予告通り、昨日の桜木町近辺の観光スポットのご照会。
昨日リンクした、日本丸のH/Pでご覧の通り、日本丸には、総帆展帆(そうはんてんぱん)と、満船飾(まんせんしょく)の、二つのイベントがあるが、同時の行われるのは、スケジュール表によると、年に3回しかない。その内の1回が昨日だった。
3回しかないから、天気に恵まれるケースは、レアだ。私は、総帆展帆は、2回目だったが、1回目は、曇りっぽくて、帆の白い色が映えなかった。昨日は、ベストで、流石に、大盛り上がり。どちらかだけなら、まだ連休中にチャンスがあるが、総帆展帆の方がお勧め。
そして、日本丸内見学。流石、歴史のある船で、見ごたえがある。海王丸とセットで作られた練習船であったことを始めて知った。今年が、喜寿。
次に、マリタイムミュージーアム。日本丸見学とセットになっているが、これも立派な博物館。船の歴史、横浜港の歴史を、丁寧に紹介してある。今は、萩原富吉さんという船の絵を描いて生きてきた方の、作品の展示も行われている。89歳だが、ご存命だそうで、無名、有名な船の絵を片っ端から描いておられる。ここまで、徹底するとすごい。
最後に、ランドマークタワーの展望台に登った。予定ではなかったのだが、あまりにもいい天気なので、思わず登ってしまった。期待を裏切らない絶景。冬に登るとよく遠くまで見える時があるのだが、何となく景色は、寒々しい。
緑の山下公園、ファンで盛り上がる横浜球場(昨日は勝った)、海を行き来する多くの船、暖かい日の光で青々とした海。この季節ならではの、人の心をワクワクさせる景色だ。東京のど真ん中の景色よりは、やはり海と緑のある横浜の景色の方がよい。夜景も、もちろんばっちり。
そして、ちゃんと東京タワー、房総半島、富士山の頂上(帰って写真で確認したら、判別できなかったが)などもちゃんと見えた。空気の色か、窓の色か、やや青みがかってはいるが、横浜港の写真を一枚。
右手下が、ワールドポーターズ、赤レンガ倉庫パーク地区、その奥(上)に見えるのがベイブリッジ。
左手下は、インターコンチで、その上に、瑞穂埠頭の巨大風車がある。その奥(上)は、鶴見、川崎、東京方面となる。
やはり、一眼レフで、広角レンズを使って撮るべきなのだろうが、バカチョンデジカメだとこのくらいが限界。
老若男女、春を満喫した"昭和の日(いつから名が変わったんだっけ?)”だった。
今日は、日本丸(今日は、すばらしい写真が撮れた)に言って、マリタイムミュージーアムに行って、ランドマークタワーに行ってきた。詳細は、明日にでも。
ただ、今日の日本丸での行事は、7/16の海の日まで、お預け。
昨日のお話。
恥ずかしながら、中3の夏休みから、34年間めがねのお世話になってきた(大学時代は、コンタクト併用だったが)。昨日、ついに、34年振りに、めがねから解放されることになった。残念ながら、齢のせいで、読書の時は、まだ必要だが。
イントラレーシックなる手術を受けたのだ。
また二日目で定かなことは言えないが、画期的である。何せ、視力0.02と0.03(昔だったら、めがねが厚くなりすぎて、作れないレベル)が、急に、1.5×1.5になるのだから。中1の時の視力だ!
行ったクリニックでは、月に7~8,000人の人が手術しているというから、そのクリニックだけで、一日200~300人ということになる。確かにたくさん人がいて、ベルトコンベアに乗せられたように、どんどん手術して、出来上がって?いく。
この手術を受けたきっかけは、周辺に手術をした人が増えてきて(友人で受けた人が既に5人いる)、誰もが、大推薦をするのだ。たまたま、網膜剥離になった別の知り合いもいて、その人は、長年に渡る強度近視も一因と言われたと聞いたこともあった。
元々その気はなかったのだが、料金も手の届く範囲になったので、やってみるかということになったわけ。
金曜夜に検査を受け、土曜に手術をし、日曜に術後検査というスケジュールにすれば、週末で、ことは済んでしまう(検査は、その前の週でもかまわない)。コンタクトは、術前1週間は使えない。術後1週間、アイメイクもできないので、化粧の度合いによっては、大問題???
手術は、麻酔は目薬だし、手術自体も、精神的ドキドキ感はあるが、物理的な痛さはない。
まず、角膜上皮にフラップ(ふた)を作成し、その下の角膜実質層を、レーザーで、矯正し、またフラップを戻しておしまい。その間、30-40分だろうか。怪しげな、光がずうっと見えているのだが、何が起こっているかは、わからない。水が流れる感覚と、皮膚の焼けるような臭いがしたので、多分水で冷やしながら、角膜をレーザーで焼いていたのだと思う。15分ぐらい休憩して、チェックアップして、帰宅。あっけない。
当日は、1時間おきに点眼し、一応TVもPCも禁止ということだった。目のごろごろ感が昨日はあったが、一夜明けたらそれもない。ただし、お酒は、1週間禁止。
2日目時点での感想。
○ど近眼の人には、お勧め。ただし、遠近両用の目にはできないので、遠視もある人は、読書用のめがねが必要(以前は、近視用のめがねをはずして、目を近づけると読めるということがあったが、術後、この手は使えなくなった)。五木寛之さんの最近の本の活字が大きいのは、頁数を増やして儲けようとしているのではなく、五木さんの本を読むお客様の年齢層を考えてのことだとわかった。
○動きのあるスポーツ(めがね着用困難なスポーツ)をやる人にもお勧め。私も、中学まで剣道をやっていたが、目が悪くなったこともあり、高校からは、めがねでも大丈夫な挙ケに転向。
○ドライアイ、ハローグレア(夜にあかりを見ると、もやっと見える現象)が副作用として言われているが、今のところ気になるほどではない。確かに、もやっと見えるようになった(デジカメで撮った夜景写真を、加工したイメージ)。
○長年めがねを使っていた人は、めがねがなくて、気持ち悪い。漠然とした不安(突然何か目に飛んで来たらどうしようという感じ)がある。でも、それが普通というマインドリセットが終われば、問題ないだろう。周りは、めがねのない自分を見て、もっと気持ち悪いと思うかも?これも、マインドリセットの問題?
○値段は、この値段であれば、リーズナブル。コンタクトや、めがねに、今まで、いくら使ってきだだろう。
明日は、新しいめがね(読書用)と、サングラス(スポーツ用)を買いに行こうと思っている。
サングラスも、今まで、度付きか、めがねに装着するタイプしか使えなかった。潜りの時も、度付のグラスじゃなくていい。すごいことだ。
”スポーツ栄養学”という言葉は知らなかったのだが、日本においてのその走りである杉浦克己氏の話を聴く機会があった。
食生活改善というと、生活習慣病になった時、初めて真剣に考えるようなイメージがあったが、いろんなステージで、それぞれの方法があることと、その効果が、すごいことを知った。
我々はついつい、適当に食事を済ましがちだが、その積み重ねが、とんでもない違いにつながることを知った。杉浦氏は、スポーツ選手という、元々その世界のプロに、日本で初めてスポーツ栄養学を取り入れ、多くの金メダリストを排出する等、成果をあげた。柔道、陸上、マラソン、サッカー等、その貢献は極めて大きい。驚いたのは、スポーツ選手が、すごいカロリーを摂取しながら、体重を維持できないほど、練習を重ねていることだ。スポーツ栄養学がなかったら、グロッキーで、本番で力は出せなかったろう。
庶民にとっては、まずはバランスのよい食事を、3食とることが基本、かつ必要十分ということで、心がけたいと思った次第。生活習慣病になってからでは遅い。
杉浦氏は、某菓子メーカーに勤務されているのだが、この”スポーツ栄養学”が広まると、菓子の不人気につながることを懸念されているのは面白かった。お菓子が健康にいいとは聞いたことがない。ただ、緊急避難的には、適度な糖分摂取は有効とのことだった。
2007年問題が旬だが、このテーマもますます旬になっていくのだろう。
横浜開港150周年(2009年)に向け、いろんなプロジェクトが進行していることは、何度か触れた。
今から、150年以上前、アメリカのペリーが浦賀に来航し(黒船!)、横浜で、日米和親条約を結んでから、開国の話が加速度的に進んだ。それまでは、ずぅっと長い間、鎖国していたのだから、とってもすごいことだったのだろう。そのペリーの像が、横浜にないというのは、先日の”よこはま検定”で初めて知った。日米和親条約記念碑(上の写真)は、あるのだが。
そのペリーの碑を150周年を記念して、横浜に作ろうという話があるようだ。
先日何かの番組で、ペリーの子孫の方が横浜に来て、ペリーが、こんなに有名だということに驚いた様子だった。子孫の方には、ペリーは、単なる米海軍の隊長で、日本の歴史にこんなに大きな影響を与えていたという認識が薄かったのだと思う。ペリーが、日本で、よく思われているのか、悪く思われているのかも、わからなかったのかも知れない。
一方、その時の江戸幕府の受け手は、大老の井伊直弼(厳密には、日米修好通商条約の時)。とにかく、開国した。安政の大獄で、攘夷派を弾圧するため強権を発動したが、桜田門外の変で、暗殺された。そのやり方には、賛否あろうが、日本の考えだけでは変えられない時代の流れは、見えていたか、感じていたのだろう。
その井伊直弼の像は、横浜のみなとみらい地区を見下ろす、掃部山(かもんやま)公園にある。この掃部山というのは、井伊直弼の名が、彦根藩主になった時の名である掃部頭(かもんのかみ)で、そこから名づけられたものだ。そして、この像は、元藩士らによって、作られたというところまでは知っていた。
とある記事で知ったのは、この像が、開港50周年に、作られたことと、同じ、開港50周年の時、ペリーの像を作るという話があったが、当時の日米関係の悪化で、そのアイデアは外務省の賛成が得られず、ぽしゃったということだ。
そう聞くと、一応平和で、日米関係も比較的良好なこのタイミングで、ペリーさんの像を横浜にという気持ちにもなってくる。