かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

世界の至宝・法隆寺 ~1400年の歴史を未来へ~

2023年02月18日 | Nara ( Japan )
今日は、温かい。
明日は、もっと温かくなるようだ。
花粉症の人はたいへん?
私は、花粉症デビューにならないよう祈るのみ。



今日は、昨年も行った法隆寺シンポジウム。
会場も昨年と同じ有楽町朝日ホール。
マリオンにある。



あまり、商売っ気はなく、まじめなシンポ。
会場はほぼ満席だったが、当選確率は、2倍だったという。
何と、勉強熱心な人が多いことか。



プログラムはこんな感じで、まず法隆寺管長が法隆寺の歴史について総括。
その後、3名が、そらぞれの分野について講演を行い、最後座談会という流れ。
リレー講演は、知っている内容や、文化財保護の歴史についての内容で、興味いまいち?
座談会で、焼損した金堂内陣の公開案についての、現状が披露され、興味深かった。

講演1は、東京文化財研究所保存科学研究センター長の建石さん。
数年前まで、奈良県庁に出向され、この金堂内陣公開プロジェクトに取り組まれてきた。

法隆寺は、日本の世界遺産第1号だが、当時は、世界遺産に対する認知度も低く、文化庁主導で、法隆寺は全く受け身だったという。
指定されたポイントは、①木造建築の傑作②仏教伝来直後の姿と将来への影響③中国文化が日本に変化を加えて受け入れられていった④仏教が流布される重要な段階等だったという。
確かに、最初法隆寺ができた時は、607年で、聖武天皇の時代よりも、150年近くも前だ。

興味深かったのは、昭和24年に金堂が焼損した時、上層は、戦争の被災をさけるため疎開していて、焼失から免れていたということ。
私は、建物は、全部再建と思っていたが、上層は、1400年前の物が引き続き残されていたのだ。

若草伽藍の話は知っていたが、今の法隆寺の伽藍と場所も違うし、方向もずれる。
様式も四天王寺様式で、より中国的。
聖徳太子一族が滅んでからの再建となるから、何かの意図があって、元の法隆寺とあえて変えて再建されたのか。

太子信仰は、飛鳥時代後半から既に始まり、南都七大寺時代に定着したが、江戸時代、国学、儒学が重用されるようになり、廃れたという。
廃仏毀釈もあり、文化財が粗末に扱われるようになったことを危惧し、湯島聖堂博覧会が開かれたのが1872年で、これが、トウハクの始まりになった。
その後、諸法律も少しづづ整備された。
まさに、法隆寺は、文化財保存科学の嚆矢と言える存在だ。

講演2は、奈良文化財研究所副所長兼文化財防災センター長の高妻(こうづま)さん。
文化財を守るためにどのような活動が行われているのかの話だった。
災害だと、地震、台風、火災になるが、その歴史を追うと、阪神淡路大震災以降、地震と台風の頻度が急増していることがわかる。
まさに平成になってからだ。
もちろん、他国では、戦争による被災があるが、日本は、幸い、戦後その事態に見舞われてはいない。

その対策として、文化財レスキュー隊(運べる物)、文化財ドクター派遣事業(直す物)があり、その集大成として、2020年10月1日に、文化財防災センターが設立されたのだそうだ。
ただ、環境は厳しさを増しており、その要因は、過疎・都市化・少子高齢化に伴う地域社会の脆弱化にある。
文化財を守る社会がなければ、保護もおぼつかない。
文化財は誰ものか、文化とは何かが問われている。
自分で守ろうとする意識が薄まっているのではないか。
氏は、社会のインフラの一つと説く。

講演3は、奈良文化財研究所長の本中(もとなか)さん。
まずは、世界遺産登録の要件とそれがどのように法隆寺に当てはまったかという話。
この話は、縄文遺跡の世界遺産登録の本を読んだ時、詳しく書いてあった。
難しい言葉で言うと顕著な普遍的価値(Outstanding Universal Value)の言明が認定には必要になる。
そのOUVは、総合的所見(評価基準、完全性・真実性、保護・管理の条件)にまとめられるが、法隆寺が指定された際、焼損部材の記載がなされなかったといい、これは、明確に世界遺産の一部に指定されているので、加えられるべきと説く。
そもそも世界遺産は、移動可能な物は対象外で、仏像などは、世界遺産に含まれていない。
また若草伽藍のような、地底に埋まっていたものについても含まれないという。
ただ、この定義は、この30年で大きく変わっているのは、みなが感じている通りだ。

法隆寺が指定された際、そもそも定期的に建て替えられたり、大規模修繕されている木造建築物が世界遺産対象になるのかという議論があったそうで(ベニス憲章違反?)、法隆寺が指定された後に、奈良会議が開かれ、明確に対象になると、再定義されたのだという。
そういった意味で、法隆寺が、世界遺産に指定された意義は、①文化遺産第一号、②修理に対する世界の理解(木の文化圏)、③文化財保存への意識変化という点が指摘できるという。
その後も、多様性とスタンダードとのバランス・調和が図られてきた。

座談会では、金堂内陣の公開に向けての話しが主だった。
昨年、1昨年と、クラウドファンディングによる限定公開がされたが、温度変化や、湿度変化、焼損文化財に与える影響調査が目的だったという。
これも初めて知ったのだが、焼損した柱は、内側が焦げているだけで、大部分は、無事なのだという。
壁画は、残念ながら、かなり傷んでしまったが。
だから、焦げた部分を削って、再建する方法も可能だが、文化財保護の意識を高めるためにも、現状での展示を目指しているという。
私のような素人だと、アクリル等の箱に覆って、外から見せればいいのではと思うが、その1400年前の木の香り、焦げた木の香りが残っており、是非、直に見れるように公開したい強い思いもあるとのこと。
ただ、そのために、カビが映えたり、形状が変わってしまっては、本末転倒なので、難しいところ。
近い将来、方向性が示されるということで、その内容が楽しみだ。

法隆寺についてのシンポジウムというよりは、文化財保護、世界遺産についての話しが多かったようにも思うが、興味深い内容だった。
本シンポジウムの内容は、3月下旬の朝日新聞に掲載されるそうなので、購読中の方はお楽しみに。

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牽牛子塚古墳

2022年12月17日 | Nara ( Japan )


今日から、しばらく関西。
まず、現在ガイドツアー付で見学できる飛鳥の牽牛子古墳へ。
来年以降、ガイドツアーが継続するかは、未定とのこと。
冷たい雨だったが、1対1対応で案内いただき、充実の1日になった。



飛鳥駅から、歩いて10分ぐらい。
途中で見かけた鳥。



養護施設を過ぎると視界が開け、牽牛子塚古墳が見えて来る。
牽牛子は、朝顔のことだが、昔から、八角形であるらしいことは、わかっていて、この名があるという。
この碑は、今回の調査、復元完了後建てられたものだが、奥に大正時代に建てられた碑がある。
その時は、隣の越塚古墳は、忘れ去られていて、越塚古墳の名は刻まれていない。



左手前の方墳が、越塚古墳で、奥のピラミッドのように見えるのが、牽牛子塚古墳。
覆っている凝灰岩の板は、当初は、ニ上山のものが使われていたが、今は、採掘禁止になっており、石川県の石が使われたとのこと。
ガイドの山田さんは、80歳近いということだったが、詳しくいろいろ教えてくれた。



古墳の入り口。
この入り口は、前から知られていた。
その他の部分も崩れて来たため、全面調査を行い、元の姿に復元した。
復元に際しては、天武・持統天皇陵の上3段の形状を参考にしたのだという。
飛鳥は、佐渡金山の次の世界遺産を狙っているが、彦根城が優勢とのこと。
飛鳥の方が、よっぽど重要と思うが。



ガイドなしでも、ここからは、中を覗ける。
ガイド付だとさらに中に入れる。



中に石室が2つあり、2人が葬られていたことがわかる。
斉明天皇と、その娘の間人皇女と考えられている。
そして、越塚古墳が見つかり、斉明天皇の姪、天智天皇の娘である大田皇女の墓と考えられ、日本書紀の記載と見事に一致した。
天皇陵として指定されなかったため、調査、復元が可能になった。
天皇陵であることを示す八角陵は、他に4陵が知られるが、内1陵も、天皇陵に指定されていなかったので、調査の結果判明した。
宮内庁が、誤りを正さないおかげ?
石室は、凝灰岩をくり抜いているが、その周りを安山岩で、囲って保護している。
石室の上は、築石で覆われていたが、長年の風雨で、崩れてきてしまっていた。



こちらが、越塚古墳。
大田皇女は、天智天皇の娘だが、天武天皇の最初の妻、持統天皇の姉ということになり、その息子達は、悲惨な運命を辿った。
大田皇女の息子の大津皇子は、謀殺され、二上山に葬られたと伝わる。



越塚古墳内部。
牽牛子塚古墳と造りは一緒だが、石室は、一つ。



中で、映像が見れるようになっており、ガイドツアー用の長編と、一般用の短編があり、両方、満喫した。
飛鳥時代のど真ん中で、ヤマト朝廷が揺れ動いていた時代。
大陸との関係も、揺らぎ出していた時代だった。
そのため、朝廷の体制固めが、急務だった。



一通り見学後、少し上へ。



展望台からは、高松塚古墳や、天武・持統陵が臨める。
天武・持統陵は、牽牛子塚古墳の、真東にあるという。



見学後、大阪へ。
飛鳥駅では、素朴な駅に似つかわしくない豪華列車が。
ビスタカーで十分と思うが。
明日からも、予定一杯。
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唐招提寺への道

2022年11月08日 | Nara ( Japan )


本書は、上野誠さんの番組を見ていて、その存在を知り、即ゲット。
初版が1975年で、ゲットしたのは39刷。
名著だった。

著者の東山魁夷さんは、日本画壇を代表する画家で、蒼い森をバックにした白馬のデザインで有名。
唐招提寺の障壁画を描いたことでも知られており、あまり奈良を知らない頃に、鑑真和上像の特別展に行った時に初めてその絵を見て感動した記憶がある。
本書は、東山魁夷さんの半生と、唐招提寺の障壁画を描くことになってからの制作過程を描いているが、まずは、その文体のしっかりしていることにびっくり。
単なる絵描きではなく、物書きとしても、文化人としても、超一流であったことがわかる。
本書が、ロングセラーになったこともうなずける。

一番凄いと感じるのは、日本文化、特に、奈良や、日本の自然に対する洞察力。
私みたいに表面的でなく、心眼で見ておられることがわかる。
海外にも欧州中心に多く訪れ、日本のすばらしさを、さらに、認識されたそうだ。
特に奈良については、私も相当回っている方だが、それ以上に、隅々まで、様々な季節に訪れて、的確な感想を述べられている。
その縁もあって、唐招提寺の障壁画を描くことになった訳だが。

その大事業を引き受けてからの話がまた凄い。
お堂の全体の構造を踏まえた、絵の題材の検討から始まる。
そして、鑑真和上の生涯に深く関係する海、山を主テーマに決め、その題材を求めて、日本各地の海山を自ら訪れる。
そこまでするかという徹底ぶりだ。
行く先々で、さまざまな出会いがある。
波一つとっても、滝一つとっても、同じ物はない。
そして、理想の姿を探し求め、各地を回り、スケッチを続ける。
写真でも良さそうなものだが、実際描いてみないと、本当にいい題材なのか、判断しきれないのだろう。

構想をまとめて、本事業の依頼者の森本長老とすり合わせをして、全体配置を決めてから、小下図、中下図と、段々実物大に近づけていく。
一見遠回りのようだが、いきなり実物大で、描こうとすると、いろいろ迷って、先に進めなくなるそうだ。

昭和50年までが、第1次事業だったそうで、そこで、本書も終わる。
その後も、この事業は続き、完成したことを、我々は知っているし、その成果を、展覧会等で直に見ることができる(普段は、作品保護のため、公開されていない)。

平山郁夫さんの、薬師寺の障壁画も同じような経緯で描かれたと理解するが、その最後の一筆を、20世紀最後の瞬間にNHKの生放送で見たことを思い出す。
当時は、たまたま見ただけだったのだが、平山さんにとって、そして、日本国民にとって、重要な一筆であった。

奈良に興味のある方は、是非一読を。
本書片手に奈良を回るのも一考。
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高野山 Day2 & 奈良

2022年11月04日 | Nara ( Japan )


今日は、まず、高野山Day2。
朝6時から、宿坊の福智院さんで、読経、講話。
左右、中央から、生?の読経。
美しい。
ビートルズが、Tommorow Never Knowsで出しかったイメージが、まさにこれか。
般若心経が、両側から流れ、鐘が、突然はいり、中央から、別のメロディが流れる。
ジョンに聞かせたかった。
住職は、50数代目とのことで、いつから続いているお寺なのだろう。
本堂から、見たお庭も素晴らしい。



これは、部屋の廊下から観れる、裏側の庭だが
大きな恋か泳ぐ池と、椿と、紅葉のアンサンブル。
完璧だ。



今日は、まず金剛三昧院へ。
10数年前、初めて訪れた時にも来た。
ちょっと外れたところにあるので、訪れる人も少ないが、素晴らしいお寺。
この多宝塔は、北条政子が、頼朝と、実朝の菩提を弔うために寄進したと伝えられる。
石山寺の多宝塔に次ぐ古いもので、国宝に指定されている。



もちろん、紅葉も美しい。



さらに、メインの奥之院に向かう途中に、苅萱堂があった。
切ない話が伝えられる。



奥之院入り口に到着。
ここから、さらに奥に30分ほど歩くのだが、ここから空気が変わる。



アップダウンは、それほど多くないが、杉並木が続き、無数のお墓に囲まれる。



姿見の井戸。
井戸を覗き、自分の姿が映らないと、3年以内に亡くなるそうだが、ちゃんと映ったので、あと3年は、もちそう。



お墓は、戦国武将、江戸時代の大名、財界人のお墓が多いが、一般人のお墓もあり、また戦没者を追悼する石碑も多い。
これは、豊臣家のお墓。



これは、豊臣に滅ぼされた明智光秀のお墓。



石田三成は、豊臣秀吉の願いを叶えようとしていたのだが。



織田信長が、そもそも戦国時代の終わりを目指したのだっけ。
敵も味方も、空海の元では、みな一緒。



そして、奥之院到着。
ここからは、撮影禁止だが、荘厳な世界。
空海は、まだここで生きて、我々を見守ってくれている。



ちょっと時間があったので、昨日のルートを復習。
美しい金剛峯寺の参道。



壇上伽藍への道。
空海は、ここまで構想していたのだろうか。



根本大塔。
聳え立つ。



国宝の不動堂。



根本大堂と、金堂。
壇上伽藍の中心。



高野警察。
宿坊の近くで。ここのバス停を、多用させていただいた。



高野山を後にして、奈良へ。
また、天空利用。



ランチタイムだったので、駅で、柿の葉寿司をゲット。



鯖と鮭が半分づつ。
伝統の味。



山の景色を楽しみながら、舌鼓。



奈良では、まず、時間指定予約制をしてあった正倉院展へ。
相変わらずの人気だが、いつも素晴らしすぎる展示。
8世紀の世界が、目の前に広がる。



ならまちへふらっと。



猿沢豆花門で、猿沢豆花。
甘味は、久しぶり?



今回は、豪華に奈良ホテル。
辰巳金吾の設計だそうだ。
伝統が息づく。
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中将姫と當麻曼荼羅

2022年08月03日 | Nara ( Japan )


今日は、関西。
暑い。
前、奈良セミナーで興味を持っていた、中将姫と當麻曼荼羅展に行って来た。
當麻寺には、2回行っているのだが、曼荼羅は、暗くて見にくく、絶好のチャンス。



歩く人は、少ないが、意外と外国人比率が高い。
館内は、これも意外と客が入っていて、関西人の、中将姫へのシンパシーの厚さを感じる。



展示の方だが、まずは、江戸時代に作られた貞享本が、素晴らしい。
当初の綴織曼荼羅と室町時代の文亀本の傷みが激しいのを性愚という僧侶が嘆き、2つの曼荼羅の修復と、貞享本の作成プロジェクトが進められたという。
今回の修復で、軸から、その当時の文章が多数発見され、その経緯がより明らかになった。
頼朝らが寄進した厨子の扉や、最初板に貼ってあった綴織を剥がす時に使った紙とか、ユニークなお宝も展示されている。
当初の綴織は、唐で作られ伝来したという説も強いようだ。

その他にも、複写本が多く作られ、展示されているが、それぞれ見事。
全国各地に。

もう一つスポットライトが当たっているのが.中将姫の物語。
様々な伝承が、様々な形で伝えられていることを知った。
神奈川県のお寺からの、出展も多い。
実在したかも不明な女性の生涯が、語り継がれてきた。
そもそも継子いじめの話も、後で付け加えられた説が強いという。
仏を信じることの大切さを教えることを目的として、中将姫の説話が構築されていったということなのだろうか。
周辺の像、書物なども沢山展示されていて、興味は尽きない。
奈良時代の仏教に興味のある方に、幅広くお勧めできる。



秋は、お茶会をやっているが、この暑さではとても。



昼、つけ麺ラーメンをいただいだが、なかなかユニーク。
これも、美味しかった。
充実した1日だったが、新幹線が80分も遅れて、忙しくなってしまった。
線路内立ち入りと言っていたが、新幹線で.線路内立ち入りというのも、初めて。
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