試食することによって、料理のでき具合、見ためや味が料理人の作ったとおりか、わかります。おかしければ、担当者の原稿が不明確だということになります。(略)
>このように、『暮しの手帖』の料理記事には二重のシカケがあり、原稿が何人もの編集者のからだを通って書かれています。作り方の説明をすなおに読めば、だれでも作れるのです。(p.135-136)
ってとこですね、プロの料理人が読んでも、内容が正確で勉強になるんだそうです。
でも、料理のできよりも、やっぱ文章いかに書くべきかってとこに戻って、私は興味をもつな。
>花森安治の『暮しの手帖』の文章の基調にあったのは、読者への気くばりです。文章やことばについての花森語録を、ここにあげてみます。
>「教えてやろう、というようなニオイのする文章がいちばんイヤラシイ。読者とおなじ眼線に立って、文章を書け」
>「やさしく書いたからといって、わかりやすいとはかぎらん。書いている本人がその意味を正しく理解していないと、わかりやすい文章にはならんのだ。一知半解の人間に、わかりやすい文章は書けん。一知半解、二歩後退というんだ」
>「ひらかなにすれば、やさしくなるわけじゃない。ひらかなで〈ひじょう〉と書かれたら、非常の意味か、非情の意味か、わからなくなる。それこそヒジョウシキだ」
>「改行が少ない文章はよみにくい。多くても十行が限度だ。だらだらと長くなるのは、なにを書くのか、頭の中できちんと整理されていないからだ」
>「いい文章にはムダがない。木で鼻をくくったような文章には情がない」
>「文章をやさしく、わかりやすく書くコツは、ひとに話すように書くことだ。眼で見なくてはわからないようなことばは、できるだけ使うな」(p.105-106)
といった薫陶があったそうです。
こうやって文字にされてみると、いいこと言ってるなという感じがするけど、実際には編集者たちは書いた原稿をチェックされるときに、なんだこれはバカヤロウってくらいの勢いで怒鳴られ叱られてたらしい、なんとかハラスメントみたいな言葉はない、古き良き時代だ。
本書の章立ては以下のとおり。
職人とよばれた天才ジャーナリスト
花森さんとの出会い
どぶねずみ色だっていい
弟子になるのもラクじゃない
暮しの手帖社の常識
わたしの商品テスト入門
負け犬になるな
お当番さんにあけくれる一日
研究室のみそ汁
三つのしごと
編集会議は会シテ議サズ
文章は話すように書け
カメラと標準レンズ
〈ある日本人の暮し〉余話
おいしい料理には詩がある
すばらしき日曜日
ドイツの緑、イギリスの茶色、日本の青
装釘にも一流のこだわり
オニ編集長も昔はホトケだった
ミステリーと春団治
チョンマゲ野郎への挑戦
眼は高く手は低く
紺のベレーと白いジャンパー
兵隊やくざと戦争を知らない子供たち
ナベさんの涙
字は編集者のいのち
波うちぎわに立つ一本の杭
みなさん、どうもありがとう
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