先日友人を交えた会合があって、彼に「誰か面白い若手を連れてきてくれないか?」と頼んだところ、「そうだなあ、うむ、一人面白いのを連れて行くよ」という返事。
ワクワクしながら待っていると、40代の男性を一人連れてきてくれました。
全部で6人ほどの飲み会の中で一番若かったのはもちろん彼が連れてきてくれた方でしたが、年上ばかりのおじさんたちの飲み会の中でもしっかりと自分の思うところを述べたりと、まさにこれからの時代を託せる方とお見受けしました。
会話が進むうちに、年寄りと若者の違いに話が及びました。
私が「もう僕らのような年寄りはだんだんにフェードアウトして消えてゆくのだから、若者の若さを存分に発揮して活動をしてほしいですね」と言うと、その一番若い彼が「うーん、どうでしょうねえ」とやや否定的な様子。
「どうしました、若い人たちに残された時間こそ生かすべき財産ですよね」と言うと、「でも最近の若い人たちは失敗したくないんですよ。失敗して叱られるのも嫌がるしで、これからの時代を担えますかねえ」と弱気です。
「いやいや、若者には失敗しても取り返せるだけの時間があるでしょう?」
「はい確かに時間はあります。でもそこで失敗して無駄な時間を過ごしたくもないんです。逆に先輩たちの方が、もう何をして失敗しても後に禍根を残さないという事はありませんか?」
おっと、これは参りました。
若者の時間は、失敗から何かを学ぶ機会を得るための資源ではないようです。
逆に年寄りこそ、失敗したならもうその時点で消えればよいのではないか。
年寄りの残り時間こそ、若者の前に立ちふさがる大雪をラッセルしてラッセルして倒れることに費やすという生き方もあるのかもしれない、という思いもよらない考えが頭をよぎりました。
若者に「失敗しても良いんだからドーンとやってみなはれ!」と言う言葉はそのまま、若者が年寄りに対して「先輩、もう失敗して多少の金や名誉や地位を失っても、もう何も問題はないんじゃないですか」と言う言葉に置き換えられそうです。
結局、「過去と他人は変えられない、変えられるのは自分と未来だ」という真理なのでしょう。
年寄りが若者に期待するのもアホなら、年寄りが自分の未来を消極的に捉えるのもアホなのだ、と。
それでいてそれはこれからも金や名誉などへの欲によるものではなく、もうそろそろ次世代のためになるようなことに年寄り自信が自分の可能性をもっと模索しろ、年寄りには消え去ろうとする暇なんてないはずだ。
面白い時間でした。
たまにはもっと若い世代の人たちとの交流もしてみたくなりました。
まだまだ消え去るわけにはいかないようですね。