かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

おくのほそ道 2007 その25(最終回) カメイ記念展示館

2007年10月26日 | Tohoku ( Japan )
書いていたら切りがないが、とりあえず、今回で、おくのほそ道2007は最終回。



ばたばたとした多賀城散策で、名残を惜しみつつも、今日は、横浜に戻る日なので、早めに仙台に向かう。この写真は、国府多賀城駅から見た東北歴史博物館と、その横にある今野家住宅。後ろの小山を越えたところに、多賀城廃寺がある。

仙台に戻って、新幹線の指定券を押さえようと思ったら、流石に、ずぅっと満席。3連休最終日の午後の上りだもんね。でも、仙台始発が多いので、結局ゆっくり座れて帰れたが。

まだ、ちょっと時間があったので、カメイ記念展示館に行ってみた。カメイというのは、仙台の人は誰でも知っている(たぶん)商社。社長さんが稼いだお金で、美術館を作ってくれた。一度、行ってみようと思っていたのだが、これまで、機会がなかった。駅から、すぐなので、その気になれば、すぐ行ける。

常設展が何なのかよくわからなかったが、”日本洋画の流れ”と、”蝶々の標本”と、”伝統こけし”の展示をやっていた。
”日本洋画の流れ”が、一番一般受けする展示と思われるが、著名な洋画家の絵画が、丁寧に展示されていた。

そこから、一つフロアーを下りると、蝶の展示と、こけしの展示がある。
蝶の展示は、カメイ記念展示館のトレードマークで、噂は聞いていたが、すごい。冬彦さん真っ青。ケアンズで見た、ユリシーズや、バードウィングバタフライの標本など、山ほど展示されていた。

そして、こけしの展示を見た。
私は、実は、伝統こけしには、めっぽう強い。見れば、系統は勿論わかるし(産地ごとにデザインが違う)、作者名もかなりの確率でわかる(親子で、似たこけしを作るケースが多いが、少なくとも、苗字はわかる)。ちなみに、有名な系統の名を挙げておくと、鳴子、土湯、弥治郎、遠刈田、蔵王、作並、肘折、木地山、津軽などがある。東北の有名な温泉地がほとんどだ。



この展示は一流だった。各系統を代表する作者のこけしは、ほとんどあるし、それよりもまず、保存状態がよいのに驚かされる。こけしは、木でできているので、どうしても、色が焼けてきて、顔料も、光に弱いので、黒を除いて、どんどん色が飛んでしまう。蛍光灯や太陽の光など最悪だ。
展示されているこけしは、木の地の色と、作成時の顔料の色が、きれいに残っているものが多い。多分、作られた直後から、大事に保存されてきたものだろう。ここまで立派に保存してこられた皆さんに敬意を表したい。この展示は、亀井さんのものだけではなく、収集家の集まりの有志の協力によるもののようだ。

ということで、3日間のおくのほそ道の旅を終えた。短いが充実した旅だった。
めでたしめでたし。
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おくのほそ道 2007 その24 多賀城廃寺

2007年10月25日 | Tohoku ( Japan )

[試練の連続。福田康夫です。]福田さんのメルマガは、相変わらず、サラリーマン風。これを庶民的でいいと考えるか、頼りないと感じるか。まだこれから。



多賀城を一回りして、国府多賀城駅に戻ってきた。悠久ロマン街道と銘打っているが、駅舎は、近代的。
その隣に、またまた近代的な、東北歴史博物館がある。塩釜神社の特別展をやっていたが、時間の関係で、割愛。総合展示は、祭日でただだった。ラッキー。展示のほとんどは、レプリカだが、東北地方の歴史を俯瞰できる。よくできている。



横には、今野家という石巻にあった住宅を移築・復元した建物がある。立派だ。中に妙に日本語のうまい外人さんがいて、案内の人と、このように、貴重だけど、維持がたいへんな建物の活かし方について、議論をしていた。ちなみに、今野という名は、この地域に多い名で、私の知り合いにも、たくさん今野君、今野さんがいた。



この脇から、多賀城廃寺に抜ける小道がある。多賀城廃寺は、多賀城と同時に建立された。観音寺という名ではなかったかと考えられている。



ここも、礎石しか残っていないが、建物の配置は、わかる。



これは、復元図だが、法隆寺と、金堂と塔(こちらは三重塔と考えられている)の位置が逆。でも、似ている。



塔の柱を支えた礎石が一番しっかりしている。

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おくのほそ道 2007 その23 多賀城政庁

2007年10月24日 | Tohoku ( Japan )


壷の碑から多賀城政庁跡に向かう。途中に発掘中の場所があったが、南北大路跡とのこと。壷の碑を南端とした一帯が、多賀城内になるが、芭蕉さんが訪れたころは、既に土の中に埋もれていたはずだ。壷の碑自体も江戸時代に見つかったものだ。



さらに進むと、多賀城政庁跡が現れる。大和朝廷が、陸奥・出羽を治め、蝦夷対策の拠点としていた場所だ。手前に復元模型が設置されていたが、昭和40年代のかなり荒っぽい発掘だったらしく、東北歴史博物館の説明によると、建物配置は、この模型とはちょっと違っており、見直し中とのことであった。
大きな広場で、立派な施設であったろうことが、感じられる。約100m四方。中心にある建物の礎石と、取り囲む築地の塀、脇殿の礎石などが残る。ちなみに、多賀城全体は、900m四方であったという。
博物館で、政庁の復元図の絵葉書があった。遠くに佇んでいるのは、私同様、一人で散策していた人。



ちょっと脇に、佐貫地区があり、ここでも、建物の跡が多く発掘されている。礎石群の他、一画に発掘の様子をそのまま展示してある。


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おくのほそ道 2007 その22 壷の碑

2007年10月23日 | Tohoku ( Japan )
いよいよおくのほそ道2007も最終日。といっても、三日目。
今日は、多賀城へ行こうと思い、仙台から、東北本線に乗って北に向かう。



新幹線ができてから、東北本線もすっかりローカル線になった。ドアの開け閉めボタンはともかく、ワンマン電車用の整理券発券機がついている。乗り放題切符だったからいいものの、初めて乗る人は、びっくりするだろう。利府行きに乗ったら、何と行き止まり。岩槻で乗り換えねばならなかったのだ。すっかり忘れていた。
それはともかく、国府多賀城駅に到着。多賀城は、今は、仙台のベッドタウンだが、奈良時代は、陸奥の国府で、大和朝廷と蝦夷の戦いの場所となった所。当時の日本?の北限だ。



多賀城市のH/Pを見ると、散策コースが二通り。基本的には、その短い方のコースに沿っ
て散策。まずは、市川橋遺跡。といっても、ほとんど住宅街のど真ん中。説明板があり、この奈良時代の水時計(漏刻といい、陸奥にも設置されていたとの記録があるという)を復元したものが、展示されている。



そこから、10分ぐらい行くと、『壷の碑』がある。
これは、芭蕉さんが、仙台を出て始めに向かった場所。おくのほそ道2007で、巡った場所の中では、最初に訪れた場所である。

この碑は、何と762年に建立されたもの。多賀城改修の記念碑と考えられており、発見当初から、歌枕にある『壷碑』と考えられていた。どうやって計ったのかは知らないが、世界?各地からの距離等が刻まれている。芭蕉さんは、この碑を見て、涙を流さんばかりに感動したという。



石碑は、格子窓越しに見ることになるが、字がはっきり残っているのがわかる。ややはっきり残りすぎていて、偽作との説もあるようだが、確定的な結論は出ず、今は重要文化財に指定されている。

後で、寄った東北歴史博物館で買ったこの石碑を模ったしおりに、石碑の読み下し分が載っていたので、距離の書いていある部分のみ、注釈をつけて、載せておく。

多賀城 京を去ること一千五百里。
    蝦夷(えみし=東北地方の北半分)の国の界(さかい)を去ること百廿里。
    常陸(ひたち=茨城県)の国の界(さかい)を去ること四百十二里。
    下野(しもつけ=栃木県)の国の界(さかい)を去ること二百七十四里。
    靺鞨(まつかつ)の国(中国大陸沿岸州)の界(さかい)を去ること三千里。


ちなみに当時の一里は、535メートルだそうなので、どの程度正しいか、チェックしてみてはいかが? 靺鞨(まつかつ)というのは、どこか特定できないけど。
ちなみに、辞書ではこう書いてあった。『中国、隋・唐の時代に、中国東北部から朝鮮半島北部に住んでいたツングース系諸族の中国側からの呼び名。七部に分かれ、その一部である粟末(ぞくまつ)部は、渤海(ぼっかい)国を建国。黒水部はその支配下に入らず、のちに女真と称された。勿吉(もっきつ)』

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おくのほそ道 2007 その21 瑞巌寺

2007年10月22日 | Tohoku ( Japan )

なかなか進まないおくのほそ道2007もいよいよ終盤。先を急ごう。

松島についたら、何度も行ったことがあるのだが、まずはともあれ、瑞巌寺。伊達政宗さんのお寺というイメージがあるが、元々は、平安時代に、慈覚大師さんが開いたという。これで、慈覚大師さんが開いたという四大寺院を制覇。キャンペーン通り、四寺廻廊を達成。
古くは、平安時代、京の雅人のあこがれだった。それから800年後、江戸時代には、芭蕉さんが、おくの細道の旅で、遥々訪れた。そして、そのまた400年後の今、江戸からたった二日で、回れてしまう。恐るべし。



参道は、立派な杉並木だが、脇から行くと、洞窟やら、石碑やらがたくさんあって面白い。これは、松島で獲れる鰻の霊を祀るためのものか。他にもユニークなものがたくさんある。



本堂は、もちろん国宝で、中の部屋を見て回れる。桃山時代の美を結集したような、圧倒的な迫力だ。



隣には、庫裏(くり)と呼ばれる煙出しがユニークな建物があるが、元は、禅宗寺院の台所で、これも国宝。その向かいに宝物館があるが、伊達家ゆかりの宝物が、丁寧に展示され、味わいながら、見ることができる。

そうこうしている内に、いよいよ陽が西に傾いてきた。
最後に、隣にある円通院に行った。正宗公の孫の菩提寺である。



ここで、有名なのは、石庭。松島にある七福神の島を、この庭に現したという。
小振りだが、他にもいろんな庭園があり、訪れる人も少なく、しっとりと味わえるお寺だ。

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