星のひとかけ

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追想という美しい嘘…:中井英夫「燕の記憶」

2018-04-05 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
先の日曜日に読んだ本のはなし…




『幻戯』 中井英夫(出版芸術社 2008年)の中の 「燕の記憶」という話。

ここに「A」という 「ほっそりと病み勝ちな、それでいて鋭く鬼気を孕んだ」 「晩年には病み疲れて自殺でもしそうな」… 人物が描かれています。 この冒頭のあたりを読んだだけでも、 もうどの人物のことを語っているのか 容易に想像できますね。。

「わたし」の生家は、 その「A」の住む「田端」の家といくらも離れていず、 Aの次男の「Tさん」と「わたし」は同じ幼稚園に通っていた… と思い出が語られていきます。

「A」… 誰もが想像するその《作家》が田端に住んでいた事も私の記憶にありましたし、 中井英夫の生家はどこだったか はっきりと覚えてはいませんでしたが 確かウィキか何かで 誰かのご子息と同年であったとかいうような記述を読んだ覚えもうっすらあり、 だからこれは中井英夫の幼少期の話なんだ、、と思って読んでいきました。

「わたし」が「A」さんの家で 次男の「Tさん」と、 たくさんの本を積み重ねてトンネルのようなものをつくって遊んでいた その日… 

 「うしろのふすまがすうと開いた。 ふりかえると、鴨居につかえる程背の高い…」


、、その「お父さん」が

 「―――そこに小学生全集の、世界童話集はないか。 赤いやつで、『幸福の王子』の入っているのは。」

、、 と尋ねたのです。 それが「わたし」とそのお父さん「A」との初めての対面でした。 

 「幸福の王子! わたしの体は瞬間かあっと熱くなり、頭は恥ずかしさで一杯になった。 わたしは『幸福の王子』をつい最近読んで、 その話はよく知っていたのだ。 知っている、ということがこの場合何かひどく悪いことでもしているようで、 かといって初めての人の前でそれ知ってる、と云える程わたしは大胆でも素直でもなかった」

、、 つい長い引用をしてしまいましたが、 この部分の感情が、 あまりにも中井英夫らしい繊細さと、 多感な子供特有の自意識の複雑さと、「A」という人への瞬間的な憧れのような、のぼせのような緊張とが すごい密度で凝縮されていて、、 やっぱり中井英夫という人は凄いな… と思いつつ、 そして、 「A」さんが 子供部屋に『幸福の王子』の本を探しに来た…! という状況に、 読んでいる私自身もすっかりのぼせ上がってしまったのです。。

 ***

偶然にも、 その前日、 『ガルシン短篇集』の中の 童話的なお話 「がま蛙とばらの花」を読んで、 なんだか オスカー・ワイルドの童話みたいだな… と思って、、 ワイルドの童話集のことも想い出していたのです。。

ガルシンは、、 (上のフォトの)本の帯にも書かれていますが、 精神を病んだ悲劇の作家と言われ、 残っている作品は20作ほどしかないそうです、、 「がま蛙とばらの花」は 7篇の短編集の中の唯一のメルヘンで、、  
病弱な男の子が自分のもののように愛していた花壇、 そこに咲くばらの花、、 だけど その春、男の子はベッドから起きる事も出来ず ばらの花を見ることも出来ないほど 弱ってしまっていて…

、、 中井英夫の話から逸れてしまうので あとは省きますが、、 なんだかオスカー・ワイルドの 「ナイチンゲールとばら」のようなせつなさをちょっと感じるメルヘン… という印象でした。 ストーリーが似ている訳ではないけれど、、 ガルシンが精神の病のなかで絞り出すように書いたメルヘンには、 どうしても何かを犠牲にしなければならない哀しい《美しさ》があって、、 そこに ワイルドの童話の哀切さと似たものを感じていたのです。。

 ***

話をもとに戻して…  中井英夫の 「燕の記憶」、、 それは 言うまでもなくワイルドの童話『幸福の王子』に出てくる「燕」のことですね、、、 再び引用します。 ふすまを開けた「お父さん」は、、

 「―――世界童話集の上巻だったかな。 イギリスのお話で『幸福の王子』だ。 燕に宝石の眼玉をくりぬかせて、貧乏な人にくれてやるお話だ。
 お父さんはたたみかけてそう云った。…」

、、 先ほど 「かあっと熱く」なったと、 「わたし」の気持ちを抜き書きしましたが、、 その「わたし」は「お父さん」の求めに応じるべく 部屋に散らばった本を 無茶苦茶に引っ掻きまわして 『幸福の王子』を探します。。

、、 この後はもう止しましょう。。 


こんな逸話があったなんて…。。  私もぼうっと放心したように読み終えました。。 読み終えた、といってもほんの数ページの短い文章です。 ですが、、 最晩年の「A」というお父さんが ワイルドの『幸福の王子』を探しに子供部屋へ来た… ということに ひどく ひどく 胸を打たれていました。

、、 ちなみに、、 芥川龍之介の最後の作品 「西方の人」の中の 「18 クリスト教」という部分に、 以下のような記述があります、、

 「クリスト教はクリスト自身も実行することの出来なかつた、逆説の多い詩的宗教である。彼は彼の天才の為に人生さへ笑つて投げ棄ててしまつた。ワイルドの彼にロマン主義者の第一人を発見したのは当り前である…」
 (全文は青空文庫で読めます>>

 
 ***

、、 最後に 種を明かさなければなりませんが、、

中井英夫の幼少期の思い出として私が読んだ 「燕の記憶」、、 芥川龍之介の次男「多加志さん」と同年で 「よく遊びに行った」のは事実だそうです。。 だけれども、 「燕の記憶」の真実は、、 最初に挙げた本『幻戯』の 「禿鷹」という文章の中で明かされます。。 中井英夫は 多加志さんの「お父さん」に会った記憶は、 無い、のだそうです。。  「燕の記憶」は その「無念」の産物だったのです。。

「燕の記憶」・・・ 「記憶」には memory という言葉が普通使われます。 でも、 この「燕の記憶」は、 メモリーではないのです。

《remembrance =リメンブランス》という 「記憶」を意味する語があります。 誰かの思い出=誰かを偲んで… という意味で使われる場合は remembrance という語を使います。

「燕の記憶」は芥川へのリメンブランスなのだな、、と思いました。 中井英夫の脳裡のメモリーには存在しない 「A」というお父さん… でも、、 リメンブランスとして幼い日に多加志さんと遊んだ子供部屋には 『幸福の王子』があって、病み疲れたお父さんは最後にふとその本を求めて子供部屋へ探しに来たのです。。 「西方の人」のクリストとワイルドの記述のことも、 きっと中井英夫は知っていたのでしょう。。


小説という許された虚構、、 リメンブランスという美しい嘘…


エイプリルフールの日に私が出会った、、 あまりにも 「美しい嘘」なのでした。。 



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