ソ連はどうしてこのような遠距離の強制移動をするのだろうか。
ウクライナといえばヨーロッパといってよい。
ヨーロッパの敗戦国の兵隊を強制労働に使っていたのではないか。
しかし、ソ連といえば民族丸ごと、他の土地に移動させる国だ。
人を遠方に送ることなど、造作ないのかもしれない。
労働力がほしい場所があればどこからでも運ぶのだろうか。
この収容所ではまず石山での作業である。社会主義的ノルマを強要され、
体力が消耗する。
1ヶ月間隔で体位検査があり、体力が消耗していれば軽度の作業に変えられる。
また体力が回復すれば重労働にする。
このあたりは、強制労働の歴史が長いソ連では、ノウハウが出来ているようだ。
労働効率というよりは、人間の生死の効率ということだろう。
死んでもらっては労働力にならない。
22年6月、キエフの東、ハリコフにある「ハリコフ収容所」と
「チェグ収容所」に移動となる。
「チェグ収容所」には、ドイツ人の捕虜がいたそうである。
ドイツ人にとってもこんなところに日本人が来ているとは驚きだったに
違いない。
帰還説が飛び交う中、今度は「エジン収容所」へ移動。
昼夜3交代の道路作業である。
仕事があればどこへでも行かされる。
次は厳冬の中、森林の伐採である。過酷な労働現場への往復に国営の
コルホーズがあり、この農場から馬鈴薯、かぼちゃ、とうもろこしを
盗むことで栄養をつけた。
体重が7kg増えたという。唯一ホッとする話だった。
次に移動したのが「クリウコフ収容所」。南に5日間の旅である。
石堀作業のノルマはきつく、余りの労役にトロッコの車輪に足先をいれて
怪我をして休養をとるものもいた。
この収容所の体制、待遇は劣悪だったようだ。命令系統も崩れていた。
一兵卒が所長を勝手に名乗り、本部からの食糧を受取った後、横流しを
していた。捕虜にとってはたまったものではない。
しかし、悪事はやがて発覚し、劣悪だった人間関係も改善された。
23年8月、移動命令が下り、新たな収容所に移った。
ところがこの収容所は今までの収容所とは別世界で、平等、清潔、
美味しい食事だった。
この収容所が日本帰還への出発点となった。
やっと、ウクライナ地方のさわやかな晩夏を味わうことが出来たという。
いよいよ、「ダモイ」(帰還)が本当になった。
ウクライナから1ヶ月の鉄道の旅は、往路とは違い、明るいものとなった。
途中モスクワにも寄った。警護も緩くなった。
シベリアに向う思想犯(ソ連人)の列車とも出会ったという。
モスクワから20日間の旅でハバロフスクに着いた。
ここで「元憲兵」「元警官」の人は、分れさせられた。
最後の旅はナホトカ港への旅である。ウクライナから1ヶ月の旅は
やっと終った。
港の遥かかなたに、引揚船「高砂丸」が接岸していた。
乗船風景は、須藤さんの文章から引用させていただこう。
「船中に1歩踏み入れた途端に両脇には白衣の天使が我々の乗船する者
を迎え、一人一人迎え入れてくれているではないか。入ソ以来二年有余、
日本女性などには一度も会ったことも見たこともなかった。
その彼女たちに会って日本女性の素晴らしさをつくづく感じたのである。
そして数人の天使たちが頭を垂れ、『長い間ご苦労さまでした』と迎えられた。
その時の感激感動は何とも言えぬ思いで感涙にむせび泣きをしたのである。
生涯忘れられぬ思いである」
この文章を読んだ時、私はマクドナルドの中でしたが、涙が止まらなかった。
ウクライナといえばヨーロッパといってよい。
ヨーロッパの敗戦国の兵隊を強制労働に使っていたのではないか。
しかし、ソ連といえば民族丸ごと、他の土地に移動させる国だ。
人を遠方に送ることなど、造作ないのかもしれない。
労働力がほしい場所があればどこからでも運ぶのだろうか。
この収容所ではまず石山での作業である。社会主義的ノルマを強要され、
体力が消耗する。
1ヶ月間隔で体位検査があり、体力が消耗していれば軽度の作業に変えられる。
また体力が回復すれば重労働にする。
このあたりは、強制労働の歴史が長いソ連では、ノウハウが出来ているようだ。
労働効率というよりは、人間の生死の効率ということだろう。
死んでもらっては労働力にならない。
22年6月、キエフの東、ハリコフにある「ハリコフ収容所」と
「チェグ収容所」に移動となる。
「チェグ収容所」には、ドイツ人の捕虜がいたそうである。
ドイツ人にとってもこんなところに日本人が来ているとは驚きだったに
違いない。
帰還説が飛び交う中、今度は「エジン収容所」へ移動。
昼夜3交代の道路作業である。
仕事があればどこへでも行かされる。
次は厳冬の中、森林の伐採である。過酷な労働現場への往復に国営の
コルホーズがあり、この農場から馬鈴薯、かぼちゃ、とうもろこしを
盗むことで栄養をつけた。
体重が7kg増えたという。唯一ホッとする話だった。
次に移動したのが「クリウコフ収容所」。南に5日間の旅である。
石堀作業のノルマはきつく、余りの労役にトロッコの車輪に足先をいれて
怪我をして休養をとるものもいた。
この収容所の体制、待遇は劣悪だったようだ。命令系統も崩れていた。
一兵卒が所長を勝手に名乗り、本部からの食糧を受取った後、横流しを
していた。捕虜にとってはたまったものではない。
しかし、悪事はやがて発覚し、劣悪だった人間関係も改善された。
23年8月、移動命令が下り、新たな収容所に移った。
ところがこの収容所は今までの収容所とは別世界で、平等、清潔、
美味しい食事だった。
この収容所が日本帰還への出発点となった。
やっと、ウクライナ地方のさわやかな晩夏を味わうことが出来たという。
いよいよ、「ダモイ」(帰還)が本当になった。
ウクライナから1ヶ月の鉄道の旅は、往路とは違い、明るいものとなった。
途中モスクワにも寄った。警護も緩くなった。
シベリアに向う思想犯(ソ連人)の列車とも出会ったという。
モスクワから20日間の旅でハバロフスクに着いた。
ここで「元憲兵」「元警官」の人は、分れさせられた。
最後の旅はナホトカ港への旅である。ウクライナから1ヶ月の旅は
やっと終った。
港の遥かかなたに、引揚船「高砂丸」が接岸していた。
乗船風景は、須藤さんの文章から引用させていただこう。
「船中に1歩踏み入れた途端に両脇には白衣の天使が我々の乗船する者
を迎え、一人一人迎え入れてくれているではないか。入ソ以来二年有余、
日本女性などには一度も会ったことも見たこともなかった。
その彼女たちに会って日本女性の素晴らしさをつくづく感じたのである。
そして数人の天使たちが頭を垂れ、『長い間ご苦労さまでした』と迎えられた。
その時の感激感動は何とも言えぬ思いで感涙にむせび泣きをしたのである。
生涯忘れられぬ思いである」
この文章を読んだ時、私はマクドナルドの中でしたが、涙が止まらなかった。
その間に何人の方が・・・
一体何人の方がなくなったのかははっきりして
いませんね。(6万人との説も)
ソ連に抑留された人は、総数(欧州含む)200万人
ということです。日本人はその3~4分の一にあたると
思います。
戦争は、人間の尊厳から対極にあるものだと思います。
多くの人々の人生がどのようなものだっかのかも
抹消してしまいます。
憎しみのためでなく、「人間の尊厳を守る」ために
知っておかなくてはならない歴史だと思います。
コメントありがとうございました。