予想外れる。しかし3-1は想定外だった。
点差以上に外れたのが後半40分からの失点だ。
予想に反してタフな豪州選手だった。
日本選手の方がタフだというのは何が根拠だったのだろうか。
重量級と闘って最後には体力のハンディでOKをされたという感じだった。
他国の試合を見るとなんて凄いのだろうと思う。
この辺りで冷静にならなくてはならないが、とにかくクロアチア戦と
ブラジル戦は徹底した闘いもみせてほ . . . 本文を読む
藤田は1913年にパリに渡ってから18年の間。フランスに定住していた。
この間、29年に日本に数ヶ月帰国。アメリカ経由でパリに戻っている。
アメリカには再び30年に展覧会を開くために訪れている。
このように小さな旅を重ねてやがて「旅を棲家とする」生活が始まる。
人生の半分を異郷で過ごした藤田の日本観は、1931年からの旅で一層を
独特のものになっていく。
とともに、日本的な感性ともいわれた画風が . . . 本文を読む
毎朝 通勤する道の横断歩道を小学生が集団で渡っていく。
ここでは保護者は立っていない。
リーダーを務める最上級生が横断歩道を渡っている下級生の安全を確保
しながら全員が終るのを見届けて停車して待っている車の運転者に,
ぺこりと挨拶をして先頭に戻っていく。
それを見ながら、ちゃんとできていると感心する。
私たち登山者のリーダーも同じ行動をする。これが正しい危険箇所の通り方だ。
集団行動の基本であ . . . 本文を読む
残照の道を帰ってきました。
山際なので田圃も手作りです。
疲れた頭にはとても気持ちよく感じられます。
村上氏の風当りはどんどん強くなっていますが、
村上氏が「みんなから電話もなく寂しい」と話していたのを聞いて、
あの世界には本当の友情はないのだと感じました。
金の切れ目が縁の切れ目の世界とは、プロ中のプロが知らなかったとは、
本当のプロではなかったと言わざるをえません。
巨額の金は人の判断を間 . . . 本文を読む
1913年。フランスに渡った藤田の前で第1次世界大戦が始まり、日本からの
仕送りも途絶え、赤貧洗うがごとしの生活を余儀なくされる。
そして5年後、ようやく藤田独自のスタイルが完成する。
これが「乳白色の裸婦」である。
実物をみると画集では表せない細かな線と色使いに驚く。
当時のフランス人の驚きがわかるようだ。
この油彩は水彩と見間違うほどに淡く感じるが、実際現物をみると思いの
ほか立体感がある。 . . . 本文を読む
藤田嗣治は、1886年(明治19年)東京生まれである。父は軍医。
転勤で熊本鎮台勤務となり、一緒に熊本に行き、熊本師範付属小学校に
入学する。
これは明治20年代前半のことであり、25年には日本は清国に宣戦布告を
しており、父は軍医として前線に行ったのか、家族は熊本から東京に戻って
いる。藤田は東京高等師範付属小学校に転入したようだ。
この明治25年は、日本の西洋美術史においても特筆する年になっ . . . 本文を読む
楽しみにしていた藤田嗣治展を観に行った。
始まってから初めての週末とあって予想通りの人出だった。
私は藤田嗣治については、有名な乳白色の裸婦の油絵と
1920年代にパリにおかっぱ頭とロイドメガネの異邦人として
夜な夜なパーティに繰り出す写真ぐらいしか知らなかった。
もちろんモジリアーニなどとの付き合いなどは有名である。
今日は11時には京都近代美術館に着いたが、もう人並みが
押し寄せていた。
会 . . . 本文を読む
「共謀罪」に関する与党の迷走ぶりには驚くばかりだ。
思い通りにいかない国会運営に奇手を考えてたのだろう。
郵政民営化国会時の小泉氏とは大違いだ。
何がなんでも法律を通した。
今回は何がなんでも延長はない。
優先順位が180度違う。
この態度の違いに与党の国会対策が振りまわされている。
小泉氏の場合は。「なぜなら」という説明はない。
「やる」か「やらないか」だけだ。
これでは国会対策はできない。 . . . 本文を読む