「このささやかな譯書を
堀辰雄さんにささぐ」
『ここに薔薇あらば 他七篇』ヤコブセン著 山室静 訳
(角川文庫 昭和26年)
デンマークの詩人・小説家 イエンス・ペーター・ヤコブセン (Jens Peter Jacobsen)の短編集。 この山室静さんの訳書には、 冒頭に堀辰雄さんへの献辞がしるされています。 「あとがき」の最後にも、 以下のような堀さんへの言葉が… ↓
この角川文庫は現在絶版のようです。 他に、岩波文庫のもの『ここに薔薇ありせば 他五篇』というものがありますが、 山室静さんの訳で読んでみたかったので、 私は角川文庫のにしました。
収録作は、 岩波文庫のほうが
モーゲンス
霧の中の銃声
二つの世界
ここに薔薇ありせば
ベルガモのペスト
フェンス夫人 の6作品。
角川文庫のほうは、 これらに加えて、 「サボテンの花ひらく(習作・未完)」「ドクトル・ファウスト(遺稿)」の 全8作です。 「サボテンの花ひらく」は詩と散文を組み合わせたもので、 この中に書かれた詩をもとに シェーンベルクが「グレの歌」というオーゲストラ楽曲を作曲したそうです(wiki>>) 、、(今、検索して聴いてみてます…)
***
J.P.ヤコブセンは リルケが大変愛した作家で、 『若き詩人への手紙』の中で、ヤコブセンの6つの短編と、 『ニールス=リーネ』という小説をぜひ読むように、と書いています。 上に載せた写真、 山室静さんの解説にもありますが 『ニールス=リーネ』を山室さんが訳していた時、 堀辰雄さんから励ましをいただいたとのことなので、 リルケ同様に堀さんもヤコブセンの作品を愛読していたのかもしれません。 山室さんが訳す前の ドイツ語の本をお読みになっていたのでしょうか…
今回は、 ヤコブセンの短編の中から冒頭の作品、「モーゲンス」のことを書いてみます。。
、、ヤコブセンについて全く未知だったこともあって、 「モーゲンス」を読み始め、、 最初はとても戸惑いました。
「夏だった、その眞晝(まひる)の庭園の片隅。すぐ前に一本の檞(かしわ?)の老樹が立つてゐたが…」
、、と 自然描写から始まりますが、、 ちょうど映画の冒頭でカメラが 夏の日差し、庭園、 かしわの樹… と無言でズームしていくように、 言葉の絵がズームしていって、、 すると
「…檞の木にもたれてその木陰に坐り、反對がはを眺めると、――じつさい、そこにそうやつて一人の男が坐つてゐたのだが――先づ自分自身の脚が見え、ついで短い勢のいい草と、黒つぽい蕁草(いらくさ)の盛れ上つた小さい地面があり、その先には大きい白い晝顔(ひるがお)の咲いたいばらの籬(まがき)と、庭への路と……」
、、という風に、 言葉のカメラはこんどは男の眼になって、 男から見える自分の足、その先の草、 地面、 その先の昼顔、、というふうに描写していきます。 この映像的な描写は精密で、 「言葉のカメラ」としか言いようがないのですが、、 初めてこれを読み始めたときには、、 (何? なに…? この人は誰? この描写はどこまで続くの…?) と、 すごく読むのに戸惑いました。 映画が始まって10分間、 何の説明も台詞もない映像を見せられているような。。 映像ならまだそのものが見えるからわかりやすいのです、 文字を丹念に頭の中で自分で「絵」に変換していかないと、、 なにが書かれているのか、 何を物語ろうとしているのか、 ちっともわからない…
つぎのページ、、
「それから、檞の木の下の若い男。彼はそこに寝ころがつて、喘ぎながら、悲しそうな絶望的な眼で空を見上げてゐる。彼は何かのメロディを口ずさみかけたが、止めてしまひ、ついで口笛を吹いたが、それも直ぐに止めてしまつた」
、、 やっぱりよくわからない。。 、、すると雨が降り出します (この雨が降り出したことも、地面にとつぜん 「小さい丸い黒い班點」が現れ、、 数行あとにやっと「雨」だとわかる、、、 ほんと《映画》みたいでしょう? 、、雨に続いて 植物の描写、、
「雨は瀧のやうにそそぎ出した
…(略) …
小さな雫は、しばらくそこにひつかかつてゐたかと思ふと、大きな雫になつて落ち、他の雫とあはさつて小川になり…芥や木屑や葉つぱごと流れてゆき、それを地の上に置いたり、また浮かべたり、くるつと廻してまた地の上に置いたりした」
雫(しずく)の描写から、 乾いていた苔が水を吸って息づき始める様子、、
「地衣類は、かはいい耳をひろげ、緞子のやうに厚ぼつたくなり、絹のやうに光つた。 晝顔は……」
、、 まさに自然の映像詩を4K映像でゆっくり見ているかのよう。。
***
雨に打たれた男は 何の説明もないまま 歌い出し、、 その次のページでは、、 歌っている男の 「向こうのはしばみの茂み」に娘がいることがわかります。。 その描写も、 一本の枝に赤いショールがからまっていて、、
「時々小さな手が出て房を引つぱるのだが、枝やその近くから小さな俄雨が起るばかりだつた……」
、、 ほんとうに映画的な手法です。 この「モーゲンス」という作品は 1872年の発表だそうですが、 映画も誕生していない頃に、 こうしてカメラを回すように 《言葉のカメラ》で対象をズームしたり、 ゆっくりと近景から遠景へ切り替えたり、 踊っている男と、 彼が見つける 林の木の枝に引っ掛かっている赤いショール… 、、こういう描写の方法をどうやってヤコブセンが身に着けたのか、、 すごく不思議でした。 このままストーリーが無いんじゃないかと、 最初はわけがわからず、 飛ばして物語の先を読もうとしてしまったり、、
「あとがき」の中で、 山室さんは 「モーゲンス」の 「この作の印象主義的なタッチの爽やかな新しさと完璧さは、さらに全文壇に驚異の目をみはらせ、ひとつの天啓のやうに作用したのであつた」 と書いています。
、、「印象主義的」、、 なるほど。。 確かに印象派の時代とぴったり重なっています、、 が、フランス絵画の印象派の動きが デンマークの作家ヤコブセンに影響したとはあまり考えられないのでは、、 と思っていたら、 ヤコブセンは自然科学、 特に植物学に早くから関心があり、 創作より先には ダーウィンの『種の起源』や『人類の由来』をデンマーク語に翻訳し、 大学時代は藻類の分類研究を雑誌に発表などしていた科学者の目を持っていたのですね、、 きっとこの観察眼が この独特の映像的描写に繋がっていったのでしょう。。
英語版のウィキに載っていた以下の部分を読んで、 ヤコブセンの絵画的な描写のこと、 ストーリー性よりも「点景の連なり」のような描写に、 ああ成程と…
his ability to create "paintings" and arabesque-like scenes both in his prose and his poetry (which has sometimes been criticized as "mannered") is one of the secrets of his art. It has been said that his novels are a presentation of various snapshots rather than tales of action. (Jens Peter Jacobsenより>>)
***
この 「映像的描写」は 「モーゲンス」を読む魅力のひとつに違いありませんが、 ドラマが無いわけではないのです。。 その逆で、、
先の「赤いショールの娘」、、 そして「雨の中で踊っていた若い男」、、 このあと二人に大波乱があり、、 人生を大きく狂わせます。
、、 ヤコブセンには、 科学者の眼で「自然」を豊かな描写力で表現する部分と、 詩人の感性で人間の「激情」に共鳴する部分とがあるようです。 緻密な観察眼、 一方で熱情に揺さぶられる「魂」、、。 魂とは、、 理知の力で抑えようもなく 時には勝手に自分から制御できないところへ飛び立って、、 愛のほうへ、 また 闇のほうへ、、 絶望のほうへ、、 時には狂気のほうへ、、 奔り出してしまうものなのだと。。。
、、物語の冒頭で、 なんの説明もないまま 夏の雨の下で男がとつぜん歌い踊り出したのは、、 この青年がそのような制御しがたい「魂」の持ち主だということの予告だったとも あとから思えば感じられるのです。
***
「モーゲンス」は2回読み返しました。 最初はわけがわからず、 ひたすら物語の「筋」を追おうとして。。 2度目は落ち着いて 《言葉のカメラ》が見せてくれるものを自分の中で「絵」に結び、 その印象の連なりをゆっくりと感じ取りながら…
、、現代では、 ストーリーテリングに凝ったスリリングな物語がたくさん溢れていますから、 ヤコブセンのような作家は読まれなくなっているのだろうと思います。 特に「モーゲンス」のように (都会人には遠くなった)自然の緻密な描写から始まる作品は、 物語の「事件= action」ばかりを追っていくと (なんだ、たったこれだけか…) という感想に終わるのかもしれません。。
、、でもこの秋、 堀辰雄のファンタジー短篇集を読んで(>>)、 そして 『風立ちぬ』の終章 「死のかげの谷」を読み返して(>>)、 無人の冬の山荘で独り 主人公が今は亡き存在としずかに対話し 自然の樹木、木の葉、雪、光、、を見つめ そこに「存在」するものを感じとる過程を読んできた自分には、、 堀さんが愛したリルケ、、 そのリルケが愛したヤコブセン、、 という繋がりが少し理解できるように思いました。
リルケが 『若き詩人への手紙』の中で勧めているもう一つのヤコブセンの作品『ニールス=リーネ』も 山室静さんが訳していますから そちらも是非読もうと思っています。
***
きょうは冬至。 晝(ひる)が一番短い日。
、、 そして この日から新しい晝が、 光が、 生まれていく日。
慌ただしい年の瀬の心に逆らうかのように (でも実際忙しいノダ・笑)、、 こんな風に読書記を書いているのも、、 美しかった夏の日の記憶をすこし留めて、、 (あぁ 何も出来なかった不甲斐なかった気がしていたけれど、 それでも自分なりに一生懸命 今年を生きたなぁ…) などと 自らなぐさめたりして、、 笑)
そして ふたたびの夏へと、、 いざ、生きなむ、、。
… あたたかい週末を! …
堀辰雄さんにささぐ」
『ここに薔薇あらば 他七篇』ヤコブセン著 山室静 訳
(角川文庫 昭和26年)
デンマークの詩人・小説家 イエンス・ペーター・ヤコブセン (Jens Peter Jacobsen)の短編集。 この山室静さんの訳書には、 冒頭に堀辰雄さんへの献辞がしるされています。 「あとがき」の最後にも、 以下のような堀さんへの言葉が… ↓
この角川文庫は現在絶版のようです。 他に、岩波文庫のもの『ここに薔薇ありせば 他五篇』というものがありますが、 山室静さんの訳で読んでみたかったので、 私は角川文庫のにしました。
収録作は、 岩波文庫のほうが
モーゲンス
霧の中の銃声
二つの世界
ここに薔薇ありせば
ベルガモのペスト
フェンス夫人 の6作品。
角川文庫のほうは、 これらに加えて、 「サボテンの花ひらく(習作・未完)」「ドクトル・ファウスト(遺稿)」の 全8作です。 「サボテンの花ひらく」は詩と散文を組み合わせたもので、 この中に書かれた詩をもとに シェーンベルクが「グレの歌」というオーゲストラ楽曲を作曲したそうです(wiki>>) 、、(今、検索して聴いてみてます…)
***
J.P.ヤコブセンは リルケが大変愛した作家で、 『若き詩人への手紙』の中で、ヤコブセンの6つの短編と、 『ニールス=リーネ』という小説をぜひ読むように、と書いています。 上に載せた写真、 山室静さんの解説にもありますが 『ニールス=リーネ』を山室さんが訳していた時、 堀辰雄さんから励ましをいただいたとのことなので、 リルケ同様に堀さんもヤコブセンの作品を愛読していたのかもしれません。 山室さんが訳す前の ドイツ語の本をお読みになっていたのでしょうか…
今回は、 ヤコブセンの短編の中から冒頭の作品、「モーゲンス」のことを書いてみます。。
、、ヤコブセンについて全く未知だったこともあって、 「モーゲンス」を読み始め、、 最初はとても戸惑いました。
「夏だった、その眞晝(まひる)の庭園の片隅。すぐ前に一本の檞(かしわ?)の老樹が立つてゐたが…」
、、と 自然描写から始まりますが、、 ちょうど映画の冒頭でカメラが 夏の日差し、庭園、 かしわの樹… と無言でズームしていくように、 言葉の絵がズームしていって、、 すると
「…檞の木にもたれてその木陰に坐り、反對がはを眺めると、――じつさい、そこにそうやつて一人の男が坐つてゐたのだが――先づ自分自身の脚が見え、ついで短い勢のいい草と、黒つぽい蕁草(いらくさ)の盛れ上つた小さい地面があり、その先には大きい白い晝顔(ひるがお)の咲いたいばらの籬(まがき)と、庭への路と……」
、、という風に、 言葉のカメラはこんどは男の眼になって、 男から見える自分の足、その先の草、 地面、 その先の昼顔、、というふうに描写していきます。 この映像的な描写は精密で、 「言葉のカメラ」としか言いようがないのですが、、 初めてこれを読み始めたときには、、 (何? なに…? この人は誰? この描写はどこまで続くの…?) と、 すごく読むのに戸惑いました。 映画が始まって10分間、 何の説明も台詞もない映像を見せられているような。。 映像ならまだそのものが見えるからわかりやすいのです、 文字を丹念に頭の中で自分で「絵」に変換していかないと、、 なにが書かれているのか、 何を物語ろうとしているのか、 ちっともわからない…
つぎのページ、、
「それから、檞の木の下の若い男。彼はそこに寝ころがつて、喘ぎながら、悲しそうな絶望的な眼で空を見上げてゐる。彼は何かのメロディを口ずさみかけたが、止めてしまひ、ついで口笛を吹いたが、それも直ぐに止めてしまつた」
、、 やっぱりよくわからない。。 、、すると雨が降り出します (この雨が降り出したことも、地面にとつぜん 「小さい丸い黒い班點」が現れ、、 数行あとにやっと「雨」だとわかる、、、 ほんと《映画》みたいでしょう? 、、雨に続いて 植物の描写、、
「雨は瀧のやうにそそぎ出した
…(略) …
小さな雫は、しばらくそこにひつかかつてゐたかと思ふと、大きな雫になつて落ち、他の雫とあはさつて小川になり…芥や木屑や葉つぱごと流れてゆき、それを地の上に置いたり、また浮かべたり、くるつと廻してまた地の上に置いたりした」
雫(しずく)の描写から、 乾いていた苔が水を吸って息づき始める様子、、
「地衣類は、かはいい耳をひろげ、緞子のやうに厚ぼつたくなり、絹のやうに光つた。 晝顔は……」
、、 まさに自然の映像詩を4K映像でゆっくり見ているかのよう。。
***
雨に打たれた男は 何の説明もないまま 歌い出し、、 その次のページでは、、 歌っている男の 「向こうのはしばみの茂み」に娘がいることがわかります。。 その描写も、 一本の枝に赤いショールがからまっていて、、
「時々小さな手が出て房を引つぱるのだが、枝やその近くから小さな俄雨が起るばかりだつた……」
、、 ほんとうに映画的な手法です。 この「モーゲンス」という作品は 1872年の発表だそうですが、 映画も誕生していない頃に、 こうしてカメラを回すように 《言葉のカメラ》で対象をズームしたり、 ゆっくりと近景から遠景へ切り替えたり、 踊っている男と、 彼が見つける 林の木の枝に引っ掛かっている赤いショール… 、、こういう描写の方法をどうやってヤコブセンが身に着けたのか、、 すごく不思議でした。 このままストーリーが無いんじゃないかと、 最初はわけがわからず、 飛ばして物語の先を読もうとしてしまったり、、
「あとがき」の中で、 山室さんは 「モーゲンス」の 「この作の印象主義的なタッチの爽やかな新しさと完璧さは、さらに全文壇に驚異の目をみはらせ、ひとつの天啓のやうに作用したのであつた」 と書いています。
、、「印象主義的」、、 なるほど。。 確かに印象派の時代とぴったり重なっています、、 が、フランス絵画の印象派の動きが デンマークの作家ヤコブセンに影響したとはあまり考えられないのでは、、 と思っていたら、 ヤコブセンは自然科学、 特に植物学に早くから関心があり、 創作より先には ダーウィンの『種の起源』や『人類の由来』をデンマーク語に翻訳し、 大学時代は藻類の分類研究を雑誌に発表などしていた科学者の目を持っていたのですね、、 きっとこの観察眼が この独特の映像的描写に繋がっていったのでしょう。。
英語版のウィキに載っていた以下の部分を読んで、 ヤコブセンの絵画的な描写のこと、 ストーリー性よりも「点景の連なり」のような描写に、 ああ成程と…
his ability to create "paintings" and arabesque-like scenes both in his prose and his poetry (which has sometimes been criticized as "mannered") is one of the secrets of his art. It has been said that his novels are a presentation of various snapshots rather than tales of action. (Jens Peter Jacobsenより>>)
***
この 「映像的描写」は 「モーゲンス」を読む魅力のひとつに違いありませんが、 ドラマが無いわけではないのです。。 その逆で、、
先の「赤いショールの娘」、、 そして「雨の中で踊っていた若い男」、、 このあと二人に大波乱があり、、 人生を大きく狂わせます。
、、 ヤコブセンには、 科学者の眼で「自然」を豊かな描写力で表現する部分と、 詩人の感性で人間の「激情」に共鳴する部分とがあるようです。 緻密な観察眼、 一方で熱情に揺さぶられる「魂」、、。 魂とは、、 理知の力で抑えようもなく 時には勝手に自分から制御できないところへ飛び立って、、 愛のほうへ、 また 闇のほうへ、、 絶望のほうへ、、 時には狂気のほうへ、、 奔り出してしまうものなのだと。。。
、、物語の冒頭で、 なんの説明もないまま 夏の雨の下で男がとつぜん歌い踊り出したのは、、 この青年がそのような制御しがたい「魂」の持ち主だということの予告だったとも あとから思えば感じられるのです。
***
「モーゲンス」は2回読み返しました。 最初はわけがわからず、 ひたすら物語の「筋」を追おうとして。。 2度目は落ち着いて 《言葉のカメラ》が見せてくれるものを自分の中で「絵」に結び、 その印象の連なりをゆっくりと感じ取りながら…
、、現代では、 ストーリーテリングに凝ったスリリングな物語がたくさん溢れていますから、 ヤコブセンのような作家は読まれなくなっているのだろうと思います。 特に「モーゲンス」のように (都会人には遠くなった)自然の緻密な描写から始まる作品は、 物語の「事件= action」ばかりを追っていくと (なんだ、たったこれだけか…) という感想に終わるのかもしれません。。
、、でもこの秋、 堀辰雄のファンタジー短篇集を読んで(>>)、 そして 『風立ちぬ』の終章 「死のかげの谷」を読み返して(>>)、 無人の冬の山荘で独り 主人公が今は亡き存在としずかに対話し 自然の樹木、木の葉、雪、光、、を見つめ そこに「存在」するものを感じとる過程を読んできた自分には、、 堀さんが愛したリルケ、、 そのリルケが愛したヤコブセン、、 という繋がりが少し理解できるように思いました。
リルケが 『若き詩人への手紙』の中で勧めているもう一つのヤコブセンの作品『ニールス=リーネ』も 山室静さんが訳していますから そちらも是非読もうと思っています。
***
きょうは冬至。 晝(ひる)が一番短い日。
、、 そして この日から新しい晝が、 光が、 生まれていく日。
慌ただしい年の瀬の心に逆らうかのように (でも実際忙しいノダ・笑)、、 こんな風に読書記を書いているのも、、 美しかった夏の日の記憶をすこし留めて、、 (あぁ 何も出来なかった不甲斐なかった気がしていたけれど、 それでも自分なりに一生懸命 今年を生きたなぁ…) などと 自らなぐさめたりして、、 笑)
そして ふたたびの夏へと、、 いざ、生きなむ、、。
… あたたかい週末を! …