司馬遼太郎「奇妙なり八郎」の映画化。
何を考えているのかさっぱりわからない策のために策を弄するような策士・清河八郎を丹波哲郎が演じる、というか人を煙に巻く感じが丹波さんそのまんま。
撮影の小林節雄はじめ撮影所が機能していた時代のスタッフワークが素晴らしく、画面の様式美、格好のよさは篠田正治の監督作の中でも「乾いた花」と並んでトップクラス。
武満徹作曲の音楽はプリペアド・ピアノと尺八だけしか使っていないにも関わらず凄い広がりを持つ響きを轟かせる。
この時に尺八の横山勝也と録音技師の奥山重之助と会うわけで、これが武満の純音楽の「ノヴェンバー・ステップス」やミュージック・コンクレート作品につながっていく。
映画音楽の方が前なのだね。
武満はえてして難しいとか言われる現代音楽の書法で書かれた曲も映画の画面につけると普通にきれいな音楽と言われる、余計な先入観なしに聞いてもらえるのが魅力だと言っていた。
「市民ケーン」ばりにさまざまな人間から見た清河の人間像が矛盾しながら組み立てられている構成。
ラストの一人称カメラも、最初の方で道場の立ち合いで清河に打ち据えられた佐々木只三郎(木村功)がかすむ目で清河を見る一人称という形で一種の視覚的伏線になっていたわけ。