北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

飛鳥山と近世日本

2010-04-03 23:28:48 | Weblog
 東京最後の週末。東京の桜も見納めと、北区の飛鳥山公園へ出かけてきました。

 飛鳥山公園は1720年に八代将軍吉宗が桜を植えて庶民が無礼講で楽しむことを許した、いわゆる行楽地のはじめです。





 西洋で庶民が階級の区別を超えて郊外へのピクニックを楽しむ文化が確立するのには20世紀を待たなくてはなりませんでしたが、江戸時代の日本では遡ること100年も前に、庶民が郊外に行楽に出かけることを許される文化が形成されていたというわけ。

 そうした江戸時代の文化を考慮して、明治政府は明治6年に太政官布達によって、ここ飛鳥山を上野・芝・浅草・深川とともに日本最初の公園に指定しました。これ、公園を専門とするものにとって必須の知識でもあります。

 明治時代になって殖産興業を目指す方針から、飛鳥山から石神井川下流の地点に製紙会社ができ、これが後の創業地の名をつけて王子製紙となったもの。

 そして現在飛鳥山公園の中にある『紙の博物館』はもともと王子製紙の工場跡地にあった製紙記念館がそのルーツ。今では飛鳥山公園の三つの博物館の一つとして来園者に紙に関する情報提供をしながら近代工業のはじめを伝えてくれています。

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 そしてこの時期、1860年と1861年にイギリスのプラントハンターであるロバート・フォーチュンが江戸を訪れています。フォーチュンはその前に中国も訪ね歩いていて、茶の木をインドにもたらしたことでも知られていますが、日本からはユリやキンカンなどをイギリスに持ち帰っています。

 その彼が当時の江戸での見聞を記したのが「幕末日本探訪記―江戸と北京」(講談社学術文庫)だそうで、当時の日本人の新種の気質に驚いたり、植物をこよなく愛して町に活かしている様を非常に好意的に伝えているそう。なんと、まだ読んでいないのが恥ずかしい。

 このように日本人が緑や庭園を愛している民族だということ「は、様々な外国人が報告書として西洋に伝えていたようで、かの日本に開国を迫ったペリーもシーボルトの書いたフローラ・ジャパンを読んでいたとか。

 またぺりーが日本に開国を迫る直前にはシーボルトから「日本に対して攻撃的な開国はやめてほしい。この国の繊細な文化を暴力的な形で潰してはならない」といった内容の手紙を受け取ったとも伝えられているんだそう。

 東京の最後に飛鳥山の花見にやって来て、飛鳥山博物館を巡るうちにまたいろいろな事柄が繋がってきました。最後までいろいろなことを教えてくれた江戸・東京でした。

 ありがとう、ありがとう。


コメント (2)
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