最近なにかと話題の台湾です。
著者の呉明益さんはその台湾の作家です。
私にとっては難解でした。
330頁ですが文字がびっちりです。
シニアにはちとしんどい長編です。
父と子の話です。
父は、日本の植民地時代(戦争末期)に神奈川県高座海軍工廠に少年工(13歳)としてやってきました。
この海軍工廠は戦闘機を製造していたのですが、すでに労働者が足りない状況にになっていました。
みんな戦争に駆り出されていたのです。
台湾から集められた少年は8000名にも及んだそうです。
台湾から日本本土に渡るのは非常に危険な状態になっていました。
米軍の潜水艦が輸送船を頻繁に魚雷攻撃をしていました。
一行はなんとか無事に神奈川県に着きました。
海軍工廠の宿舎では平岡君(三島由紀夫)も勤労動員されており、三郎(父)にギリシャ神話や自作の物語を聞かせたといいます。
ます、台湾から少年をかき集めたという話に驚き、さらに三島由紀夫も一緒に働いていたということにびっくりです。
三島由紀夫の年表をみてみます。
Wikipediaより当該箇所を転載します(太字は岩清水)。
1945年(昭和20年)5月5日から、東京よりも危険な神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員された[42]。終末観の中、公威は『和泉式部日記』『上田秋成全集』『古事記』『日本歌謡集成』『室町時代小説集』『葉隠』などの古典、泉鏡花、イェーツなどを濫読した[47][144]。6月12日から数日間、軽井沢に疎開している恋人・三谷邦子(親友・三谷信の妹)に会いに行き、初めての接吻をした[14][34]。帰京後の7月、戦禍が悪化して空襲が激しくなる中、公威は遺作となることを意識した「岬にての物語」を書き始めた[45][47]。
1945年(昭和20年)8月6日、9日と相次ぎ、広島と長崎に原爆が投下された。公威は〈世界の終りだ〉と虚無的な気分になり、わざと上空から目立つ白いシャツを着て歩いた[14][145]。10日、公威は高熱と頭痛のため高座工廠から、一家が疎開していた豪徳寺の親戚の家に帰宅し、梅肉エキスを舐めながら床に伏せった[146]。
8月15日に終戦を迎えてラジオの玉音放送を聞いた際、「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」と父・梓が言った[146]。
確かに事実です。
父・三郎は無事生き残ることができ、敗戦国日本の国民という立場から、戦勝国民(中華民国)になり、優遇されることなったそうです。
その後、日本国内を旅行し台湾に戻りました。
これは父の話です。
この長編小説は、父と子の話です。
帯に書かれた文書をです。
睡眠に異常を来した「ぼく」の意識は太平洋戦争末期に少年工として神奈川県の高座海軍工廠で日本軍の戦闘機製造に従事した父・三郎の記憶へ漕ぎだしていくー。
この辺りが難解なので紹介するわけにはいきません(私がきちんと理解できていません)。
興味を持たれた方はぜひ読んでみてください。
お読みいただきありがとうございました