万博開催でいよいよ盛り上がる中国。6月にはスマップも5人揃って初の海外公演を万博会場でするそうです。
そんな中国から日本人が見た中国の姿が届きました。
* * * 【ここから引用】 * * *
【レコードチャイナ】<日本人が見た中国>「習ってないから描かない」!図画で自由テーマ忌避する中国の児童
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=41531
時々、田舎の小さな村に遊びに行く。絵が得意なのでよく子供に絵を描いてあげたり、地元民の似顔絵を描いたりしている。
そうやって、だんだん仲良くなっていくと、5歳くらいの子供がやってきて「絵の描き方を教えて」と、かわいらしい申し出をしてくれる。それからその子供は、「金魚の描き方は習ったから」などと言いつつ、とても上手に「金魚」の絵を描いてアピールする。何か別の絵を描かせようとすると、「それは習っていないから描けない」と言って、描こうとしないことがよくある。描くのは、「習ったことがある」モチーフのみだ。
普通、5歳くらいの子供ならお母さんの似顔絵などを描いてキャッキャと遊んでいるものだが、中国の子供は、「その絵はまだ習っていないから」と頑なに拒絶する。私の描く絵は率先して真似するのだが…。すごく、すご~く、不思議だ。
中国の子供たちは、自由にのびのびと絵を描かせてもらったことが無いのだろうか。こちらの親子を見ていると、「うちの子は絵を描くのが大好き!絵の教室に通わせて、能力を伸ばしてあげましょう!」と、親は率先して子どもを絵の教室に入れる。講師のほうは、子供の絵を伸ばさなければならないので、手っ取り早い“成果”を出すために、「こう描くほうが上手に見えるから、こう描け!」と、一から百までを教えこむ。モンペア(モンスターペアレンツ:教育機関に理不尽な要求をつきつける保護者)の中国人に「子供の絵が上達した」と納得させるために、講師は子どもたちの個性をつぶしてまで“技術屋”を育てるのだ。己の保身のために。しかし個性とは、「自分で考えて自分で描ける」ということではないのか?
それと同様のことが、あらゆる教育機関で行われている。国だってその教育方法は“よろしくない”と分かっているはずだ。かといって、「自分の頭で考える賢明な市民」を育成してしまえば、自身の足元をすくわれる可能性があるので、先手必勝で手を打っているのだろう。その辺を改めれば、この国が抱える様々な問題は一挙に解決しそうなものだが、それは難しい注文だろうか…。(25歳女性/中国在住7年/自由業)
* * * 【引用ここまで】 * * *
絵の描き方ひとつで国の教育方針全てを語ってしまって良いのかな、と思いますし、このことが「自分の頭で考える賢明な市民の育成」を阻害しているのか、というのもいささか疑問です。
振り返って我が国の教育を見ると、著者が言うように自分の頭で考える子供たちを育てているようではあるものの、大人になった我々は自分の頭でものを考えているのかどうか。
教育によって知識や技能は充実するモノの、「大切なことは何か」という価値観をどれだけ伝えられるのでしょう。また逆に教育で価値観を与えてしまうことの危険性もあって、これは学校などの機関教育というよりはやはり親から子へ伝えられる家庭教育が受け持つ部分なのかもしれません。
* * * * * *
その昔、「おまえは常識がないなあ」と言われて「じゃあ常識を教えてくれよ」と言った友人がいました。常識とはなんだろう?と改めて調べてみると、yahoo辞書では大辞泉で「一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力」とありました。
知識と同時に判断力、つまりここでも価値観が問題なのです。価値観って自分で決めつけるものではなくて、多くの経験をし多くの書物を読み多くの人に会って話を聞くことで醸成されてゆくもの。だからたぶん若さはそうした醸成の期間という意味であまりプラスには働かないようにも思えます。
儒教の世界で世の中の年寄りや経験者、長老が尊敬の対象となったのはそうした価値観念が豊かだからということだったのでしょうが、それが形式化してしまうとこれまた堕落してしまいます。
年寄りになってなお価値観念がないとは言われたくないものです。
さて今日も事業仕分け第二弾の真っ最中ですが、ネット動画を見ていると仕分け人の皆さんが持つ価値観がどこにあるかがときおり垣間見えて興味深いものがあります。
自分の頭で考える教育を受けている日本国民にはどう映っているのでしょう。
そんな中国から日本人が見た中国の姿が届きました。
* * * 【ここから引用】 * * *
【レコードチャイナ】<日本人が見た中国>「習ってないから描かない」!図画で自由テーマ忌避する中国の児童
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=41531
時々、田舎の小さな村に遊びに行く。絵が得意なのでよく子供に絵を描いてあげたり、地元民の似顔絵を描いたりしている。
そうやって、だんだん仲良くなっていくと、5歳くらいの子供がやってきて「絵の描き方を教えて」と、かわいらしい申し出をしてくれる。それからその子供は、「金魚の描き方は習ったから」などと言いつつ、とても上手に「金魚」の絵を描いてアピールする。何か別の絵を描かせようとすると、「それは習っていないから描けない」と言って、描こうとしないことがよくある。描くのは、「習ったことがある」モチーフのみだ。
普通、5歳くらいの子供ならお母さんの似顔絵などを描いてキャッキャと遊んでいるものだが、中国の子供は、「その絵はまだ習っていないから」と頑なに拒絶する。私の描く絵は率先して真似するのだが…。すごく、すご~く、不思議だ。
中国の子供たちは、自由にのびのびと絵を描かせてもらったことが無いのだろうか。こちらの親子を見ていると、「うちの子は絵を描くのが大好き!絵の教室に通わせて、能力を伸ばしてあげましょう!」と、親は率先して子どもを絵の教室に入れる。講師のほうは、子供の絵を伸ばさなければならないので、手っ取り早い“成果”を出すために、「こう描くほうが上手に見えるから、こう描け!」と、一から百までを教えこむ。モンペア(モンスターペアレンツ:教育機関に理不尽な要求をつきつける保護者)の中国人に「子供の絵が上達した」と納得させるために、講師は子どもたちの個性をつぶしてまで“技術屋”を育てるのだ。己の保身のために。しかし個性とは、「自分で考えて自分で描ける」ということではないのか?
それと同様のことが、あらゆる教育機関で行われている。国だってその教育方法は“よろしくない”と分かっているはずだ。かといって、「自分の頭で考える賢明な市民」を育成してしまえば、自身の足元をすくわれる可能性があるので、先手必勝で手を打っているのだろう。その辺を改めれば、この国が抱える様々な問題は一挙に解決しそうなものだが、それは難しい注文だろうか…。(25歳女性/中国在住7年/自由業)
* * * 【引用ここまで】 * * *
絵の描き方ひとつで国の教育方針全てを語ってしまって良いのかな、と思いますし、このことが「自分の頭で考える賢明な市民の育成」を阻害しているのか、というのもいささか疑問です。
振り返って我が国の教育を見ると、著者が言うように自分の頭で考える子供たちを育てているようではあるものの、大人になった我々は自分の頭でものを考えているのかどうか。
教育によって知識や技能は充実するモノの、「大切なことは何か」という価値観をどれだけ伝えられるのでしょう。また逆に教育で価値観を与えてしまうことの危険性もあって、これは学校などの機関教育というよりはやはり親から子へ伝えられる家庭教育が受け持つ部分なのかもしれません。
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その昔、「おまえは常識がないなあ」と言われて「じゃあ常識を教えてくれよ」と言った友人がいました。常識とはなんだろう?と改めて調べてみると、yahoo辞書では大辞泉で「一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力」とありました。
知識と同時に判断力、つまりここでも価値観が問題なのです。価値観って自分で決めつけるものではなくて、多くの経験をし多くの書物を読み多くの人に会って話を聞くことで醸成されてゆくもの。だからたぶん若さはそうした醸成の期間という意味であまりプラスには働かないようにも思えます。
儒教の世界で世の中の年寄りや経験者、長老が尊敬の対象となったのはそうした価値観念が豊かだからということだったのでしょうが、それが形式化してしまうとこれまた堕落してしまいます。
年寄りになってなお価値観念がないとは言われたくないものです。
さて今日も事業仕分け第二弾の真っ最中ですが、ネット動画を見ていると仕分け人の皆さんが持つ価値観がどこにあるかがときおり垣間見えて興味深いものがあります。
自分の頭で考える教育を受けている日本国民にはどう映っているのでしょう。