先日開発局OBで今はシンクタンクにいる友人を訪ねて意見交換をしました。
彼は現職の時は予算関係の仕事をすることが多く、除雪の予算が話題になった時に思い出話をしてくれました。
「除雪の話で言うと、ある時まで除雪の予算って毎年の平均降雪量を提示して、『なのでこれだけ除雪の経費が掛かります』って説明していたんだよ。ところがあるとき財務省になかなかの切れ者の主査が登場して、『ところで除雪の予算って、示されたときよりも多くかかったら補正で増やして対応していますよね。では平均程には降らなかったときは余った予算は返してくれるのでしょうか』というわけ」
「除雪だけとらえればそうだけど、それ以外に付属施設の補修など見えないけど必要な経費ってあるよね」
「そうなんだけど、そこを今までは降雪量の平均値で説明していたので、そこを突かれる形になってしまった。で、僕の記憶では降雪量は平均ではなくて最低の時を基準にされて、そこから不足分は補正などで補うという形になってしまったんだ」
「公共事業全体もそんな感じじゃないのかな」
「そうなんだ。いくら国土強靭化などが叫ばれても当初予算は毎年ほぼ横ばいで、年度途中の補正予算で少し追加されて毎年同じくらいの予算になるという形が続いているね」
「歳入と歳出を丁度合わせることを"財政の蓋を閉める"と言うんだけれど、財務省にしてみれば、限りある歳入から始めて、増える社会保障費を勘案しつつバランスを取るのは大変なんだろうね」
予算として必要な額を議論して、真に必要なものは自ら負担するという家計でもそうしている当然のことが国としては行われていないというのは残念なことです。
その不足分は後世に付け回しされて、将来世代が何かしようとするときに余裕分をじわじわ奪っているのと同じことだと私は思うのですがいかがでしょう。
公共事業も、後世にちゃんと渡すためにもしっかりとメンテナンスする費用はもちろん、より便利な世の中にしておいてあげたいと思うのですが、そこの理解を得るのもなかなかに難しい時代になりました。