広島被爆の日に
広島についてです。
原爆を投下したB29は75年前の今日午前1時過ぎにテニアン島を飛び立ち7時間かけて広島市上空に来ました。
その日の候補地は広島の他に小倉、長崎です。新潟も予定地の一つでした。
広島地方が晴天とわかり広島投下が決定されました。
被曝当時の広島市の人口は35万人でした。
9万人から17万人が死亡されたと言われます。
人の移動が激しく正確な人数はわかりません。
被爆者は56万人と言われます。
被曝直後に大勢の方が支援に入ったために入所被曝を受けたのです。
江田島(えたじま)の海軍兵学校からも支援に入り被曝してしまいました。
江田島は広島市のすぐ南にあります。
私の恩師二人も支援に入り被曝してしまいした。
しかし広島に原爆が落とされ、莫大な被害を受けたことは米軍によってプレスコード(報道統制)されました。
そのため隣りの県である岡山でさえ広島の惨状は知らされていなかったのです。
被爆者の方々が無蓋貨車に載せられて岡山の駅に停車していたという話は聴きました。
大勢の方々が広島から避難していったのです。
現在、被爆者の平均年齢は82歳です。
岡山県では今も1285人の方が被爆者健康手帳をお持ちです。
この7月に被曝訴訟の判決が広島地裁でありました。原告側が勝訴しました。
75年経ってやっと被爆者として認められました。
国が控訴しないことを願います。
原爆被害は今も続いているのです。
岡山県では水島と岡山市が空襲に遭いました。
このグラウンドの周辺にも焼夷弾や爆弾が落とされました。
奉還町も清心町も焼けてしまいました。
1945年6月29日の事です。
当時、この場所は練兵場でした。兵隊を訓練するところです。
兵舎は岡山大学にありました。
陸軍の連隊が駐屯していましたが、
空襲当時はすでに中国や南方に行っており兵士はいない状態でした。
この練兵場の様子を岡山の詩人 永瀬清子さんが書いていました。
夫が2度目の出征をするときの様子です。
紹介させていただきます。
「ものすざましいプラットホームの人並みや子供を連れての後追い旅行、
真っ白なほこりを浴びた練兵場の草いきれ、そこに一面に小屋掛して召集された馬の群れが馬糞の匂い激しく発散させながらたむろしている。
それも一時の事で1週間のあとにはその馬の群れも立ち去ってしまった。
その後はなおなお白く眩しい夏の日の草原である。
また、焼けつく様な営庭(練兵場)に兵士たちは、はらばって小銃の練習をしている。
私どもはいわば「日毎夜まいの死に覚悟」という気持ちで、もうこれが最後の別れかといつも思いながら
その兵営の片隅の藤棚の陰にタバコやシャツを持って面会に行った。
岡山駅まで行進する隊列を身内や知人らが日の丸の小旗を振って見送った。
兵士たちは特別列車で岡山駅から中国へ向かった。」
引用終わります。
多くの兵士は山陽本線を西に移送され広島や下関へ、また宇野港から船で中国大陸へ、さらに南方に転戦し、再びこの地に帰ることがありませんでした。
今日はここまでです。
9日にお話しできればと思います。
黙とうの前に、お話した内容です。
お読みいただきありがとうございました。
※画像は岡山県総合グラウンドです。かつては陸軍の練兵場でした。今は県民の憩いの場所です。スポーツ施設も充実しており、平和を謳歌しています。