月に一度札幌で開催されている報徳社の常会に参加しました。
毎回誰か一人が話題提供をするのですが、今回は北海道報徳社の前常務理事だった柴田浩一郎さんが講師です。
テーマは「北海道の村落共同体の成立と報徳」というタイトルで、開拓時代からの北海道の集落形成の歴史から、今日への地域づくりを語ってくださいました。
北海道の景観や集落の大きな特徴として挙げられるのが「散居性」ということです。
これは家と家が離れていることで、今では畑作が盛んな地域での農家さんが「隣の家まで300m離れている」ということがざらにありますが、これは開拓時代の「殖民区画制度(1890年)」という歴史の名残なのです。
もともと人が住んでおらず集落のない原野を開拓して農地を作りそこに住むという開拓の仕方で採用されたのが殖民区画です。
殖民区画とは、300間(545m)ごとに交差した道路を作り、これに囲まれた土地を6つに分けて開拓者一戸に約5haの土地を所有させて開墾させたものです。
そうなるとそれぞれの土地に一軒の家が建つという形なので、どうしても家と家が離れて集落と言う形が取れないのです。
そのことで、集落で話し合って共同して市街地集落に住む商人と交渉するということができず、各戸が個別に取引をするのでどうしても立場が弱いという事がありました。
しかも開拓初期は、肥料を使わずに連作をするものですからやがて地力が落ちて行き、そうなればそこを離れて違うところを開墾するような収奪農法から始まり人々の定着もままならない時期がありました。
とは言いながらやがて未墾地も減ってきて、逃げ出すことができなくなったころから肥料を使った地力維持農法が導入され、そこでようやく人々が定着するようになります。
しかし冷害や洪水の被害も多く、それはすぐに貧困化につながったことから、相互に助け合う相互扶助の必要性と産業組合の設立などが求められました。
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昭和初年の農業恐慌にともなう農山漁村の深刻な社会的・経済的混乱を収拾・再建す ることを目的として推進されたのが「経済更生運動」でした。
これは後に国民を戦争に導いたというネガティブな評価もありますが、その端緒は、民間における村づくりであり地域振興のための社会運動でした。
ただこの運動で成果を上げるためにはまず基盤としての村落共同体が必要でしたが、北海道では散居的集落故にそれができにくかった。
そこで村人が集まって自立と相互扶助の精神を養うために用いられたのが「報徳研修」だったのだ、と柴田さんは言います。
さらに柴田さんは、「その運動に札幌農学校が果たした役割は大きなものがあった」と言います。
当時の札幌農学校では報徳が学ばれていて、そこの卒業生が道庁に務め、全道各地で報徳による指導を行ったのだ、と。
札幌農学校の二期生である内村鑑三は英文で「代表的日本人」という本を著しましたが、彼が5人の代表的な歴史上の偉人を挙げたときに二宮尊徳が入っているのは当然だったのです。
経済更生運動が始まった初期の頃には、掛川の大日本報徳社から佐々井信太郎が北海道にやってきて町村長研修を行い、道内には報徳組織が800から一説には1000以上も作られたそう。
報徳を常会のような形で学ぶことで、道徳を追求しさらに経済面では「主産地形成と品質安定」などの具体策で地域の産物の価値を高めていったその功績は大きいものがあった、と柴田さんは力説します。
そしてそうした「慣習的組織力」こそが後に共同体形成や協同組合などの近代的組織力に繋がっていったのだろうと。
北海道における報徳の果たした役割について、改めて知る良い機会となりました。
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今や市町村などの地方自治体で暮らす我々には、行政が仕事として地域をまとめてくれることが当たり前に感じられますが、開拓初期にはそうした人々がまとまることすら難しかった時代がありました。
それを結び付けて集団の力としてまとめ上げるときに、二宮尊徳が行った報徳の仕法というものは格好の良い先駆的なモデルとして認められていたのでしょう。
北海道の歴史を報徳というフィルターを通してみると、また違った歴史が見えて来そうです。
人口減少で厳しくなる社会的連帯の保持のために、いつしかまた報徳が蘇る日が来るのかもしれません。