北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

「放蕩息子の帰還」というお話

2010-03-05 23:32:34 | Weblog
 マタイ、パウロ、ルカ、ヨハネと四つある福音書のうち、ルカ伝だけに書かれている一節なのですが、いろいろなことを考えさせられる有名なイエスによるたとえ話です。

 イエスが言います。ある人に、二人の息子がいたが、弟が父親に『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』と言い、そこで父はその身代をふたりに分けてやった。

 すると弟はそれから幾日もたたないうちに、その財産を持って遠いところへ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果してしまった。そこで彼は始めて深く反省し、父の元へ帰り、もう息子と呼ばれなくても良い、雇い人にしてもらおうと決心します。
(以下原文より ルカ伝15章20-32) http://bible.e-lesson1.com/1luka15.htm


そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。
ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、 ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。
僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。
兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。
それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。
すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。
しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』。

   *   *   *   *   *

 この話は、誰の立場に立つかでいろいろな見方が出来ますが、多くの読者はおそらく兄の立場に立って、どこか釈然としない思いを持つのではないでしょうか。

 なすべきことをわきまえて普段から真面目に働くものが馬鹿を見て、なすべきことも分からないままに放蕩の限りを尽くしても最後に反省しさえすればより歓迎されることなのか、と。

 ところが現実の社会では結構この父親のような立場のことが成立してしまいます。カルト宗教にはまっていてその広告塔になって過激な活動をしていたような人が改心して教団から脱会すると世間はそれまでのバッシングを忘れたかのように大歓迎したこともありました。

 同じようなことが政治にもあって、ヒール(悪役)となった政治家が世間からバッシングを受けても、辞任したり辞職したりするとそれまでの批判は逆に「よくやった」という評価になることがあります。放蕩息子の帰還と実に似た心理的な構造ですね。

 そういう意味では、これを意図的におこなうことで、いわゆる悪役も使いようによって評価をプラスに転じさせるカードになることができます。切るタイミングを計って上手に使えば評価の逆転も可能です。もっともそれにしては今の政権には少しカードが増えすぎのような気もしますが。

 さて、聖書の世界ではこの物語の中で反省すべきなのは実は兄だ、という解釈もあります。全てを持っている者はねたみや憎しみを超えて和解すべきなのだというのです。

 しかし一見すると兄の気持ちになって、帰ってきた放蕩息子の弟を憎くおもいがちですが、実は父親のような行動をよくしているというのはなかなか面白いのではないでしょうか。
コメント
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