「病院」
登場人物 飯沢聡子 20代前半 足のケガで病院に新しく入院した患者
瀬川明美 〃 ナース?
慶子 〃 後から入院してくる患者
医者1(声だけの出演)
医者2(声だけの出演)
焼き場の係員(声だけの出演)
病院の各所(ラフに撮られたモノクロのざらついた静止写真 以下同じ)にかぶさり、
聡子のN「病院…、そこではどこよりも多くの人間が生まれ、どこよりも多くの人間が死ぬ」
古いビル。
N「私は東京で小さな出版社に勤めている。ずっと忙しくて休みもとれなかったけれど、やっと久しぶりの休暇をとって、女の一人旅としゃれこんだ」
車の走っている道路。
N「予定も立てずにぶらっと足の向くまま気のむくままに歩き回るつもりだった。小さな名も知らない駅で途中下車して」
商店街。
N「駅前をぶらついた後」
裏道。
N「狭い裏道に入って歩いてまわり、角を曲がろうとしたところ、一台のトラックがむりやり割り込んできた」
トラックのヘッドライトのアップ。
聡子の顔。
激痛でゆがんだ顔。
N「何が起こったのか、しばらくわからなかった」
救急車のサイレン。
T「内輪差」
N「小学校で習ったナイリンサ、という言葉の意味が十年以上経った今、やっとわかった」
トラックのタイヤのアップ。
N「四輪車がカーブするとき、後輪は前輪より内側を回る。だから前輪をよけても同じところに立っていると後輪に轢かれることがあるから気をつけなさいと、先生に教わった。その通りになった」
タイヤに轢かれかけている足。
N「トラックは、人の足を踏んだことにも気づかなかったのだろう。そのまま走り去った」
救急車。
病院の救急口。
トレーチャー。
N「都会暮らしに慣れてきたはずの私が、ちょっと田舎に入ってこんな交通事故に会うなんて、思いもよらなかった」
画面、F・Oする。
N「どういう治療を受けたのか、よく覚えていない。気がつくと、病院のベッドに上にいた」
○ 病室・大部屋・昼
その片隅、窓際のベッドに入院衣姿で横になっている聡子。
白衣を着た明美が、話しかけてくる。
明美「目がさめましたか」
聡子「ここは…」
明美「病院です」
聡子「病院…(まだぼんやりしている)」
明美「そうです」
聡子「なんで病院に」
明美「足にケガしたんですよ」
聡子「(記憶を探って)そうだ、あの車に踏んづけられたんだ」
明美「あの車って、どの車ですか」
聡子「あのトラック…、しまった、覚えてない」
明美「何を」
聡子「車のナンバー。踏んづけて、そのまま行っちゃった」
明美「仕方ありませんね」
聡子「警察に届けないと」
明美「どんな車か覚えてますか」
聡子「いいえ、よく。すぐ鼻先を通ったと思ったら、いきなり激痛が走ったものだから」
明美「では、届けても望みありませんね」
聡子「そんな…」
明美、近くのキャビネットの引き出しを開け閉めして、
明美「貴重品はここにまとめてあります。今日は、診察は終わりです。詳しいことはあしたから」
ナースコールのボタンを示して、
明美「何かあったら、これを押して下さい。私は瀬川です。瀬川明美」
と、立って隣の患者のところに行く。
隣の患者はぐるりをカーテンで仕切っていて、中の様子はまったく見えない。
明美の声「…はい、大丈夫ですよ。隣に人が入ったけれど、気になりませんね。調子は…まあまあ」
患者の声はさっぱり聞こえない。
聡子、テレビを見ようとするが、つかない。
引き出しを開けて、財布や携帯を出して確かめる。
聡子のN「そうだ、会社に連絡しないと」
携帯をかけてみる。
「…この携帯は、電波の届かないところにあるか、電源が切ってあるため、かかりません…」
聡子、けげんな顔をする。
隣のカーテンの中から明美が出てくる。
明美「病院内では、携帯は禁止です」
聡子「はい」
と、急いで引き出しにしまう。
明美、身を翻して去る。
聡子「あの」
と、声をかけるが、聞こえないのかさっさと出て行く。
聡子、仕方なくベッドの上でおとなしく横になっている。
N「私はやっと落ち着いて、自分の身の回りを見渡した」
大部屋だが、聡子と隣の患者の二つのベッドしか埋まっていない。
N「なんでまた、他にいくらも開いているのにこんなにくっつけて寝かせているんだろう。不思議に思った」
寝ている聡子。
N「ベッドの上でいろいろ考えているうちに、いくつもわからないことが頭にわいてきた。旅先だったから私は保険証を持っていない。もちろんこの病院の受信票も持っていない。それから入院のための書類も書いた覚えがない。なんですんなり入院できたのだろう。急患だったから受け入れたのだとしても、書類くらいは書かせるはずだ。免許証は持っていたから、身元はわかるのだし。それから課長の携帯は電源を切っていても留守録につながるはずで、すると電波が届かないのは、こちらの携帯ということになる。電波が届かないのに、携帯禁止?」
間。
N「私はどんなケガなのか。どんな処置をしたのか。誰が処置したのか。どれくらいで治るのか。何もわからない」
間。
N「そうだ、この病院の名前、なんというんだろう」
タイトル
○ 病室・夜
横になっている聡子と、相変わらずカーテンを巡らしたままにしている隣の患者。
ともに明かりはつけている。
「ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
変なうめき声が、隣から聞こえてくる。
聡子、いやな顔をする。
「ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ」
だんだんうめき声が大きくなる。
聡子。
「ウウウウウウウウウ」
聡子、がまんできなくなってきて、
「すみません」
うめき声はやまない。
「(声を大きくして)すみません」
うめき声が止まる。
聡子「ナースコールを押してみたら、いかがですか」
答えは、ない。
聡子「もし」
「ウウウウウウウウウ」
また、うめき声が一段と大きくなって再開する。
聡子、たまらず自分のナースコールを押す。
「ウウウウウウウウウ」
えんえんとうめき声が続く。
聡子、(早く来てくれ)という顔で待っているが、一向にナースは来ない。
聡子「何やってんのよ」
またコールするが、まだ来ない。
聡子「(たまらず、隣に声をはげまして)あの、すみません」
「ウウウウウウウウウ」
聡子「どうしました」
「ウウウウウウウウウ」
聡子「何かできることありますか」
突然、ぴたりとうめき声が止まる。
聡子「(どうしたのだろう)」
隣から女の声「あの」
聡子「はい」
隣の女の声「大変申し訳ないのですが」
聡子「はい」
隣の女の声「少し、私の話を聞いていただけないでしょうか」
苦痛のあとなどまったくない、落ち着いたしゃべり方。
聡子「(戸惑いながらも)ええ、いいですよ」
隣の女の声「すみません、顔も見せないで」
聡子「いえ」
隣の女の声「でも、見ない方がいいんです」
聡子「はあ」
隣の女の声「夫のせいなんです」
聡子「はあ」
隣の女の声「何もかも、夫のせいなんです」
聡子「…」
隣の女の声「夫のタケシが私をこんなにしてしまったんです」
聡子「…」
隣の女の声「タケシは、あたしをぶちます。何度もぶちます。朝もぶちます。昼もぶちます。夜もぶちます。夜中でも、叩き起こしてぶちます。手でぶちます。足で蹴ります。掃除機の棒でぶちます。ポットの中のお湯をかけます。風呂の中のお湯に頭を沈めます。玄関のドアの間に手を入れておいて、思い切り閉めます。足の甲を思い切り踏みつけます」
聞いている聡子、顔がひきつってくる。
隣の女の声「それから、思い切りあたしをののしります。顔が悪い。頭が悪い。スタイルが悪い。性格が悪い。いつもろくな服を着ていない。不潔だ。臭い。そう言って、あたしに唾を吐きかけます。おまえには生きている価値がないと言います。死んでしまえと言います。死んでも誰も悲しまないと言います。あたしが死んだら、墓の上で踊ってやると言います」
聡子「(おそるおそる)あの…」
隣の女の声「(構わず)傷だらけになって血まみれになると、『血を出すな。汚らしい』と怒鳴ります。顔が腫れて膨れ上がると、『醜い』とののしります」
聡子「あの、警察を呼んだらいかがでしょう」
隣の女の声「それからあたしの親を罵倒します。あたしの母親のしつけが悪いから、こんな出来の悪い娘ができたんだと言います。おまえの父親は本当の父親ではないと言います。おまえの母親は公衆便所だから、誰の子供だかわかりゃしないと言います」
聡子「(懸命になって)ちょっと、ひどすぎませんか。絶対警察に言うべきです。あるいは公の対策センターとかあるはずです」
ぷつりと隣の女の声が止まる。
聡子、耳をすましている。
何の音もしない。
聡子「あの…」
答え、なし。
聡子「もしもし」
隣から女の声「あの」
聡子「はい」
隣の女の声「大変申し訳ないのですが」
聡子「はい」
隣の女の声「少し、私の話を聞いていただけないでしょうか」
さっきと同じような何事もなかったようなしゃべり方。
聡子「(戸惑いながらも)ええ、いいですよ」
隣の女の声「すみません、顔も見せないで」
聡子「いえ(何か変だな)」
隣の女の声「でも、見ない方がいいんです」
聡子「…(前と同じことを言ってないか?)」
隣の女の声「夫のせいなんです」
聡子「はあ」
隣の女の声「何もかも、夫のせいなんです」
聡子「…」
隣の女の声「夫のタケルが私をこんなにしてしまったんです」
聡子「…タケル? タケシだったのでは」
隣の女の声「(まったく意に介さず)だからあたしはタケルをぶちます。何度もぶちます。朝もぶちます。昼もぶちます。夜もぶちます。夜中でも、叩き起こしてぶちます。手でぶちます。足で蹴ります。掃除機の棒でぶちます。ポットの中のお湯をかけます。風呂の中のお湯に頭を沈めます。玄関のドアの間に手を入れておいて、思い切り閉めます。足の甲を思い切り踏みつけます」
聞いている聡子、わけがわからない。
隣の女の声「それから、思い切りあたしはタケルののしります。顔が悪い。頭が悪い。スタイルが悪い。性格が悪い。いつもろくな服を着ていない。不潔だ。臭い。そう言って、タケルに唾を吐きかけます。タケルにおまえには生きている価値がないと言います。死んでしまえと言います。死んでも誰も悲しまないと言います。おまえが死んだら、墓の上で踊ってやると言います」
聡子「(おそるおそる)あの…」
隣の女の声「(構わず)傷だらけになって血まみれになると、『血を出すな。汚らしい』と怒鳴ります。顔が腫れて膨れ上がると、『醜い』とののしります」
聡子「あの、どちらが」
隣の女の声「それからタケルの親を罵倒します。タケルの母親のしつけが悪いから、こんな出来の悪い息子ができたんだと言います。タケルの父親は本当の父親ではないと言います。タケルの母親は公衆便所だから、誰の子供だかわかりゃしないと言います」
聡子「あの、わけがわかりません」
ぷつっと、また声が途切れる。
聡子、耳をすましている。
何の音もしない。
聡子「あの…」
答え、なし。
聡子「(よせばいいのに)もしもし」
隣の女の声「あなたのせいです」
聡子「は?」
隣の女の声「何もかも、あなたのせいです」
聡子「え…(わけがわからない)」
隣の女の声「あなたが私をこんなにしてしまったんです」
聡子「ちょっと」
隣の女の声「あなたは私に病気をうつした」
聡子「ちょっと、何をおっしゃるんですか」
隣の女の声「この病院、変だと思わない?」
聡子「え?」
隣の女の声「こんなにベッドが空いているのに、あなたとあたし、こんなにぴったりくっつけて寝かせて。こうやって、あたしに病気をうつそうとしているんだ。インフルエンザと、エイズと、それと癌と」
聡子「癌がうつるわけないでしょう。変なこと言うの、やめてください」
隣の女の声「そうやってあたしを殺そうとしているんだ」
聡子、憤然としてナースコールを押す。
だが、誰も来ない。
聡子「どうなってるの、誰か来てよ」
がちゃがちゃ押す。
隣の女の声「誰も来ないよ」
聡子、我慢できなくなって、むりやりベッドから這い出る。
包帯とギプスで固められた足をそろそろと床に下ろす。
激痛が走り、思わずうめき声が漏れる。
ケガしていない足を床に下ろし、なんとか一本足でけんけんしていこうとするが、踏ん張りがきかず転倒する。
悲鳴を上がる聡子。
それでも懸命になって床を這いずって出入り口に向かう。
隣の女の声「誰も来ない」
聡子、耳を貸さずに這っていく。
隣の女の声「(意味不明の絶叫)あーぁぁぁぁぁあ」
聡子、這う。
隣の女の声「あたしが死んでも、誰も来ない」
聡子。
隣の女の声「(絶叫が後ろから追いかけてくる)あたしなんか、死ねばいいっ」
聡子、振り返らないで、這う。
隣の女の声「死ぬんだっ」
聡子、少し逡巡する。
隣の女の声「死ぬんだっ」
聡子、這うのを停める。
隣の女の声「見ろっ、死んでやるっ」
聡子。
隣の女の声「(断末魔のような声)ぎゃああああああ」
聡子、思わず振り返ってしまう。
と、カーテンが中からのおびただしい量の血しぶきで真っ赤になる。
聡子、悲鳴を上げる。
そして、痛む足をひきずって出口に向かう。
やっと到着して、なんとか開けようと扉に手を伸ばす。
と、がらっと外から扉が開けられる。
見上げると、明美が上から見下ろしている。
明美「あら、だめじゃないですか。まだケガしたばかりなのに動き回ったりして」
聡子「(興奮して言葉にならない)あ、あの、隣の人が、死、し、し、しに」
明美「(意に介さず)はい、つかまって」
と、聡子を担ぎ上げるようにして立たせる。
その拍子にケガした足に力が加わり、
聡子「痛いっ!」
悲鳴を上げる。
明美「がまんして」
と、病室の奥に逆戻りしだす。
聡子「ちょっと」
慌てる。
が、振り向いて奥のベッドに近づくと、痛みの中でけげんな顔をする。
使われているベッドは窓際の聡子のだけで、カーテンが開けられて見ることができる隣のベッドには使われた形跡がない。
明美、ぐいぐいと聡子をひっぱって窓際のベッドに戻す。
聡子「さっきずいぶんナースコールを押したんですけど」
明美「あら、聞こえてすぐ来ましたけれど」
聡子「すぐ?」
明美「ええ」
明美、委細かまわず聡子をベッドに横にする。
聡子「いたっ」
明美「ごめんなさい(心がこもっていない)」
明美、聡子の脈をとったり、熱を測ったりする。
聡子「あの」
明美「はい」
聡子「この病院、他に患者さんいないんですか」
明美「いますよ。この病室だけたまたま空いているけれど」
聡子「でも、いくらなんでも静かすぎません?」
明美「夜ですからね」
聡子「あの、診ていただいてるの、何という先生ですか」
明美「飯沢先生です」
聡子「あら、あたしと同じ名前」
明美「…(何も言わない)」
聡子「(なんだか不安になる)」
明美「少し熱がありますね。お薬出しておきましょう」
と、席を外す。
聡子、隣のベッドを見る。
やはり、使われた形跡はまったくない。
見ているうちに吸い込まれそうになって、あわてて目をそらす。
明美が水と薬を持って戻ってくる。
明美「はい」
聡子「…(なんだか気味悪くて手を出さない)」
明美「飲んで」
聡子「これ、なんですか」
明美「ただの鎮静剤です」
聡子、やむなく飲む。
ごくっと鳴るノド。
明美「じゃ、ごゆっくり」
と、出て行く。
寝ている聡子。
のしかかってくるような沈黙の中、聡子の呼吸と心臓の鼓動だけが聞こえてくる。
聡子、薬が効いてきたのか、うとうとしてくる。
隣の女の声「(聞こえてくる)「ローンは大阪との関係がもっとも親密で、正確に数えまして、コンスタントに亡くなる1970年まで総数は100回、コンセルトヘボウと豊島区役所にまとまった代金がかかっています」
聡子「?」
目を向けると、いつのまにかカーテンがまた巡らされている。
暗い中、隣の女の声だけが響く。
隣の女の声「(意味がだんだん壊れてくる)もちろん助かる、まだキャビネットに可能性が高い、いのさきのことしか考えてない、きょうあしたきょう、いじめるのが好き、らしきさの、防衛こそ最大のラジオ、百円ショップで売っている包丁で十分、マザコンの母親はチッコリー、心が安くなる、階段から落ちる、テントウムシテントウムシ、頭がぱっくりわれてたたんで串刺しにして、水たまりができてる、浸透性ならあんた誰、あのエスカレータはあなたの行く先には止まりません、エクスプラターナ、プフファぅーラは私の本名ではない」
聡子、もちろん意味がわからない。
隣の女の声「(ところどころ日本語らしきフレーズは入るが、まったく意味がわからない)いかにしてけわけはビンらでいんわとりにかしたかにけだすことができなかつたとにゆうんすがぜんぜんちがう、楽天むすうえるてなにしてたのよそうはていたれはよかつたいと、いせんしやーなりすとまとめたしょういんおおけいだよと」
聡子、気が変になってきそうになる。
聡子「(耳を押さえて叫ぶ)もうやめてっ」
隣の女の声「けけけけけけけけけ」
聡子、我慢できなくなり、身体を起こして、カーテンに手をかける。
隣の女の声、ぷつっと途切れる。
聡子、一瞬迷うが、思い切ってカーテンを開く。
隣のベッドの上には、誰もいない。
ふと見ると、隣のベッドの傍らのテーブルに、ムダ毛剃りに使うようなカミソリがぽつりと置かれている。
聡子、つい目が吸い寄せられてしまう。
頭を振って、目をそらす。
ふっ、と明かりが消える。
聡子「(小さく悲鳴をあげる)」
聡子、立ちすくんでいる。
突然、眠気が襲ってくる。
だんだんひどくなり、立っていられない。
どさっと自分のベッドに座り、横になる。
意識が遠のく。
その顔にすうっと明かりが当たる。
聡子、もやもやした意識の中、そうっと光の来た方を見る。
隣のベッドのまわりにまたカーテンがめぐらされ、その中から光がさしている。
聡子、眠気と懸命に戦うが、身体が思うように動かない。
カーテンに、人影が写る。
聡子「(悲鳴をあげようとするが、薬が効いているのか、声か思うように出ない)」
カーテンが中から開けられて…、
姿を現したのは、明美だ。
ただし、ナースではなく、患者の格好をしている。
聡子「(エッ)」
明美、カミソリを手にしている。
聡子の上にのしかかってくる。
ノドもとにカミソリを当てられそうになって。
聡子「(突然、悲鳴が出る)」
聡子の身体が動くようになって、懸命に明美のカミソリを持った手をつかんで防ぐ。
明美、体重をかけてカミソリを近づけてくる。
聡子、明美の手をねじるようにして反撃する。
「ギャッ」
聡子の顔に血しぶきがかかる。
明美の首にカミソリが刺さっている。
血を噴き出しながら、どうっと隣のベッドの上に倒れて動かなくなる明美。
聡子、また悲鳴をあげる。
ナースコールを押しかけて、はっと気づいて投げ捨てる。
聡子「どうしよう…、どうしよう…、どうし…」
興奮状態の中、また猛烈な眠気が襲ってくる。
聡子「眠いっ…なんで、こんな時に」
またベッドの上で横になる。
今度こそ、完全に意識がなくなる。
× ×
目をさます聡子(夜)。
ベッドの上で横たわっている。
顔に血のりの跡はない。
聡子の声「…夢か」
起き上がろうとして、身体が動かないのに気づく。
聡子の声「身体が…動かない…」
辛うじて動く目だけをめぐらして、周囲を見渡す。
カーテンがぐるりに巡らされている。
聡子の声「ここは、隣のベッドだ。なんでここに」
隣、つまり前の聡子がいた窓際のベッドから声がする。
明美「目がさめましたか」
窓際のベッドに、別の女(慶子)が寝かされている。
慶子「ここは…」
明美「病院です」
慶子「病院…(まだぼんやりしている)」
明美「そうです」
慶子「なんで病院に」
明美「覚えありませんか」
慶子「そう…、確か階段から落ちて…、誰かに押されて…」
明美「貴重品はここにまとめてあります」
慶子「どんな処置をしたんでしょう」
明美「今日は、診察は終わりです。詳しいことはあしたから。何かあったら、これを押して下さい。私は瀬川です。瀬川明美」
カーテンを開けて、明美が入ってくる。
聡子「!…」
明美、にっこり笑って、カミソリを取り出す。
どうするのかと思うと、傍らのテーブルに置いていって、カーテンをくぐって去る。
聡子、相変わらず身体が動かない。
その口から、勝手にうめき声が漏れる。
聡子「ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
聡子の内心の声「こんな声、あたし出してない」
聡子「ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ」
だんだんうめき声が大きくなる。
聡子の内心「止まれ、止まれっ」
聡子「ウウウウウウウウウ」
慶子「すみません」
うめき声はやまない。
慶子「(声を大きくして)すみません」
うめき声が止まる。
慶子「ナースコールを押してみたら、いかがですか」
答えは、ない。
慶子「もし」
聡子「ウウウウウウウウウ」
聡子の内心「いやだっ、あんなわけのわからないことをわめき散らかすのはいやだっ、あたしはまともよ。おかしくなんかない」
聡子「(うめき声はますます大きくなる)ウウウウウウウウウーッ」
慶子「あの、ナースコールを押したらいかがですか」
聡子「押しても、来ないんですよ」
ぽろっと普通に声が出た。
以下、カーテンを隔てての会話。
慶子「来ない? そんなことないでしょう」
聡子「あの看護婦は恐ろしい人なんです。いや、人ではないかもしれない」
慶子「え?」
聡子「そうです。人ではない。悪霊か、地縛霊か、とにかく恐ろしいものです」
慶子「(あ、こりゃ頭が変な人だわという顔)」
聡子「あたしは旅先で事故でケガしてこの病院に担ぎ込まれました。いや、あの事故からしてこの病院の陰謀だったかもしれない。とにかく担ぎ込まれたけれど、誰が手当てしたのかもわからず、わけのわからないまま、身動きもとれずに、この病室に閉じ込められたんです。隣にわけのわからない女がいる、この病室にです」
慶子「わけのわからない女?(それはあんただろ、と顔に書いてある)」
聡子「えんえんとわけのわからないことを言い続けるんです」
慶子「…」
聡子「あたしがそうだと言うんでしょう。でも違う。信じてください」
慶子「はい、はい」
言いながら、ナースコールを押している。
聡子「今、ナースコールを押しているでしょう」
慶子「(図星をさされ、ぎょっとする)」
聡子「図星みたいね。あたしの頭がおかしいと」。
慶子「…やめてもらえません?」
聡子「いいえ、あたしの言うことを聞いて。あたしの言うことを聞いて、一刻も早くこの病院を抜け出すの。そうしないと、恐ろしいことになる」
慶子「(気味悪くなってくる)」
聡子「あの看護婦は恐ろしい人なんです。いや、人ではないかもしれない。あたしは旅先で事故でケガしてこの病院に担ぎ込まれました(同じことを繰り返しているのに気づくが止められない)。いや、あの事故からしてこの病院の陰謀だったかもしれない。とにかく担ぎ込まれたけれど、誰が手当てしたのかもわからず、わけのわからないまま、身動きもとれずに、この病室に閉じ込められたんです。隣にわけのわからない女がいる、この病室にです」
慶子「(本気で怖くなってくる)」
聡子「すでにつしびょうるいがなんおいならかわのけれわにになと。巣でんたらわれめこじとにしつびょうのこ。にずれとも記号みまま、いならかわのけ輪ずらかわもかのたしてあてがれだ」
わけのわからないことを口からだらだらと垂れ流している聡子、自分の上にかけているシーツの中から明美が顔を出してくるのに気づく。
聡子「(総毛立つが、口は止まらない)。いなれしもかたっだぼうびょうのこてしらかこじのあやい。鷹峰しまれまこぎつかにいんびょうのこ。てし影でこじきさびたのいんびょう」
そろそろと立ち上がり、ばっとカーテンを開ける慶子。
慶子の目には、隣のベッドには誰もいないように見える。
慶子「?…どうなってるの」
傍らのテーブルの上も見る。
カミソリがなくなっている。
カーテンを閉じる慶子。
隣のベッドの上の聡子。
その手に、いつのまにかカミソリが握られている。
聡子の内心「(それに気づき)何これ、なんでこんなものを」
声はあわてているが、身体は関係なく起き上がり、カーテンに手をかける。
聡子の内心「違うっ、こんなことをしているのは、私じゃない」
ぼーっ、と背後で明かりがひとりでに点く。
ばっとカーテンを開ける聡子。
びっくりしてこっちを見ている慶子。
聡子の内心「(絶叫)違うぅぅぅぅぅぅ」
それとは裏腹に平然たる表情で慶子に襲いかかる聡子。
取っ組み合いになる二人。
聡子「ギャッ」
そのノドから、血がほとばしっている。
もぎとったカミソリを持って呆然としている慶子。
聡子「なんで、あたしが…」
倒れる。
× ×
真っ暗な画面。
聡子の声「ここはどこ」
真っ暗なまま。
聡子の声「ここはどこ」
ギイギイいう音。
聡子の声「ここは」
フラッシュで、明美の顔が一瞬浮かぶ。
が、すぐ真っ暗になる。
医者1の声「ご臨終です。午前二時十八分」
間。
聡子の声「ご臨終? 誰が?」
医者2の声「ところで、この仏さん、身元わからないんだよな」
聡子の声「何言ってるの、免許証だって持ってるでしょう」
医者1の声「冷凍室もいっぱいだしな」
聡子の声「ちょっと、死んだのあたし?」
医者2の声「ちょうど、ドナー用の死体が足りなくて困ってるんだけど、どうする」
医者1の声「いいね、使わせてもらおう」
医者2の声「ドナーカードなんて持ってるのか」
医者1の声「あるさ、ここに」
医者2の声「おお、あった、あった」
(F・I)
何も書かれていないドナーカードにどんどん丸がつけられていく。
医者1の声「全部、提供します、と」
(F・O)
医者2の声「ところで、死因は何にした」
医者1の声「失血死でいいんじゃないか」
心臓の画像のフラッシュ。
医者2の声「あれだけ血が出れば、死ぬよなあ」
医者1の声「掃除が大変だ」
医者2の声「俺たちがやるわけじゃないが」
二人の笑い声。
聡子の声「何がおかしいのっ」
かちゃかちゃ手術器具が触れ合う音。
医者1の声「目を開けて」
聡子の主観で、視界が明るくなる…が、何もかもピンボケでまともに見えない。
その霧の中から、尖ったものがぐぐっと近づいてくる。
メスだ。
医者1の声「(霧の向こうから聞こえてくる)では、まず角膜からいただこう」
聡子の声「ちょっと、何、これ、いやっ」
メスがカメラ=目に刺さる。
聡子の声「(悲鳴、絶叫)」
画面、暗くなる。
医者2の声「では、もう一つもいただこう」
また、画面が明るくなるが、ピンボケのまま。
再びメスが迫ってくる。
聡子の声「あたしは生きてるっ、生きてるっ、目が、目がっ」
メスが目を抉る。
画面がまた暗くなる。
聡子の声「ぁぁぁぁぁぁぁ」
正気を失ったような響き。
医者1の声「では、ホルモンもいただきますか」
医者2の声「あいよっ」
フラッシュ、光るメス。
やはりフラッシュ、血のついたメス。
聡子の声に異様な不協和音が混ざってくる。
ざくざく肉を切り分ける音。
聡子の声「何、この音。あたしの肉を切ってるの?」
医者1の声「肋骨、切りまーす。ノコギリ」
医者2の声「はい、ノコギリ」
フラッシュで、ノコギリが閃き、すぐ暗くなる。
ごりごり骨を切る音。
医者1の声「いっせいの」
医者2の声「せっ」
ぽきっと骨が折れる音。
聡子の声「あたしの、肋骨…」
医者1の声「丈夫な骨だな」
医者2の声「よく食べてたんだろう、このドナー」
医者1の声「昔は女は男より一本肋骨が少ないなんて言われてたんだよな」
医者2の声「少ないといいな、切る手間が省ける」
ぽきっとまた折れる音。
医者1の声「はい、もういっちょう」
医者2の声「はいっ」
また折れる音。
聡子の声「ちょっと、あたしの肋骨を折ってるのっ?」
医者1の声「いよいよ、心臓だ」
医者2の声「冷蔵ボックスの用意はいいな」
医者1の声「メス」
医者2の声「メス」
ごそごそ切る音。
医者1の声「はい、ハツいっちょう」
医者2の声「はい、ハツいっちょう」
ドナーカードの「心臓」の項目に丸がつけられる。
聡子の声「やめて、やめてえ」
医者1の声「はい、レバー」
医者2の声「はい、レバー」
ドナーカードの「肝臓」の項目に丸がつけられる。
医者1の声「はい、バサ」
医者2の声「はい、バサ」
ドナーカードの「肺」の項目に丸がつけられる。
医者1の声「はい、マメ」
医者2の声「はい、マメ」
「腎臓」の項目に丸がつけられる。
医者1の声「はい、タチギモ」
医者2の声「はい、タチギモ」
「脾臓」の項目に丸がつけられる。
医者1の声「はい、コプチャン」
医者2の声「はい、コプチャン」
「小腸」の項目に丸がつけられる。
医者1の声「いいねえ、若い子は」
医者2の声「新鮮そのものだ」
医者1の声「ぷりぷりしてる」
医者2の声「色もいい」
医者1の声「このドナー、外見もよかったんじゃないか」
医者2の声「内臓だって、外見のうちさ」
また、笑いあう医師たち。
医者1の声「警備の田中じいさんに見せない方がいいんじゃないか」
医者2の声「なんで」
医者1の声「結構、好みなんじゃないかと思ってさ」
医者2の声「爺さんの?」
医者1の声「そう」
医者2の声「中、空っぽになるからなあ。入れても、中が広すぎるんじゃないか」
医者1の声「あそこは取らないから、関係ないよ」
医者2の声「おまえがやるみたいじゃないか」
また、笑い声。
聡子の声「(もう笑うしかない)ははははははは」
医者1の声「さあ、空っぽだ」
医者2の声「すっからかんだ」
聡子の笑い声がえんえんとこだまして…、
からからいう、車輪の音。
聡子の声「何、この音。ベッドについた車輪の音?」
沈黙。
がちゃん、ごとん、といった重い音がする。
聡子の声「この音は何?」
間。
聡子の声「どこに置かれてるの?」
間。
読経が聞こえる。
聡子の声「お経? お経? なんでお経よむの。あたしは死んでない。あたしは死んでない。あたしは生きてる。生きて考えてる。助けて。助けて」
ぶちっと読経が途切れる。
聡子の声「何?」
間。
聡子の声「今度は、何かあるの」
焼き場の係員の声「おい、このへんにしておこうぜ。あとがつかえてる」
聡子の声「何、お経も録音だったの?」
がらがらがら、とお棺が焼き場に入れられる音がする。
聡子の声「(自問自答する)そんなこと気にしてる場合か」
ぼんっ、という火がつく音。
聡子の声「何、火がついたの」
ごうごういう炎の音。
ぱちぱち木がはぜる音。
聡子の声「ちょっと、焼ける、あたしの体が焼けるうっ」
じゅうじゅういう肉がやける音。
フラッシュで炎、焼ける肉。
聡子の声「ぎゃああああああああ」
それをかき消すくらい炎と不協和音が高まって…
○ 病室
慶子がベッドに寝ている。
慶子「ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
その身体の上に、べったりと明美がはりついている。
「ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ」
だんだんうめき声が大きくなる。
慶子「ウウウウウウウウウ」
窓際のベッドから「(たまりかねたような)すみません」
うめき声はやまない。
声「(声を大きくして)すみません」
うめき声が止まる。
声「ナースコールを押してみたら、いかがですか」
「ウウウウウウウウウ」
うめいているのは、聡子だ。
明美同様、べったりと慶子を上から押さえ込んでいる。
また、うめき声が一段と大きくなって再開する。
慶子、身動きできない。
聡子に目がいってしまう。
慶子と目が合った聡子、にったあ、とすごい顔で笑う。
(終)
本ホームページ
登場人物 飯沢聡子 20代前半 足のケガで病院に新しく入院した患者
瀬川明美 〃 ナース?
慶子 〃 後から入院してくる患者
医者1(声だけの出演)
医者2(声だけの出演)
焼き場の係員(声だけの出演)
病院の各所(ラフに撮られたモノクロのざらついた静止写真 以下同じ)にかぶさり、
聡子のN「病院…、そこではどこよりも多くの人間が生まれ、どこよりも多くの人間が死ぬ」
古いビル。
N「私は東京で小さな出版社に勤めている。ずっと忙しくて休みもとれなかったけれど、やっと久しぶりの休暇をとって、女の一人旅としゃれこんだ」
車の走っている道路。
N「予定も立てずにぶらっと足の向くまま気のむくままに歩き回るつもりだった。小さな名も知らない駅で途中下車して」
商店街。
N「駅前をぶらついた後」
裏道。
N「狭い裏道に入って歩いてまわり、角を曲がろうとしたところ、一台のトラックがむりやり割り込んできた」
トラックのヘッドライトのアップ。
聡子の顔。
激痛でゆがんだ顔。
N「何が起こったのか、しばらくわからなかった」
救急車のサイレン。
T「内輪差」
N「小学校で習ったナイリンサ、という言葉の意味が十年以上経った今、やっとわかった」
トラックのタイヤのアップ。
N「四輪車がカーブするとき、後輪は前輪より内側を回る。だから前輪をよけても同じところに立っていると後輪に轢かれることがあるから気をつけなさいと、先生に教わった。その通りになった」
タイヤに轢かれかけている足。
N「トラックは、人の足を踏んだことにも気づかなかったのだろう。そのまま走り去った」
救急車。
病院の救急口。
トレーチャー。
N「都会暮らしに慣れてきたはずの私が、ちょっと田舎に入ってこんな交通事故に会うなんて、思いもよらなかった」
画面、F・Oする。
N「どういう治療を受けたのか、よく覚えていない。気がつくと、病院のベッドに上にいた」
○ 病室・大部屋・昼
その片隅、窓際のベッドに入院衣姿で横になっている聡子。
白衣を着た明美が、話しかけてくる。
明美「目がさめましたか」
聡子「ここは…」
明美「病院です」
聡子「病院…(まだぼんやりしている)」
明美「そうです」
聡子「なんで病院に」
明美「足にケガしたんですよ」
聡子「(記憶を探って)そうだ、あの車に踏んづけられたんだ」
明美「あの車って、どの車ですか」
聡子「あのトラック…、しまった、覚えてない」
明美「何を」
聡子「車のナンバー。踏んづけて、そのまま行っちゃった」
明美「仕方ありませんね」
聡子「警察に届けないと」
明美「どんな車か覚えてますか」
聡子「いいえ、よく。すぐ鼻先を通ったと思ったら、いきなり激痛が走ったものだから」
明美「では、届けても望みありませんね」
聡子「そんな…」
明美、近くのキャビネットの引き出しを開け閉めして、
明美「貴重品はここにまとめてあります。今日は、診察は終わりです。詳しいことはあしたから」
ナースコールのボタンを示して、
明美「何かあったら、これを押して下さい。私は瀬川です。瀬川明美」
と、立って隣の患者のところに行く。
隣の患者はぐるりをカーテンで仕切っていて、中の様子はまったく見えない。
明美の声「…はい、大丈夫ですよ。隣に人が入ったけれど、気になりませんね。調子は…まあまあ」
患者の声はさっぱり聞こえない。
聡子、テレビを見ようとするが、つかない。
引き出しを開けて、財布や携帯を出して確かめる。
聡子のN「そうだ、会社に連絡しないと」
携帯をかけてみる。
「…この携帯は、電波の届かないところにあるか、電源が切ってあるため、かかりません…」
聡子、けげんな顔をする。
隣のカーテンの中から明美が出てくる。
明美「病院内では、携帯は禁止です」
聡子「はい」
と、急いで引き出しにしまう。
明美、身を翻して去る。
聡子「あの」
と、声をかけるが、聞こえないのかさっさと出て行く。
聡子、仕方なくベッドの上でおとなしく横になっている。
N「私はやっと落ち着いて、自分の身の回りを見渡した」
大部屋だが、聡子と隣の患者の二つのベッドしか埋まっていない。
N「なんでまた、他にいくらも開いているのにこんなにくっつけて寝かせているんだろう。不思議に思った」
寝ている聡子。
N「ベッドの上でいろいろ考えているうちに、いくつもわからないことが頭にわいてきた。旅先だったから私は保険証を持っていない。もちろんこの病院の受信票も持っていない。それから入院のための書類も書いた覚えがない。なんですんなり入院できたのだろう。急患だったから受け入れたのだとしても、書類くらいは書かせるはずだ。免許証は持っていたから、身元はわかるのだし。それから課長の携帯は電源を切っていても留守録につながるはずで、すると電波が届かないのは、こちらの携帯ということになる。電波が届かないのに、携帯禁止?」
間。
N「私はどんなケガなのか。どんな処置をしたのか。誰が処置したのか。どれくらいで治るのか。何もわからない」
間。
N「そうだ、この病院の名前、なんというんだろう」
タイトル
○ 病室・夜
横になっている聡子と、相変わらずカーテンを巡らしたままにしている隣の患者。
ともに明かりはつけている。
「ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
変なうめき声が、隣から聞こえてくる。
聡子、いやな顔をする。
「ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ」
だんだんうめき声が大きくなる。
聡子。
「ウウウウウウウウウ」
聡子、がまんできなくなってきて、
「すみません」
うめき声はやまない。
「(声を大きくして)すみません」
うめき声が止まる。
聡子「ナースコールを押してみたら、いかがですか」
答えは、ない。
聡子「もし」
「ウウウウウウウウウ」
また、うめき声が一段と大きくなって再開する。
聡子、たまらず自分のナースコールを押す。
「ウウウウウウウウウ」
えんえんとうめき声が続く。
聡子、(早く来てくれ)という顔で待っているが、一向にナースは来ない。
聡子「何やってんのよ」
またコールするが、まだ来ない。
聡子「(たまらず、隣に声をはげまして)あの、すみません」
「ウウウウウウウウウ」
聡子「どうしました」
「ウウウウウウウウウ」
聡子「何かできることありますか」
突然、ぴたりとうめき声が止まる。
聡子「(どうしたのだろう)」
隣から女の声「あの」
聡子「はい」
隣の女の声「大変申し訳ないのですが」
聡子「はい」
隣の女の声「少し、私の話を聞いていただけないでしょうか」
苦痛のあとなどまったくない、落ち着いたしゃべり方。
聡子「(戸惑いながらも)ええ、いいですよ」
隣の女の声「すみません、顔も見せないで」
聡子「いえ」
隣の女の声「でも、見ない方がいいんです」
聡子「はあ」
隣の女の声「夫のせいなんです」
聡子「はあ」
隣の女の声「何もかも、夫のせいなんです」
聡子「…」
隣の女の声「夫のタケシが私をこんなにしてしまったんです」
聡子「…」
隣の女の声「タケシは、あたしをぶちます。何度もぶちます。朝もぶちます。昼もぶちます。夜もぶちます。夜中でも、叩き起こしてぶちます。手でぶちます。足で蹴ります。掃除機の棒でぶちます。ポットの中のお湯をかけます。風呂の中のお湯に頭を沈めます。玄関のドアの間に手を入れておいて、思い切り閉めます。足の甲を思い切り踏みつけます」
聞いている聡子、顔がひきつってくる。
隣の女の声「それから、思い切りあたしをののしります。顔が悪い。頭が悪い。スタイルが悪い。性格が悪い。いつもろくな服を着ていない。不潔だ。臭い。そう言って、あたしに唾を吐きかけます。おまえには生きている価値がないと言います。死んでしまえと言います。死んでも誰も悲しまないと言います。あたしが死んだら、墓の上で踊ってやると言います」
聡子「(おそるおそる)あの…」
隣の女の声「(構わず)傷だらけになって血まみれになると、『血を出すな。汚らしい』と怒鳴ります。顔が腫れて膨れ上がると、『醜い』とののしります」
聡子「あの、警察を呼んだらいかがでしょう」
隣の女の声「それからあたしの親を罵倒します。あたしの母親のしつけが悪いから、こんな出来の悪い娘ができたんだと言います。おまえの父親は本当の父親ではないと言います。おまえの母親は公衆便所だから、誰の子供だかわかりゃしないと言います」
聡子「(懸命になって)ちょっと、ひどすぎませんか。絶対警察に言うべきです。あるいは公の対策センターとかあるはずです」
ぷつりと隣の女の声が止まる。
聡子、耳をすましている。
何の音もしない。
聡子「あの…」
答え、なし。
聡子「もしもし」
隣から女の声「あの」
聡子「はい」
隣の女の声「大変申し訳ないのですが」
聡子「はい」
隣の女の声「少し、私の話を聞いていただけないでしょうか」
さっきと同じような何事もなかったようなしゃべり方。
聡子「(戸惑いながらも)ええ、いいですよ」
隣の女の声「すみません、顔も見せないで」
聡子「いえ(何か変だな)」
隣の女の声「でも、見ない方がいいんです」
聡子「…(前と同じことを言ってないか?)」
隣の女の声「夫のせいなんです」
聡子「はあ」
隣の女の声「何もかも、夫のせいなんです」
聡子「…」
隣の女の声「夫のタケルが私をこんなにしてしまったんです」
聡子「…タケル? タケシだったのでは」
隣の女の声「(まったく意に介さず)だからあたしはタケルをぶちます。何度もぶちます。朝もぶちます。昼もぶちます。夜もぶちます。夜中でも、叩き起こしてぶちます。手でぶちます。足で蹴ります。掃除機の棒でぶちます。ポットの中のお湯をかけます。風呂の中のお湯に頭を沈めます。玄関のドアの間に手を入れておいて、思い切り閉めます。足の甲を思い切り踏みつけます」
聞いている聡子、わけがわからない。
隣の女の声「それから、思い切りあたしはタケルののしります。顔が悪い。頭が悪い。スタイルが悪い。性格が悪い。いつもろくな服を着ていない。不潔だ。臭い。そう言って、タケルに唾を吐きかけます。タケルにおまえには生きている価値がないと言います。死んでしまえと言います。死んでも誰も悲しまないと言います。おまえが死んだら、墓の上で踊ってやると言います」
聡子「(おそるおそる)あの…」
隣の女の声「(構わず)傷だらけになって血まみれになると、『血を出すな。汚らしい』と怒鳴ります。顔が腫れて膨れ上がると、『醜い』とののしります」
聡子「あの、どちらが」
隣の女の声「それからタケルの親を罵倒します。タケルの母親のしつけが悪いから、こんな出来の悪い息子ができたんだと言います。タケルの父親は本当の父親ではないと言います。タケルの母親は公衆便所だから、誰の子供だかわかりゃしないと言います」
聡子「あの、わけがわかりません」
ぷつっと、また声が途切れる。
聡子、耳をすましている。
何の音もしない。
聡子「あの…」
答え、なし。
聡子「(よせばいいのに)もしもし」
隣の女の声「あなたのせいです」
聡子「は?」
隣の女の声「何もかも、あなたのせいです」
聡子「え…(わけがわからない)」
隣の女の声「あなたが私をこんなにしてしまったんです」
聡子「ちょっと」
隣の女の声「あなたは私に病気をうつした」
聡子「ちょっと、何をおっしゃるんですか」
隣の女の声「この病院、変だと思わない?」
聡子「え?」
隣の女の声「こんなにベッドが空いているのに、あなたとあたし、こんなにぴったりくっつけて寝かせて。こうやって、あたしに病気をうつそうとしているんだ。インフルエンザと、エイズと、それと癌と」
聡子「癌がうつるわけないでしょう。変なこと言うの、やめてください」
隣の女の声「そうやってあたしを殺そうとしているんだ」
聡子、憤然としてナースコールを押す。
だが、誰も来ない。
聡子「どうなってるの、誰か来てよ」
がちゃがちゃ押す。
隣の女の声「誰も来ないよ」
聡子、我慢できなくなって、むりやりベッドから這い出る。
包帯とギプスで固められた足をそろそろと床に下ろす。
激痛が走り、思わずうめき声が漏れる。
ケガしていない足を床に下ろし、なんとか一本足でけんけんしていこうとするが、踏ん張りがきかず転倒する。
悲鳴を上がる聡子。
それでも懸命になって床を這いずって出入り口に向かう。
隣の女の声「誰も来ない」
聡子、耳を貸さずに這っていく。
隣の女の声「(意味不明の絶叫)あーぁぁぁぁぁあ」
聡子、這う。
隣の女の声「あたしが死んでも、誰も来ない」
聡子。
隣の女の声「(絶叫が後ろから追いかけてくる)あたしなんか、死ねばいいっ」
聡子、振り返らないで、這う。
隣の女の声「死ぬんだっ」
聡子、少し逡巡する。
隣の女の声「死ぬんだっ」
聡子、這うのを停める。
隣の女の声「見ろっ、死んでやるっ」
聡子。
隣の女の声「(断末魔のような声)ぎゃああああああ」
聡子、思わず振り返ってしまう。
と、カーテンが中からのおびただしい量の血しぶきで真っ赤になる。
聡子、悲鳴を上げる。
そして、痛む足をひきずって出口に向かう。
やっと到着して、なんとか開けようと扉に手を伸ばす。
と、がらっと外から扉が開けられる。
見上げると、明美が上から見下ろしている。
明美「あら、だめじゃないですか。まだケガしたばかりなのに動き回ったりして」
聡子「(興奮して言葉にならない)あ、あの、隣の人が、死、し、し、しに」
明美「(意に介さず)はい、つかまって」
と、聡子を担ぎ上げるようにして立たせる。
その拍子にケガした足に力が加わり、
聡子「痛いっ!」
悲鳴を上げる。
明美「がまんして」
と、病室の奥に逆戻りしだす。
聡子「ちょっと」
慌てる。
が、振り向いて奥のベッドに近づくと、痛みの中でけげんな顔をする。
使われているベッドは窓際の聡子のだけで、カーテンが開けられて見ることができる隣のベッドには使われた形跡がない。
明美、ぐいぐいと聡子をひっぱって窓際のベッドに戻す。
聡子「さっきずいぶんナースコールを押したんですけど」
明美「あら、聞こえてすぐ来ましたけれど」
聡子「すぐ?」
明美「ええ」
明美、委細かまわず聡子をベッドに横にする。
聡子「いたっ」
明美「ごめんなさい(心がこもっていない)」
明美、聡子の脈をとったり、熱を測ったりする。
聡子「あの」
明美「はい」
聡子「この病院、他に患者さんいないんですか」
明美「いますよ。この病室だけたまたま空いているけれど」
聡子「でも、いくらなんでも静かすぎません?」
明美「夜ですからね」
聡子「あの、診ていただいてるの、何という先生ですか」
明美「飯沢先生です」
聡子「あら、あたしと同じ名前」
明美「…(何も言わない)」
聡子「(なんだか不安になる)」
明美「少し熱がありますね。お薬出しておきましょう」
と、席を外す。
聡子、隣のベッドを見る。
やはり、使われた形跡はまったくない。
見ているうちに吸い込まれそうになって、あわてて目をそらす。
明美が水と薬を持って戻ってくる。
明美「はい」
聡子「…(なんだか気味悪くて手を出さない)」
明美「飲んで」
聡子「これ、なんですか」
明美「ただの鎮静剤です」
聡子、やむなく飲む。
ごくっと鳴るノド。
明美「じゃ、ごゆっくり」
と、出て行く。
寝ている聡子。
のしかかってくるような沈黙の中、聡子の呼吸と心臓の鼓動だけが聞こえてくる。
聡子、薬が効いてきたのか、うとうとしてくる。
隣の女の声「(聞こえてくる)「ローンは大阪との関係がもっとも親密で、正確に数えまして、コンスタントに亡くなる1970年まで総数は100回、コンセルトヘボウと豊島区役所にまとまった代金がかかっています」
聡子「?」
目を向けると、いつのまにかカーテンがまた巡らされている。
暗い中、隣の女の声だけが響く。
隣の女の声「(意味がだんだん壊れてくる)もちろん助かる、まだキャビネットに可能性が高い、いのさきのことしか考えてない、きょうあしたきょう、いじめるのが好き、らしきさの、防衛こそ最大のラジオ、百円ショップで売っている包丁で十分、マザコンの母親はチッコリー、心が安くなる、階段から落ちる、テントウムシテントウムシ、頭がぱっくりわれてたたんで串刺しにして、水たまりができてる、浸透性ならあんた誰、あのエスカレータはあなたの行く先には止まりません、エクスプラターナ、プフファぅーラは私の本名ではない」
聡子、もちろん意味がわからない。
隣の女の声「(ところどころ日本語らしきフレーズは入るが、まったく意味がわからない)いかにしてけわけはビンらでいんわとりにかしたかにけだすことができなかつたとにゆうんすがぜんぜんちがう、楽天むすうえるてなにしてたのよそうはていたれはよかつたいと、いせんしやーなりすとまとめたしょういんおおけいだよと」
聡子、気が変になってきそうになる。
聡子「(耳を押さえて叫ぶ)もうやめてっ」
隣の女の声「けけけけけけけけけ」
聡子、我慢できなくなり、身体を起こして、カーテンに手をかける。
隣の女の声、ぷつっと途切れる。
聡子、一瞬迷うが、思い切ってカーテンを開く。
隣のベッドの上には、誰もいない。
ふと見ると、隣のベッドの傍らのテーブルに、ムダ毛剃りに使うようなカミソリがぽつりと置かれている。
聡子、つい目が吸い寄せられてしまう。
頭を振って、目をそらす。
ふっ、と明かりが消える。
聡子「(小さく悲鳴をあげる)」
聡子、立ちすくんでいる。
突然、眠気が襲ってくる。
だんだんひどくなり、立っていられない。
どさっと自分のベッドに座り、横になる。
意識が遠のく。
その顔にすうっと明かりが当たる。
聡子、もやもやした意識の中、そうっと光の来た方を見る。
隣のベッドのまわりにまたカーテンがめぐらされ、その中から光がさしている。
聡子、眠気と懸命に戦うが、身体が思うように動かない。
カーテンに、人影が写る。
聡子「(悲鳴をあげようとするが、薬が効いているのか、声か思うように出ない)」
カーテンが中から開けられて…、
姿を現したのは、明美だ。
ただし、ナースではなく、患者の格好をしている。
聡子「(エッ)」
明美、カミソリを手にしている。
聡子の上にのしかかってくる。
ノドもとにカミソリを当てられそうになって。
聡子「(突然、悲鳴が出る)」
聡子の身体が動くようになって、懸命に明美のカミソリを持った手をつかんで防ぐ。
明美、体重をかけてカミソリを近づけてくる。
聡子、明美の手をねじるようにして反撃する。
「ギャッ」
聡子の顔に血しぶきがかかる。
明美の首にカミソリが刺さっている。
血を噴き出しながら、どうっと隣のベッドの上に倒れて動かなくなる明美。
聡子、また悲鳴をあげる。
ナースコールを押しかけて、はっと気づいて投げ捨てる。
聡子「どうしよう…、どうしよう…、どうし…」
興奮状態の中、また猛烈な眠気が襲ってくる。
聡子「眠いっ…なんで、こんな時に」
またベッドの上で横になる。
今度こそ、完全に意識がなくなる。
× ×
目をさます聡子(夜)。
ベッドの上で横たわっている。
顔に血のりの跡はない。
聡子の声「…夢か」
起き上がろうとして、身体が動かないのに気づく。
聡子の声「身体が…動かない…」
辛うじて動く目だけをめぐらして、周囲を見渡す。
カーテンがぐるりに巡らされている。
聡子の声「ここは、隣のベッドだ。なんでここに」
隣、つまり前の聡子がいた窓際のベッドから声がする。
明美「目がさめましたか」
窓際のベッドに、別の女(慶子)が寝かされている。
慶子「ここは…」
明美「病院です」
慶子「病院…(まだぼんやりしている)」
明美「そうです」
慶子「なんで病院に」
明美「覚えありませんか」
慶子「そう…、確か階段から落ちて…、誰かに押されて…」
明美「貴重品はここにまとめてあります」
慶子「どんな処置をしたんでしょう」
明美「今日は、診察は終わりです。詳しいことはあしたから。何かあったら、これを押して下さい。私は瀬川です。瀬川明美」
カーテンを開けて、明美が入ってくる。
聡子「!…」
明美、にっこり笑って、カミソリを取り出す。
どうするのかと思うと、傍らのテーブルに置いていって、カーテンをくぐって去る。
聡子、相変わらず身体が動かない。
その口から、勝手にうめき声が漏れる。
聡子「ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
聡子の内心の声「こんな声、あたし出してない」
聡子「ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ」
だんだんうめき声が大きくなる。
聡子の内心「止まれ、止まれっ」
聡子「ウウウウウウウウウ」
慶子「すみません」
うめき声はやまない。
慶子「(声を大きくして)すみません」
うめき声が止まる。
慶子「ナースコールを押してみたら、いかがですか」
答えは、ない。
慶子「もし」
聡子「ウウウウウウウウウ」
聡子の内心「いやだっ、あんなわけのわからないことをわめき散らかすのはいやだっ、あたしはまともよ。おかしくなんかない」
聡子「(うめき声はますます大きくなる)ウウウウウウウウウーッ」
慶子「あの、ナースコールを押したらいかがですか」
聡子「押しても、来ないんですよ」
ぽろっと普通に声が出た。
以下、カーテンを隔てての会話。
慶子「来ない? そんなことないでしょう」
聡子「あの看護婦は恐ろしい人なんです。いや、人ではないかもしれない」
慶子「え?」
聡子「そうです。人ではない。悪霊か、地縛霊か、とにかく恐ろしいものです」
慶子「(あ、こりゃ頭が変な人だわという顔)」
聡子「あたしは旅先で事故でケガしてこの病院に担ぎ込まれました。いや、あの事故からしてこの病院の陰謀だったかもしれない。とにかく担ぎ込まれたけれど、誰が手当てしたのかもわからず、わけのわからないまま、身動きもとれずに、この病室に閉じ込められたんです。隣にわけのわからない女がいる、この病室にです」
慶子「わけのわからない女?(それはあんただろ、と顔に書いてある)」
聡子「えんえんとわけのわからないことを言い続けるんです」
慶子「…」
聡子「あたしがそうだと言うんでしょう。でも違う。信じてください」
慶子「はい、はい」
言いながら、ナースコールを押している。
聡子「今、ナースコールを押しているでしょう」
慶子「(図星をさされ、ぎょっとする)」
聡子「図星みたいね。あたしの頭がおかしいと」。
慶子「…やめてもらえません?」
聡子「いいえ、あたしの言うことを聞いて。あたしの言うことを聞いて、一刻も早くこの病院を抜け出すの。そうしないと、恐ろしいことになる」
慶子「(気味悪くなってくる)」
聡子「あの看護婦は恐ろしい人なんです。いや、人ではないかもしれない。あたしは旅先で事故でケガしてこの病院に担ぎ込まれました(同じことを繰り返しているのに気づくが止められない)。いや、あの事故からしてこの病院の陰謀だったかもしれない。とにかく担ぎ込まれたけれど、誰が手当てしたのかもわからず、わけのわからないまま、身動きもとれずに、この病室に閉じ込められたんです。隣にわけのわからない女がいる、この病室にです」
慶子「(本気で怖くなってくる)」
聡子「すでにつしびょうるいがなんおいならかわのけれわにになと。巣でんたらわれめこじとにしつびょうのこ。にずれとも記号みまま、いならかわのけ輪ずらかわもかのたしてあてがれだ」
わけのわからないことを口からだらだらと垂れ流している聡子、自分の上にかけているシーツの中から明美が顔を出してくるのに気づく。
聡子「(総毛立つが、口は止まらない)。いなれしもかたっだぼうびょうのこてしらかこじのあやい。鷹峰しまれまこぎつかにいんびょうのこ。てし影でこじきさびたのいんびょう」
そろそろと立ち上がり、ばっとカーテンを開ける慶子。
慶子の目には、隣のベッドには誰もいないように見える。
慶子「?…どうなってるの」
傍らのテーブルの上も見る。
カミソリがなくなっている。
カーテンを閉じる慶子。
隣のベッドの上の聡子。
その手に、いつのまにかカミソリが握られている。
聡子の内心「(それに気づき)何これ、なんでこんなものを」
声はあわてているが、身体は関係なく起き上がり、カーテンに手をかける。
聡子の内心「違うっ、こんなことをしているのは、私じゃない」
ぼーっ、と背後で明かりがひとりでに点く。
ばっとカーテンを開ける聡子。
びっくりしてこっちを見ている慶子。
聡子の内心「(絶叫)違うぅぅぅぅぅぅ」
それとは裏腹に平然たる表情で慶子に襲いかかる聡子。
取っ組み合いになる二人。
聡子「ギャッ」
そのノドから、血がほとばしっている。
もぎとったカミソリを持って呆然としている慶子。
聡子「なんで、あたしが…」
倒れる。
× ×
真っ暗な画面。
聡子の声「ここはどこ」
真っ暗なまま。
聡子の声「ここはどこ」
ギイギイいう音。
聡子の声「ここは」
フラッシュで、明美の顔が一瞬浮かぶ。
が、すぐ真っ暗になる。
医者1の声「ご臨終です。午前二時十八分」
間。
聡子の声「ご臨終? 誰が?」
医者2の声「ところで、この仏さん、身元わからないんだよな」
聡子の声「何言ってるの、免許証だって持ってるでしょう」
医者1の声「冷凍室もいっぱいだしな」
聡子の声「ちょっと、死んだのあたし?」
医者2の声「ちょうど、ドナー用の死体が足りなくて困ってるんだけど、どうする」
医者1の声「いいね、使わせてもらおう」
医者2の声「ドナーカードなんて持ってるのか」
医者1の声「あるさ、ここに」
医者2の声「おお、あった、あった」
(F・I)
何も書かれていないドナーカードにどんどん丸がつけられていく。
医者1の声「全部、提供します、と」
(F・O)
医者2の声「ところで、死因は何にした」
医者1の声「失血死でいいんじゃないか」
心臓の画像のフラッシュ。
医者2の声「あれだけ血が出れば、死ぬよなあ」
医者1の声「掃除が大変だ」
医者2の声「俺たちがやるわけじゃないが」
二人の笑い声。
聡子の声「何がおかしいのっ」
かちゃかちゃ手術器具が触れ合う音。
医者1の声「目を開けて」
聡子の主観で、視界が明るくなる…が、何もかもピンボケでまともに見えない。
その霧の中から、尖ったものがぐぐっと近づいてくる。
メスだ。
医者1の声「(霧の向こうから聞こえてくる)では、まず角膜からいただこう」
聡子の声「ちょっと、何、これ、いやっ」
メスがカメラ=目に刺さる。
聡子の声「(悲鳴、絶叫)」
画面、暗くなる。
医者2の声「では、もう一つもいただこう」
また、画面が明るくなるが、ピンボケのまま。
再びメスが迫ってくる。
聡子の声「あたしは生きてるっ、生きてるっ、目が、目がっ」
メスが目を抉る。
画面がまた暗くなる。
聡子の声「ぁぁぁぁぁぁぁ」
正気を失ったような響き。
医者1の声「では、ホルモンもいただきますか」
医者2の声「あいよっ」
フラッシュ、光るメス。
やはりフラッシュ、血のついたメス。
聡子の声に異様な不協和音が混ざってくる。
ざくざく肉を切り分ける音。
聡子の声「何、この音。あたしの肉を切ってるの?」
医者1の声「肋骨、切りまーす。ノコギリ」
医者2の声「はい、ノコギリ」
フラッシュで、ノコギリが閃き、すぐ暗くなる。
ごりごり骨を切る音。
医者1の声「いっせいの」
医者2の声「せっ」
ぽきっと骨が折れる音。
聡子の声「あたしの、肋骨…」
医者1の声「丈夫な骨だな」
医者2の声「よく食べてたんだろう、このドナー」
医者1の声「昔は女は男より一本肋骨が少ないなんて言われてたんだよな」
医者2の声「少ないといいな、切る手間が省ける」
ぽきっとまた折れる音。
医者1の声「はい、もういっちょう」
医者2の声「はいっ」
また折れる音。
聡子の声「ちょっと、あたしの肋骨を折ってるのっ?」
医者1の声「いよいよ、心臓だ」
医者2の声「冷蔵ボックスの用意はいいな」
医者1の声「メス」
医者2の声「メス」
ごそごそ切る音。
医者1の声「はい、ハツいっちょう」
医者2の声「はい、ハツいっちょう」
ドナーカードの「心臓」の項目に丸がつけられる。
聡子の声「やめて、やめてえ」
医者1の声「はい、レバー」
医者2の声「はい、レバー」
ドナーカードの「肝臓」の項目に丸がつけられる。
医者1の声「はい、バサ」
医者2の声「はい、バサ」
ドナーカードの「肺」の項目に丸がつけられる。
医者1の声「はい、マメ」
医者2の声「はい、マメ」
「腎臓」の項目に丸がつけられる。
医者1の声「はい、タチギモ」
医者2の声「はい、タチギモ」
「脾臓」の項目に丸がつけられる。
医者1の声「はい、コプチャン」
医者2の声「はい、コプチャン」
「小腸」の項目に丸がつけられる。
医者1の声「いいねえ、若い子は」
医者2の声「新鮮そのものだ」
医者1の声「ぷりぷりしてる」
医者2の声「色もいい」
医者1の声「このドナー、外見もよかったんじゃないか」
医者2の声「内臓だって、外見のうちさ」
また、笑いあう医師たち。
医者1の声「警備の田中じいさんに見せない方がいいんじゃないか」
医者2の声「なんで」
医者1の声「結構、好みなんじゃないかと思ってさ」
医者2の声「爺さんの?」
医者1の声「そう」
医者2の声「中、空っぽになるからなあ。入れても、中が広すぎるんじゃないか」
医者1の声「あそこは取らないから、関係ないよ」
医者2の声「おまえがやるみたいじゃないか」
また、笑い声。
聡子の声「(もう笑うしかない)ははははははは」
医者1の声「さあ、空っぽだ」
医者2の声「すっからかんだ」
聡子の笑い声がえんえんとこだまして…、
からからいう、車輪の音。
聡子の声「何、この音。ベッドについた車輪の音?」
沈黙。
がちゃん、ごとん、といった重い音がする。
聡子の声「この音は何?」
間。
聡子の声「どこに置かれてるの?」
間。
読経が聞こえる。
聡子の声「お経? お経? なんでお経よむの。あたしは死んでない。あたしは死んでない。あたしは生きてる。生きて考えてる。助けて。助けて」
ぶちっと読経が途切れる。
聡子の声「何?」
間。
聡子の声「今度は、何かあるの」
焼き場の係員の声「おい、このへんにしておこうぜ。あとがつかえてる」
聡子の声「何、お経も録音だったの?」
がらがらがら、とお棺が焼き場に入れられる音がする。
聡子の声「(自問自答する)そんなこと気にしてる場合か」
ぼんっ、という火がつく音。
聡子の声「何、火がついたの」
ごうごういう炎の音。
ぱちぱち木がはぜる音。
聡子の声「ちょっと、焼ける、あたしの体が焼けるうっ」
じゅうじゅういう肉がやける音。
フラッシュで炎、焼ける肉。
聡子の声「ぎゃああああああああ」
それをかき消すくらい炎と不協和音が高まって…
○ 病室
慶子がベッドに寝ている。
慶子「ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
その身体の上に、べったりと明美がはりついている。
「ゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ」
だんだんうめき声が大きくなる。
慶子「ウウウウウウウウウ」
窓際のベッドから「(たまりかねたような)すみません」
うめき声はやまない。
声「(声を大きくして)すみません」
うめき声が止まる。
声「ナースコールを押してみたら、いかがですか」
「ウウウウウウウウウ」
うめいているのは、聡子だ。
明美同様、べったりと慶子を上から押さえ込んでいる。
また、うめき声が一段と大きくなって再開する。
慶子、身動きできない。
聡子に目がいってしまう。
慶子と目が合った聡子、にったあ、とすごい顔で笑う。
(終)
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