prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「破戒」(2022年)

2022年08月04日 | 映画
まず、島崎藤村の古典が実に60年ぶりに再映画化されたのに驚いたし、正直危惧もした。
危惧の根拠は大きく二つ、ひとつは部落差別というデリケートなテーマを扱うのに腰がひけてたとえば差別用語を使うのを逃げたりするか、あるいは古典文学という体裁を楯に形だけの映画化になりはしないか、だ。

しかし何しろ「水平社創立100周年記念映画製作委員会」の製作で、製作総指揮の西島藤彦氏は部落解放同盟の委員長だ。
冒頭に当時使われていた通りの言葉を使いますといった宣言の字幕が出て、正面きった差別批判の姿勢は、むしろ木下恵介監督版、市川崑監督版を上回るものだった。

原作は何十年も前に読んだきりなので正確なことは言えないが、はっきり加わったのは、権力側の姿と手口を具体的に描いたことと、背景としての日露戦争を書きこんだことだろう。

もとより部落差別に合理的な根拠などあるわけもなく(差別全体がそうだが)、ただわけもなく特定の相手を見下しそのこと自体を根拠に見せかける図は、たとえばSNSであまりに露骨に可視化された。
また、戦争では国民の命など鉄砲玉のような消耗品に過ぎず、国家のためにという美名のもとに一番犠牲になるのは一般人であり、戦争を煽る奴ほど安全地帯で甘い汁を吸うだけという図も、残念ながら変わらない。

また国会議員の甥という立場をかさに着て、恋敵でもある丑松を陥れようとその出自を志保に吹き込むというセコいやり口も、世の権力者なるものの矮小な姿を日々見せられている身には戯画化でもなんでもなくそのまま腑に落ちる。
ヒロインの志保がそういう男をきっぱりと拒絶するのははなはだ爽快。
これからは女性もさまざまな世界に進出する、いずれは選挙権も持つようになるといったセリフは原作にはたぶんない。

生徒たちへの丑松の告白がクライマックスになるのはこれまでの映画化もだが、さらにその後、後を慕って追ってきた生徒たちに正面きって勉強を続けることの大切さを説くのは、学歴や予算の獲得合戦とを学問と取り違える昨今のグロテスクと考え合わせると、強い感銘を生む。

そしてそれまで(おそらく大人の真似をして)わけもわからず部落民を蔑んでいた生徒がそのことに気づくところを描きこんでいるところや、丑松が志保と手を取り合って旅立つラストなど、むしろ明るく希望を持たせる。
丑松の友人の銀之助(矢本悠馬)が自然にふたりを守る側につくのが、朋友という古いコトバを思い出させるくらい友人のありがたさをてらいなく出した。 

主な舞台になる尋常小学校の校舎が階段のラッカー塗の手すりや壁の漆喰の質感など本当に古式ゆかしい校舎で撮影されていると思しく、それを広角レンズの手持ちカメラで移動しながら人物につけていくカメラワークなど、画作りが丁寧でしかも新しい感覚も出ている。

丑松の間宮祥太郎、志保の石井杏奈、猪子蓮太郎役の眞島秀和それぞれ意外なくらい古典の顔になりきっている。