かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

悠久のエジプトその8 サッカーラ

2024年02月29日 | Europe・Middle East・Africa
今日は、在宅、と言っても夕方から、海外の予定。
ブログ更新が、しばらく不定期になるかもしれない。



海外行く前に、お墓参り。
横浜でも、梅が見頃。



メンフィスの少し西にサッカーラがある。
階段ピラミッドで有名だが、その周りのコンプレっクスを通って、入場することになる。
このコンプレックスの周りにも、ピラミッドや、お墓群がたくさん見られる。



門の入り口。
東西277m、南北545mの周壁に囲まれている。



柱の廊下。
天井部分は、失われている。



中庭に出ると、階段ピラミッドが姿を現す。



第3王朝のジュセル王のピラミッドで、初めて石材を用い、マスタバと呼ばれていた大墓を6段重ねて、この階段ピラミッドを建設したと考えられている。
当初は、1辺63m、高さ8mのマスタバだったのが、どんどん増築されて、今の姿になった。
紀元前2680年頃のこと。
その後、3大ピラミッドに進化したのは、日本の古墳の成長と似ているかもしれない。



東側には王の小館と呼ばれる建物がある。



階段ピラミッドでは、裏側にある入り口から、中にも入った。
中は、広く、後から作った道なのか。
クフ王の墓よりも、全然楽。



墓室に入ると、天井は、建設当時の、木の梁が見える。



石棺は、はるか下に見える。
それも、かなり大きく、重量感がある。
どうやっておろしたのか。
まずは、深く穴を掘り、石棺を安置するところから、建設は始まったのだろうが、それが、こんな巨大なピラミッドになったのか。
謎は、深まるばかり。



コンプレックスの南側から出ると、お墓がたくさんあるのがわかる。



第5王朝最後の王であるウナス王のピラミッド。
かなり崩れているが、中に、王の葬送儀式の間に唱えられた「ピラミッドテキスト」が刻まれている。



大きな穴があるが、貯水槽?



ウナス王のピラミッドの前は、参道になっていて、様々なレリーフが残されている。



天井が残っている部分には、星天のレリーフが。



これは、戦争の様子か。



回りには、多くの墓が点在している。



サッカーラは、カーペットの産地として有名で、カーペット工場が並んでいる。



エジプトと言えば、綿だが、シルクもあり、完全に手作業。
編み方が、独特で、織機のようなものは使わず、張った経糸に横糸をくぐらせていく。
経糸の幅が小さいので、子供の手が適しているのだという。
今は、土日にしか子供を働かせていないとの説明であった。
確かに、経糸に2回横糸を絡ませていくので、めちゃくちゃ手間がかかっている。
せめて機織り機のような機械を使えばいいと思うのだが。



敬意を表して、シルク製の小さなカーペットをゲット。
シルクはやはり綺麗で、角度を変えると、きらきら輝く。
デザインは、ヒエログリフのアルファベット。
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悠久のエジプトその7 メンフィス博物館

2024年02月28日 | Europe・Middle East・Africa
今日も関西、いい天気。
遅々として進まないエジプト旅行の報告の続き。



ダハシュールからちょっとカイロ方向に戻ったところに、メンフィス博物館がある。
メンフィスは、古王国時代の首都で、テーベ(ルクソール)に都が遷り、衰退したが、ペルシャ時代に復活し、ローマ時代には、アレキサンドリアに次ぐ第2の都市として栄えた。
そこにあるのが、メンフィス博物館。



博物館というものの、このラムセス2世像を覆う体育館のような大きな建物。
身長15mというが、こんな大きな巨像が、本当に立っていたのだろうか。
砂に埋もれていたため、保存状態もよい。
この巨像を掘るだけでもたいへんなのに、それをどうやって立てたのだろうか。
まだ、鉄もない時代だ。



2階の廻廊から見下ろせるが、それでも、1枚の写真に収めるのが難しいほど、巨大。
足を踏み出している姿で、これは、生きている姿を現している。
足をそろえ、手を胸でクロスさせる姿は、亡くなった後の像だ。



博物館の奥の庭は、屋外博物館になっていて、貴重な、発掘物が、展示されている。



その中でも目玉なのが、このアラバスター製のスフィンクス像。
長さ10m。
1912年に発掘されたそうだが、エジプトで、一番保存状態がいいスフィンクスと言われている。
鼻やあごひげも綺麗に残っており、全体のスタイルも美しい。



神殿があったと考えられており、今は、その両側に発掘物が展示されている。
今も発掘進行中。



ヒエログリフ文字が残る石棺。



突き当りにも、ラムセス2世の像がある。
本当は、隣に、立派な博物館を作って、これらのお宝を綺麗に展示したらと思う。
神殿跡は、もっとしっかり発掘すれば、いろいろ出てくるのだろう。
ラムセス2世の像は、移動できないと思うが。

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長岡京散策 & 庄野真代

2024年02月27日 | Kyoto・Osaka・Shiga ( Japan )


今日は、関西。
長岡京駅で、初めて降りてみた。
そこここで、歴史を感じる街だった。

夜、クラブに行ったりもしたので、歩数27,700歩!
途中、道間違ったり、雨降ったりで、結構たいへんだったが。



駅前の碑によると、向日町(むこうまち)と、(あの)山崎の間が長かったため、その間に1931年、神足(こうたり)駅が作られ、1995年に、長岡京駅に改名したという。
当時、長岡京のあった場所という認識が低かった現れか。



まず、恵解山(いげのやま)古墳に向かったが、途中、勝龍寺土塁・空堀跡が、あった。
戦国時代、細川家が築いた土塁だそうだ。



その奥に、神足神社があった。
平安時代の記録に残る古社。



その先に、勝竜寺公園があった。
天気が悪くてゆっくり見れなかったのだが、結構整備されている。
明智光秀が、山崎・勝龍寺城合戦で敗れ、ここに退却したと伝わる。



明智光秀の娘(明智玉子)は、細川藤孝の嫡子 忠興のもとへ嫁ぎ、勝竜寺城へ輿入れ。
1男1女を授かるも、本能寺の変が起こり、丹後に幽閉され、大阪玉造に移った後洗礼を受け、細川ガラシャと呼ばれるようになった。
関ヶ原が近づき、石田三成に攻められ、自害したという。
悲劇だが、細川忠興は、秀吉、家康に仕え、肥後熊本細川家の基礎を築いた。
戦国時代の重要な舞台となったお城だった。



そして訪れたのが、恵解山古墳。
全長128mの乙訓(おとくに)地域最大の前方後円墳。
古墳時代中期の古墳という。



一部、葺石が、現物を使って再現されていた。
川原石が使われていたという。



埴輪が、再現され並べられている。
西の造り出しが見える。



前方部中央に刀剣類が多数埋葬されていた。
凄い量だ。
埋葬者の身分の高さを感じる。



後円部側の歩道橋から見下ろしたところ。
後円部は、墓地になっており、入れない。



長岡天満宮に向かう途中に、長岡京の発掘パネルがあった。
立命館高校の前だが、大きな都であったことがわかる。
結局未完に終わったが、確かに、川は多いし、高低差もある。
なかなか、平安京のような都を作るのは、難しかったのではないか。



発掘された道の跡が、表示されている。
校門付近。



そして、長岡天満宮。
全国に天満宮は、多々あるが、ここは、道真公が、在原業平と詩歌管絃を楽しまれたところという。



ここは、キリシマツツジが有名だそうだが、やはり天満宮といえば、梅。
満開だった。



道真公が、左遷された際当地に立ち寄り、我が魂、長くこの地に留まるべしと名残を惜しまれたことから、木像を祀ったのが、創立という。



八条ヶ池。
江戸時代、八条宮家の,御領地だった。
通行禁止になっていたが、石太鼓橋は、加賀藩の寄進。



いかにも、天満宮らしい拝殿。
白梅も見事。



紅梅は、ちょっと手前にあったが、こちらも見事。



次に訪れたのが、乙訓(おとくに)寺。
お寺が多い地域だったが、その中で、一番由緒が、ありそうだったので。
雨が一番強いタイミングで、レンズが曇りがち。

元々、推古天皇の勅命により、聖徳太子が建立したと伝えられる。
流石にそこまで古いかはわからないが、奈良時代にはあって、長岡京の時代には、増築された。
その前、継体天皇が、弟国宮(乙訓宮)を設けたという言い伝えもあるという。

有名なのは、ここで、空海と最澄が初めて出会ったというもので、今も真言宗のお寺になっている。



長岡京を造る責任者の藤原種継が暗殺されたとされる事件で首謀者とされた早良親王のお墓もある。
空海が、本寺の再興を命ぜられたのも、早良親王の鎮魂が目的とも言われる。



ここから長岡京のシンボル的なところと思って、ナビで検索したら、ずっと東の方にあって、着いたら、何と工事現場で、立ち入り禁止。
たぶん昔発掘現場だったのだろう。
途中、大極殿の信号があったので、この辺が都の北の中央だったのか。

しょうがないので、もう1回検索したら、石碑が何とスタート地点近くにあるらしく、逆戻り。



長岡京の所在は、長い間不明だったが、1956年、ここで初めてその存在が確認されたという。
まだ、発見されてから、70年も経っていない。
当時の田んぼの区切りが、元は、街の区切りではないかと発掘が始められたのだという。
一応、10年ではあるが、都であったにも関わらず。

ということで、日本の古都は、これで、ほとんど回れたかな?
先日、恭仁京も行けたし。



夜は、初のビルボード大阪。
大阪の六本木は、どこ?



初めてだと、入り口がちょっとわかりにくい。
梅田は、いつも、わかりにくいのだが。



これは、なかなかいい感じ。



ここでは、8年振りとのこと。
正直、初期のヒット曲しか知らないのだが、その後も様々な分野で、話題を振り撒いてきた。
デビュー48周年だそうだ。



会場は、結構広くて驚いた。
横浜より広く、東京より縦は短く、横が広い感じ。
もちろん入っているビルの構造により、制約を受けるのだが。

結構知ってる曲が多くてびっくり。
中森明菜のカバーで有名な曲も。
1980年で一旦休業して、ヒッチハイクに出たと言ってたから、知っていたのはほとんど学生時代に流行った曲。
一見歌謡曲?でもやっぱりシティポップ?
竹内まりあ、渡辺真知子などと同世代。
ユーミンもかな?
新しい曲では、鈴木雄大との共作も。
1990年には、普通の新人歌手として、シンガポールでデビューしたとのこと。
凄いバイタリティー。
コロナ禍の中作ったアルバムからの曲も、かなりいい。

MCも結構あって、信念の方とお見受け。
大阪出身で、昨日女子会だったそうで、何と器械体操部の仲間という。
まさか……
そのせいか、声がよく出てる!
私よりも5歳上!



帰りは、地下道経由でスムーズ。
何故、行きは、このルートで行けなかったのか?

昼も夜も、大充実の1日。

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ヒッタイト帝国

2024年02月26日 | Books


今日は、通常勤務。
帰りに銀座マツヤでやっている銀座名匠市に行ってみた。



初めてだったが、素晴らしい。
日本の伝統工芸品が、ずらりと並んでいる。
訪れる人も多い。
外のブランドショップは、外国人ばかりだが、ここは、ほとんどが日本人。
日本の伝統工芸への関心の高さが感じられて嬉しい。
目の保養になること間違いなし!



鳴子の早坂さんの可愛いらしいえじこをゲット。
ちょっとお話ししたが、私が知っている工人の孫の世代になっているが、継いでいる人は少ないとのこと。
私も、前いつ行ったか思い出せないぐらい。
時間ができたら、是非訪れたい。



本書は、昨年11月に出たばかり。

ヒッタイトは、何となく聞いたことがあるがという程度で、あとは、鉄を最初に使い始めたようなイメージだったが、本書を読むとその理由もわかる。
つい100年ぐらいまでほとんと謎の国だった。
そもそもその場所もはっきりしていなかったが、その後の考古学的調査により、トルコの東方が発祥(アナトリアのハットゥシャ)であることがわかってきた。
それまでは、シリアの方が有力視されていたそうだ。

なぜ歴史に埋もれてしまったかというと、文字をあまり残しておらず、その文字(ルウィ語)の解読もあまり進まなかったことが大きい。
形状は、楔形文字だが、既に解読された言語とは違っていた。
やっと解読が進み、朧気ながら姿が見えてきたというところ。

一方、エジプトには、記録が残されており、先日行ったエジプトでは、ラムセス2世がヒッタイトと戦っていたレリーフが残されている。
ツタンカーメンの墓に残されていた戦車なども、当時の様子を知るための貴重なもの。
それほど、残された記録は少ない。
食べ物は、麦類中心だったらしいが、何を着ていたかも判然としないのだという。
ビール、ワインなども飲まれており、ヒッタイトのワインの言葉は、ヨーロッパの語源と一致する。
ビールは、日持ちがしないもので、沈殿物が含まれており、ストローのようなもので飲んだという。
今のようなビールになったのは、チェコのプルゼニ(プリスナービール)であることは、昨年チェコに行った時に知った。

ピラミッドの記録を残したギリシャの歴史家ヘロドトスも、ヒッタイトの事は記しておらず、紀元前5世紀頃には忘れられていたことがわかる。
旧約聖書にそれらしき記載はあるものの、確定はできないという。

研究が一番進んでいたのがドイツだそうで、私も、ベルリン博物館でお宝を見ていた。
ただ、現在は、トルコ人による研究・発掘が優先されているという。
お宝も一部ドイツからトルコに返却されたのだそうだ。

ヒッタイトが人類最初に鉄を使い始めたというのは、今は、否定されており、隕鉄を原料とした鉄を使用していたに過ぎない。
鋳鉄を最初に使ったというのは、誤った説とされているらしい。

紀元前12世紀頃、海の民により滅亡したと記録されているが、本書では、その海の民が何なのか不明としている。
たまたま先日のNHKの番組で、海の民が取り上げられており、その番組によれば、当時、地中海を挟んで栄えていたエジプト文明、ミケーネ文明(ギリシャ)、ヒッタイトが有力だったが、干ばつが続き、国力が低下。
そして、それらの国を出た混合民族が、海賊化し、略奪を繰り返したという内容だった。
当時の気候の分析、海の民の骨のDNA分析からの推論だ。

古代史の面白さを味合わせてくれる1冊だった。
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ロックの未来を変えた年、1966年。ビートルズに何が起きたのか。

2024年02月25日 | The Beatles
今日、昨年6月に注文していた車のデリバリーがあった。
1年かかると言われていたのだが、ちょっと早くデリバリー。
それでも8か月。
9年強振りの買い替え。
これで人生最後の買い替えか?
たぶん学生時代以来ちょうど10台目かな。

本当は、今の車にもっと乗りたかったのだけど、昨今の情勢で、乗り換えたいと思ってから、実際乗り換えられるまで、相当の時間がかかる状況になったため、このタイミングになった。
コロナと、米中対立の影響による、半導体不足が痛かった。
デリバリーされても、半導体不足で、鍵は、一つだけ。
もう一つは、6ヶ月後という。
TSMCが熊本生産を始めれば好転するのか。



今日は、雨でゴルフが中止。
昼、ランチだけに行ったら、プレイしたのは、早いスタートだった9組とのこと。
時間ができたので、見るのを諦めていたトークイベントのアーカイブ配信を見た。

先日紹介したビートルズ’66の翻訳者である奥田祐士さんと、藤本さんの対談。
奥田さんは初めてだったが、当然ビートルズにやたら詳しくて、まさにマニア同士の蘊蓄のぶつけ合いになった。
ついていける観客がどれだけいたか。
私も、’66は読んでいたのだけど、何気なくスルーしていた部分が、実は貴重な発見であったりしたことを、再認識した。

まずは、66年前半の空白。
この時期、ユナイテッドアーティスツとの3映画を作るという契約を果たすため、A Talent For Livingという映画撮影が予定されていたのだが内容いまいちでキャンセルになって空白ができた。
この映画、リチャード・コンドンという人の書いた小説が原作で、竹取物語をセクシーにしたような内容だったそうだが、いまいちだったらしい。
因みに、この原作は、後に映画化され、トッドラングレンが、音楽担当で、Up Against It というサントラ盤も出ているそうだ。
どこまでマニアック?
ユナイテッドアーティスツ社との契約履行のための3作目は、結局Let It Beになった。

本書で明らかになったポールのLSD初体験。
今も、66年末と言い張っているが、65年末であることが関係者の証言から明らかになっている。
そして、マリファナでは大したことがなかった作品への影響が、LSDで変わったことは明らか。

Yellow Submarineは、ポールの作品と言われていたが、冒頭部は、ジョンであり、実質共作であったことも明らかになった。
当時、ポールの家が、スタジオを近かったこともあり、ポールが声をかけないと、なかなか4人が集まらない状況になっていた。
ただ、言い出しっぺや、指導役がポールだが、そこで作品をモノにするのは、ジョンというケースも多く、ポールが恵まれなかったところもある。
例えばリボルバーはポールが主導したものの、時代を超えた作品は、ジョンとジョージの作品だ。
66年後半になると、ジョージは、ほとんどビートルズから離れ、インドに夢中。
SGTにも、よく見るとほとんど参加していない。

そして、問題のジョンのキリスト教発言。
インタビューアーのモーリーン・クリーブは、4人と仲が良く、貴重なインタビューを行ったが、そのインタビュ―をトニーバーローがアメリカのデイトブックという雑誌の編集長だったアート・アンガーに売り込み、彼が、DJに紹介して話が大きくなってしまった。
4人は、もちろん、エプスタインも全く予期せぬ広がりで、これは、エプスタインの大失策。
マニラでも騒動も、ビートルズサイドのコミュニケーションミスが原因で、エプスタインの責任と言える。
エプスタインは、この時点で、限界に来ていた。

ちなみに火を広げたアート・アンガーと4人は仲がよく、最後のアメリカ公演でもすべて随行。
さらにちなみに、お兄さんは、LSDの研究者。
モーリーン・クリーブも同様で、ジョンの浮気相手という噂もあったが、実際は、カメラマンのロバート・フリーマンの奥さんが、相手で、そのせいもあってか、ロバート・フリーマンは、リボルバー以降、出番が激減する。

映画と、コンサートがエプスタインの存在価値だったが、スタジオ録音中心になると出番がない。
そういった意味でも、年初の映画作成がキャンセルになったことはグループの将来に大きな影響を与えた。
ホランド・ドジャーとの共作のアイデアがあったが、流れたという。
これも、結果としては、大きい。

いろんな偶然が重なって、リボルバー、SGTが生まれたことになり、IF は、禁物だが、その偶然がなかったら、ビートルズが、これまで歴史に名を残したかは、わからない。
そもそもロックがこんなに世の中を席巻するようになるかすら、当時は、思われていなかった。
だから、リンゴは、俳優や、造園業に興味を持ったり、ジョンも映画に出たりしていた。

本書の副題に4人がアイドルを辞めた年としたところ、原作者からクレームがあったそうで、アイドルというと、日本ではポップスターだが、アメリカでは偶像というニュアンスが強いそうだ。
日本でのアイドルの意味を説明して、納得をいただいたという。
偶像としたら、今もずっと偶像だ。

最後は、Now And Thenの話。
藤本さんは、解散後出た3曲の内一番気に入っているという。
奥田さんは、それほどでもないが、初めてレコードに付属している訳詞を担当したことで、印象深いという。

アンソロジープロジェクトの際、ジョンを除いた3人により、All For Loveという新曲が作られたということで、そのリリースも期待したいとのこと。
アンソロジ―プロジェクトの時の映像も多くあるらしく、ピータージャクソンが、1966年のハンブルグ公演の映像も購入したという情報もあり、ライブ・アーカイブに期待とのこと。
楽しみ。



ということで、ネタの尽きないビートルズトークを満喫。
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