岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

『かくも甘き果実』モニク・トゥルン著 吉田恭子訳  その2

2022-06-09 07:56:07 | 

1869年   リヴァプールからアメリカ合衆国のニューヨークへ移民船で渡ったハーンは、オハイオ州シンシナティに行きます。

そこで最初の妻になるアリシア・フォリーと出会います。

アリシアは黒人女性です。シンシナティについてのwikiからの抜粋です。

南北戦争前夜にはオハイオ川1本隔てた対岸は南部の奴隷州という立地から、シンシナティは自由を求めてオハイオ川を渡った逃亡奴隷をさらに北へと逃がす地下鉄道の重要な拠点、そして奴隷制廃止運動の中心地となった。ハリエット・ビーチャー・ストウはシンシナティに住んでいた間に逃亡奴隷に会い、その話を基にして「アンクル・トムの小屋」を書き上げた。リーヴァイ・コッフィンは1847年にインディアナ州からシンシナティに移り、ここを奴隷制廃止活動の拠点とした。

小説ではこのような市の歴史には触れていませんが、黒人の人々の生活が活写されています。

女性の仕事と言えば、掃除、洗濯、料理です。仲間内で仕事や料理をわけあい下宿人のまかないや洗濯をする。

もちろん、文字は読めません。

ハーンの人生で関わった女性は国も違えば当然言語も異なります。

読み書きができない、または小泉セツのように本人ができてもハーンの理解が困難なケースもあります。

彼自体はこのような環境は当たり前だったのではないでしょうか。

しかし、彼は語学の達人です。ネイティブの英語に加え短期間の留学にもかかわらずフランス語も堪能でした。

ハーンはこの街の下宿人の一人でした。いつも同じような服を着ていましたが、下着は絹の上等なものだったそうです。

洗濯女でもあったアリシアはそれがわかっていたのです。

※掃除、洗濯、料理は女性の仕事の定番でした。そのような扱いしか受けていなかったのです。

1874年 インクワイアラー社に入社します。同年アリシア・フォリーと結婚します。これが一筋縄ではいきません。

オハイオ州では当時黒人との結婚が違法だったのです。

最初に頼んだ牧師から式を拒絶され、次に頼んだ黒人牧師が執り行いました。当然、届け出ていません。

ハーンの仕事について:インクワイアラー社で書いた記事は傑出していたようです。署名記事にはしてもらっていませんが。

「街の中で耳に挟んだ話を読み物に仕上げる」、そのようなスタイルが得意だったようです。

来日後にその能力が最大限発揮されました。

日本ならず世界の人々にとって知の財産になったのです。

75年、インクワイアラー社でアリシアとの結婚のことが明らかになり退社せざるを得なくなります。

ライバル社に移るも77年に離婚。南部のニューオーリンズへ去ります。シンシナティの公害が目に悪影響を与えたとも。

ニューオリンズでは、「ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット紙」で働くようになります。

実はここで新たな女性との出会いがありました。

エリザベス・ビスランド、後に女性記者二人による世界一周早回りレースに参加した一人です。

この二人の女性による競争の話はとても有名ですね。エリザベスはこの76日間のレースには勝つことができませんでしたが、

長い著述家人生には勝利したようです。

彼女はハーンがとても印象深かった(その才能を評価していた)のか、後年、小泉セツに日本時代のハーンの話を書いて送るように催促しています。

のちに、『ラフカデイオ・ハーンの生涯と書簡』全2巻(1906年)を成し遂げます。

この歴史小説『かくも甘き果実』のベースともいえる書物です。

モニクはこの書物に啓発されたように思えます。

1884年 ハーンはニューオリンズで開かれた万国博覧会で農商務省官僚の服部一三と高峰譲吉に会います。

ハーンにとって日本への憧れが増したことでしょう。

前述のエリザベス・ビスランドの世界一周紀行文には2日ばかりの日本滞在ことが書かれているそうです。wikiIからです。

ビスランドは『コスモポリタン』誌に旅行記を連載し、それは後に単行本『In Seven Stages: A Flying Trip Around The World』(1891年)として刊行された。日本には2日間滞在し、芝の東照宮を見て感嘆し「我もアルカディアにありき」と記した。

別の個所には、

エリザベス・ビスランドから旅行の帰国報告を受けた際に、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかを聞き、ハーンが生涯を通し憧れ続けた美女でもあり、かつ年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬していたビスランドの発言に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意する。なお、来日の動機は、このころ英訳された古事記に描かれた日本に惹かれたとの説もある。

1890年2月初旬にエリザベスは世界1周の旅を終えています。直後に帰国報告を行ったはずです。

ニューヨークで帰国報告を聞いたハーンはなんと、その年の4月4日にはカナダのバンクーバー経由で横浜港に着いています。

報告を聞いた直後に訪日を決断し1ヶ月余りで横浜港の土を踏んだことになります。

大陸横断と太平洋横断をこなし、身一つで日本にやってきたハーンは84年に知り合った服部一三と高峰譲吉に旅の途中に手紙を書いていたのでしょう。

彼の記事を読んでいた在日の英米知識人と彼の日本での生活に協力していきます。(当時の新聞・雑誌記者の著名ぶりと活躍には驚きます)

彼の好奇心と行動力は二人の女性記者を凌ぐほどだったと言えます。

続きます。

お読みいただきありがとうございました。

💛ウクライナに平和を💛

 

 



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