17期生の設楽です。お世話になります。
先日の稼プロ!第5回講義では「私とケータイ」というタイトルでプレゼンさせていただきました。
皆様方からいただきましたフィードバックの中で、私が最も反省しなければいけない点は、プレゼンの技術そのものよりも話す内容のことで「結局何が言いたいのかわからない」ということでした。
そこで今回は、iPhone発売10周年記念特別企画(笑)をかねてこちらで「私とケータイ」について書かせていただきたいと思います。(汚名挽回・・・じゃなくて名誉挽回の意味でも!)
きっかけは前の会社で、液晶ディスプレイの開発をしていましたところに遡ります。ご存知の通り、電卓、時計、携帯電話、パソコン、テレビなど液晶は幅広い用途で使われていますが、1990年代半ばに携帯電話向けの液晶ディスプレイの開発に携わることになり、その「数」に驚きました。
とにかく桁違いに多い。何万ではなく、何十万。しかもサイクルが早い。常にオーダーが入ってくる。技術革新も速い。価格、納期、品質。何かで失敗して失注しようものなら最後、大幅に売り上げが落ちてしまう。
これはすごいものが出てきたと思ったのと同時に、携帯電話(以降、ケータイと表記)はきっと将来、単なる電話機ではなく、パソコンに変わって情報端末機器の主役になる。そう考えたとき、無性にケータイの開発をやりたいと思うようになりました。ただ、前の会社では当時ケータイを作ってなかったのでまずは社内でソフトウェア開発の部門に異動しました。
1990年代後半になると、ケータイはiモードの出現とともにその勢いはとどまるところを知らず、また「第3世代携帯電話(3G)」というまた新たな規格も出てきたこともあり、デジタル家電を代表する製品となりました。そしてその頃、多くの電機メーカーが人材募集をかけていたこともあり、その波に乗って私も転職したという次第です。
ただ、ケータイの開発は今にして振り返ればとにかく大変でした。毎年、春モデル、夏モデル、秋冬モデルと3回製品を作らなければならないので本当に休んでいる暇がありません。しかもユーザーは毎回何が出るのか楽しみにしてくれている。そんな時代でした。年1回のiPhoneの発表を待ちわびる今とはちょっと違いますよね。(そのくらいの製品サイクルが普通だとも思うのですが(苦笑)。作る方も買う方も。)
そして、当時から通信事業者(ドコモ、KDDI(au)、ボーダフォン(今のソフトバンク))の競争も激しかったです。そんな中、赤外線通信をフィーチャリングした端末をKDDIから出すという話があり、赤外線通信の知識経験があった私が担当しました。今となっては懐かしい思い出です。恥ずかしながら、デジタル家電業界では有名なWebサイトである「ITmedia」の取材も受けました。
そんな夢のあるケータイの開発でしたが、iPhoneの出現とともに時代は一変し、日本メーカーは次から次へと撤退に追い込まれました。このあたりの経緯については、既に現場を離れていたので何とも言えません。
ただ、私がその昔に考えていた、「ケータイがパソコンに変わる情報端末機器の主役になる」ためには、ガラケーからスマホへのパラダイムシフトが必要だったように思えます。それを自分自身の手で成し遂げられなかったことは、エンジニアとしてとても残念です。
今にして思うと、iPhoneが出る前、友人からこんな質問を受けたのを思い出します。
「あのさ、iPodはあんなに使いやすくてデザインもかっこいいのに、ケータイはボタンがいくつもあって野暮ったくて、メール打つにも何回もボタン打たなくちゃいけないし、使いづらいよ!」というものでした。
ただ、私の回答は「あのさっていうけどさ、iPodのホイールでどうやってメールすんのよ。どうやって漢字変換するの。画面だって小さいでしょ。ケータイはボタンがあのくらいあるからメールが打てるし、その分を折りたためるようにしているから画面も大きくできるんだよ。」というものでした。
技術者としての思い込みというか、全くあり得ない回答ですが、当時の自分は本気でそう思ってました。なので、iPhoneが出てきたときは衝撃でした。折りたたみケータイよりもはるかに広い画面。メールもネットも自由自在に扱える使いやすいタッチパネル。そしてiPodの音楽がそのまま楽しめる。完全に「やられた」と思いました。
結論ですが、自分が普段仕事していく中で「これはこういうものだよね」という考え、発想、広い意味でいうと社風になるのでしょうか。ただ新しいことに取り組む際はそういうものを取っ払うことが必要であるということをiPhoneは私に教えてくれました。それは仕事を円滑に進めるものであると同時に、ゼロスタートで物事を考える際の妨げにもなるということです。
でも、カイゼン好きの日本人にそういうのは向かないのでは? そんなことはないです。前の会社では1994年、突如として液晶のついたカメラを作り、世を驚かせました。「どこにフィルムあるの?このカメラ」何度聞かれたことか。デジカメはここからスタートし、今ではフィルムを手にすることはなくなりました。日本人もゼロスタート、何度もやってます。
そして、私は今、会社の外から新しい発想、着眼点を提言し実践につなげる診断士になりたい。そう思っています。
設楽英彦