かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

法隆寺の謎を解く

2007年06月30日 | Books

宮沢元首相が亡くなられた。ご冥福をお祈りする。
なんせ、まだ戦前の、若かりしころ米国を訪問し、グローバルな視野を得た。その後、スーパー官僚として、活躍。政界に転じ、時間はかかったけれど、首相にまで、登りつめた。
やはり、印象深いのは、1986年の急激な円高時代に、蔵相で、何か一言発言するたびに、10円単位で、円高が進んだ時だ。自分の考えは、しっかりお持ちだったが、蔵相時代、首相時代とも、大きな流れに翻弄され、結局、日本経済がバブル化するのを許してしまった。その後の、後始末の大変さにもいち早く気づいていたが、抜本的な対策を打てなかった。
宮沢さんの自伝を前に読んだが、ひじょうに率直。『何をすれば良かったのかわからない。』。実感なのだろうが、それを、言ってしまうところが、宮沢さんが政治家向きではなかったかもしれないと思わせるところなのだろう。



『法隆寺の謎を解く』という本を読んだ。著者は、武澤さんという方で、建築家なのだが、インドを中心にアジアの仏教遺跡を巡られていて、アジアの仏教施設という視点から、法隆寺の謎に挑まれている。
本当に、法隆寺というのは、謎だらけ。特によく取り合げられるのが、中門のど真ん中にある柱。この柱は、一族が滅亡し、怨霊となった聖徳太子を封じ込めるためのものだという梅原氏の本は、私が学生時代にバカ売れしたが、この説は、本当にOne of Themに過ぎない。武澤さんもこの説には、反対されている。この柱はビテイコツだという。

建築家らしく、当時建設された寺院の、伽藍の配置を研究する中で、当時の寺院建設において、大きさも高さも違う、塔、金堂、講堂などの伽藍をどのように配置するかが、大きなテーマだったことに着眼されている。法隆寺では、門を入って、左に塔、右に金堂、奥に講堂があるのだが、左右のバランスは全くとれていない。この中門のど真ん中の柱が、バランスを保つことに貢献しているのではないかというのだ。

今の法隆寺が、再建されたものであることは、知っていたが、古い法隆寺が火事になった跡に、そのまま再建されたものではなく、位置も、方角も、微妙に振れており、再建時期も、旧法隆寺の建設時期と重なる部分もあり、これまた大きな謎になっているという。
日本の創成期の、魅力的な謎だ。

コメント (21)
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借りたカネは返すな

2007年06月29日 | Topics
借りたカネは返すなというのは、2002年に出た本。題名を見て、怪しげな本と思って読んでいないのだが、その著者である八木さんの話を聴く機会があった。

八木さんの話では、元々この本の題名は、借りた金で、金は返すなだったが、題名のインパクトを強くしたい出版社の意向で、借りたカネは返すなになったそうだ。随分印象が違うが、八木さんの言いたいことは、この題名にも表れている。
要するに、商売の調子が悪くなると、予定通りのスケジュールで、借金が返済できなくなる場合があるが、その際、高利の借金をして、元の借金を返すと、破滅だということを訴えたかったとのこと。家族を保証人にしたり、自宅を担保に入れたりしたら、最悪だ。
不幸にもそのようになってしまった場合、元の借金の返済スケジュールを変える努力をし、最悪の場合、そこで、万歳してしまえば、また、次のチャンスがあるということをおっしゃっていた。頑張りすぎてはいけないということだ。

所謂、再チャレンジ(Turn Around)ができるようにして、つぶれなさいということ。
横浜市作成のパンフレットによれば、無添加化粧品で有名なファンケルさんや、ブックオフの創業者も、再チャレンジで、成功した人々だ。

経営者を見る時、歩き方、こけ方、起き方を見るとおっしゃっていたが、面白い表現だと思った。

ちなみに、この八木さん、コンサルタントになる前は、銀行で、債権回収がお仕事だったとのこと。道理で、いろいろよく知っておられる。
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村田兆治さん

2007年06月28日 | Sports

朝鮮総連の問題は、全くわからない。常識からは、かけ離れた、とんでもない、かつ、不可解な事件だ。
なるほどという、捜査側の意見と反論を聞きたい。どのような反論がありうるのだろうか。

村田兆治さんの講演会を聞く機会があった。ロッテという弱小球団のエースとして、215勝をあげ、その後、離島の振興策として、215の野球教室を開くことを目的として、頑張られている。離党少年野球大会の開催にも漕ぎ着けたようだ。
今も足腰は、全然衰えていない。会場で見せた、右足のみでの、屈伸は、感服するしかない。現役時代は、毎日千回やっていたという。現役時代からずっと専門の栄養士をつけているそうだ。体が資本の商売だから、体への投資のための金に糸目はつけない。水道水は、プロに入ってから飲んだことがないという。ひじの故障の時も、当時まだ珍しかった手術を、アメリカで受け、成功した。すごい費用がかかったろう。

ちなみに、私は、学生時代、日米野球で、村田投手が、バッタバッタとメジャーリガーを、なぎ倒していく様子を目の当たりにしたことがある。今の時代だったら、アメリカに渡って、松坂以上の活躍をされていたかもしれない。その前に、FAで巨人に行っていたかな。当時は、FA制度も、メージャーリーグになる道も、実質閉ざされていた。

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春口廣さん

2007年06月27日 | Sports





梅雨らしい天気になってきた。庭の紫陽花も、味わいを増してきた。紫陽花は、結構、育てやすいのかな?勝手に綺麗に咲いてくれるような気がする。

今日は、いいことがたくさんあった。人生糾える縄の如し。人生七転び八起き。そんな大げさなものではないが、一喜一憂していたら、疲れてしまう?

ラグビーで有名な、関東学院大学のラグビー部の監督である春口さんの話を聴く機会あった。
意外と小柄な方だったが、ゼロから、日本一に、関東学院大学のラグビー部を育て挙げた人だ。自信あふれた話振り。特に早稲田への対抗心がお強いようで(清宮さんの名前が、何回も出てきた)、当初3軍に試合をさせてもらうのがやっとだったが、強くなってからは、逆に、早稲田が、関東学院の練習の様子を偵察に来たという。確かに、予算も、部員を集める力も、全然違うだろうから、関東学院大学の活躍振りは、驚異的といえる。

ラグビーは、怪我の多いスポーツなので、選手が練習し易い環境を作るため、グラウンドを芝生にすることから、始めたという。
それから、Ultimate Crash(完全なる勝利)を目指し、日々努力を続けた結果が、早慶明のラグビーの世界をひっくり返すことにつながった。

ラグビーは、サッカーに比べ、マイナーになっている気がするが(私が学生時代はもっと人気があった)、春口さんによれば、指導者の世代交代が進まなかったこと、花園が放送されなくなったこと、怪我が多いスポーツのため、親が子供にラグビーをさせたがらなくなったことが、原因だという。
春口さんは、それを払拭するべく、タグラグビーの普及にも力を入れている。タグラグビーは、腰に巻いたタグに触れられたら、タックルされたとみなし、ボールを離さなくてはならない。これだったら、小学生でも、女性でもできる。
そんなのラグビーじゃないという意見が当初多かったそうだが、だんだん浸透し、そのおかげで、ラグビーの裾野人口が増えつつあるという。
スポーツ振興は一朝一夕ではできるものではないが、きちんと努力を継続すれば、成果につながることが、実感できた。

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川渕三郎さん

2007年06月26日 | Sports

今日は、なぜか悲しいことがたくさんあった。目覚ましTVでの運勢はそう悪くなかったのに。その中で、最悪は、巨大金魚の残りの一匹が死んでしまったこと。享年3年弱。相棒が先に死んで寂しかったのか、元々寿命だったのか。合掌。
ぽっかりと空になった水槽が、家族の心を象徴しているようだ。

川渕三郎さんの講演を聴く機会があった。

前にも書いたと思うが、ドイツワールドカップのアジア予選の際、シンガポールで、一緒の部屋で、不愉快な試合を同じ部屋で見て以来(弱小シンガポールに対し2-1で辛勝。同じ部屋だったのは、シンガポールは暑いため、VIPルームが用意されていて同室だったため。)だったが、その時と全く変わらずエネルギッシュ。

私があまり知らなかった日本のワールドカップへの道を語っていただいた。

日本のサッカーは、1965年の日本リーグ立ち上げ後、1968年のメキシコで、メダル獲得後1996年のアトランタまで、全く国際試合に勝てなかったのだそうだ。今、ワールドカップに、出場できるようになった日本を当たり前と思っている人には、信じられない話。小学校時代、国立競技場に、日本サッカーリーグを見に行った記憶があるが、子供ながらに下手だった(背番号5番の選手だった)。

元々、1990年に、2002年のアジア初のワールドカップを日本に誘致しようということになり(ここから突飛なのだが)、Jリーグ構想が浮上。1990年には、15000人以上収容できるスタジアムがなく、4000人以上収容できるところでさえ、2つしかなかったという。いかに突飛なのかがわかる。
Jリーグのチーム設立には、①ナイターで、15000人の観客を収容できるサッカー場を持つ、②法人化する、③ホームタウンを持つ、④下部組織を持つという条件で、チームを募ったが、当初の20の申請が、14にはなったが、最後に絞る時、ひじょうにたいへんだったとのこと。
その時、何にもベースのなかった鹿島がねばり、無理難題をふっかけたがついてきて、結局Jリーグの一員となり、その後強豪チームになった。そのおかげで、鹿島の暴走族が応援団に変わるという副次的効果もあったらしい。
Jリーグの人気が定着してからの様子は、皆さんご存知のとおり。

ドイツで、決勝リーグに残れなかった時、予定より早く帰国し、お詫び会見を開いたところ、次期監督は、オシムと漏らしてしまったため、お詫び会見ではなくなったしまった(この場面のみが繰り返し放映された)。故意のリークではなかったと、心底おっしゃっていたので、これは嘘ではないのだろう。

この非連続な成長を遂げた日本のサッカーから学ぶことは多いように思った。

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