prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「人間失格 太宰治と3人の女たち」

2019年09月22日 | 映画
太宰伝「桜桃とキリスト」の著者でもある作家で映画評論家の長部日出雄が桜桃忌(太宰の命日)に集まった熱烈なファンたちが太宰がわかるのは自分だけだ、他の連中に何がわかるという顔であたりを睥睨していると聞いて、その情景が目に見えるような気がして吹き出した”と書いていて、実際自分も偏見か知らないが太宰というと熱烈なファンが取り囲んでいちげんさんお断りという雰囲気を醸し出している気がして、教科書に載っているような有名作を一通り読んでからあまりちゃんと読んだことはなかったのだが、浅野忠信主演、田中陽造脚本、根岸吉太郎監督の「ヴィヨンの妻」(これは太宰の複数の作品の要素を巧みに組み合わせている)を見たのをきっかけに読み直してみたら、なんだ普通におもしろいじゃないと思った。

長部氏の分析をさらに続けると太宰に熱心なファンがつきやすいのは、太宰が小説というフィクションを通して「演じている」「道化としての」自分を表現しているだけにかえって読者が自分にだけ向かって書かれていると自己投影しやすい、というのが原因ではないかとある。

実際、日本のいわゆる私小説(太宰は私小説などと断ってはいないと思うが、しばしばそうとられるし、この映画もその観点に立脚して作られている)にはフィクション、創作部分が相当に入っているのだが、で、この映画では太宰その人を主人公に据え、フィクションのフィルターを通す手順を飛ばしたものだから、とにかく三人の女に手を出してはおよそはっきりけじめをつけず甘え切っているクズっぷりがもうあまりにストレートで、ほとんど見ていていたたまれないような気分になる。

三人の女たちがそれぞれ見ている自分なりの(だから自分にとっては貴重な)太宰像の違いというのが出ていないから芯のクズぶりだけがむき出しになった感で、ちょっと見ていて引く。

蜷川実花の演出は例によって原色を多用した人工性の高い画作りをしていて、白い花が降ってきたり、家がひとりでにすうっと解体していくなど、舞台演出的な技法をCG交じりで使っていて、祭りに合わせてどどんと太鼓が鳴ると画面が真っ赤になるところなど「サスペリア」かと思うくらいだが、父親の蜷川幸雄が使いそうな技法と見た方が本当だろう。
正直、こういう技法は映画でやっても舞台ほどには決まらない。

蜷川幸雄が映画の演出、特に古典では成功せず、「青の炎」が二宮和也と松浦亜弥という若い主演者、さらにアル中親父に山本寛斎という意表をついたキャスティングを生かして普通にリアルな調子でやっていたのが一番良かったのを思い出した。

日本ではヴィスコンティやベルイマンみたいに舞台演出と映画の演出の両方で一流という人はなぜいないのだろうとある演劇関係者が言っていたが同感で(むしろ演劇人はテレビでは成功することが多い)




9月21日のつぶやき

2019年09月22日 | Weblog

「みとりし」(スバル座ラストショー)

2019年09月21日 | 映画

 看取り士といっても馴染みがなくて、ホスピスや終末医療とどう違うのだろうと思っていたのだが、初めて榎木孝明の主人公が早死にした友人野墓参りで看取り士と会って興味を持つところでぽんと十年とんで当人が看取り士になって新人を受け入れるところになる。

普通、こういう馴染みのない世界を紹介する時は観客代行のキャラクターを立ててその目を通して見せていくことが多いし効果的でもあるのだが、そういう段階をとばしていきなり看取士たちのドラマになって、看取る側の立場から看取られる側を描くようなバランスになってしまう。

冒頭で看取り士は医療行為や身の回りの世話といった介護はしないが映画ではこの限りではないといった字幕が出るのだが、なおさらではどう違うのか、看取られる側で一人でもかまわないと思っている人は本当にいないのか、どういう事情で一人になったのか、家族がいても疎遠なのではないかなどなどいくらも事情やそこから発展するだろうドラマが考えられるので気になっていけない。看取られる側が主役になってそこからどう対応していくのか考えるのが本来の順序ではないか。

先日同じスバル座で見た「二宮金次郎」もそうだったが、榎木孝明が企画から噛んでいる。マジメ映画を成立させるには知名度とおそらく理解のある俳優の協力は大きいのだろう。

まだ締めくくりの特集上映はあるが、一般上映(夜の回は除く)としてはこの映画が最後。ふさわしいというべきだろう。




 

 

 

 

 


9月20日のつぶやき

2019年09月21日 | Weblog

「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝 ー永遠と自動手記人形ー」

2019年09月20日 | 映画

このところいちげんさんが見るのはハードルが高い劇場用映画というか劇場版映画が多くて、いちいち予習する余裕はないので困ってしまうのだが、細かい設定がわからなくても見ていて衝たれるものがあるのは確か。場内の雰囲気が通常と違っていた。

手紙や郵便という古式豊かなアイテムと手先が機械化している自動人形の混淆の不思議な感触。





9月19日のつぶやき

2019年09月20日 | Weblog

「影に抱かれて眠れ」

2019年09月19日 | 映画

画家が主人公のハードボイルドというのも珍しい。
ハードボイルドと決めつけることもないかもしれないが、北方謙三原作だし、可愛がっている若者が惚れた女の子を売春から脚抜けさせようとしたところから横浜で張り合っている二つの勢力の争いに巻き込まれる話だし、画のトーンや主演の加藤雅也(画家で二軒の飲み屋を経営していて女にモテモテで腕っぷしも強いという冗談みたいなキャラクター)の佇まい、クレイジーケンバンドの主題歌などもそれっぽい。

実のところ、複数の女絡みのエピソードがあまり有機的に交錯するでもなく、昨今の暴力団事情も影響してドンパチもない。素人の方が警察や人権団体や世間はこっちの味方だと居直ると暴力団の方もその場は引き下げるしかないという体たらく。となると暴力描写を見せ場にするには中途半端になるし、描写の細部のコクで見せるわけにもいかない。

作中の画の担当は佐伯京子とエンドタイトルに出る。ヒロインの一人がこの画の中に私がいると言うのだが、こういうセリフにふさわしい画を具体的に提示するのは難しい。そう言われるとそう思えるくらいで、ヒロインの背中に彫られる刺青というのもなんかピンと来ない。

出てくる女優さんたちがみんな綺麗なのだけれど、余貴美子以外はどれもあまり変わらなく見えて単調。

音楽が時々ピアソラみたいになる。





9月18日のつぶやき

2019年09月19日 | Weblog

「アス」

2019年09月18日 | 映画
パターンとするとジャック・フィニィの「盗まれた町」とその映画化とリメイク群にあたる。
つまりまったく姿形が同じ別のもう一人の人間が現れて本物と入れ替わるという話。

あれのドン・シーゲルによる最初の映画化(あと、フィリップ・カウフマン、アベル・フェラーラによるリメイクあり)は冷戦時代で主に朝鮮戦争で捕虜になったアメリカ兵が共産主義者による洗脳で人格が変わってしまうという体験がベースにあるというが、今回登場するドッペルゲンガーたちが赤い服を着ているというのはほとんどそのパロディがかっている。

ただその現象の理由づけが完全なSFではなく、かといって現実の延長というには思わせぶりではっきりせず、わからないのが気味悪い、怖い、暗示的な性能を生かしているというより、わからないなりにうまく形象化しきれていないのではないか。

後半の現象のスケールの広げ方が逃げ場がなくなって怖いというより風呂敷広げ過ぎて畳めなくなって絵空事がかって見えるのは、むしろ昔のホラーをなぞった感。

銃を使わないのはどういう意図だろうと思った。



9月17日のつぶやき

2019年09月18日 | Weblog

「荒野の誓い」

2019年09月17日 | 映画
原題はHostiles =「敵の、敵国の、敵意のある」

護送する軍人クリスチャン・ベールと護送される先住民の囚人ウェス・スチューディと白人の囚人ベン・フォスターが殺す側、殺される側という違いこそあれそれぞれウンデッド・ニーの虐殺の生き残りという設定がちらっとセリフで語られる。

「ラスト・サムライ」の冒頭でもちらっと描かれてオールグレン大尉 (トム・クルーズ)が酒に溺れる原因になっていた、この話の2年前の1890年に起きたアメリカ第七騎兵隊によるスー族の女子供病人老人を含む虐殺で、さらにカスター将軍の名前もセリフで出てくるが、その虐殺を行ったのがスー族とシャイアン族(とアラパホー族)の連合軍が壊滅させたカスター将軍下の騎兵隊の残党を含むという関係でもある。

背景として政治的な正しさや贖罪感といった要素を安易に入れ込む状況ではなく、映画は実際複雑な敵対関係を厳しく保ち続ける。
その中で主人公はよかれと思う選択をする余裕もないまま一定の選択をさぜるを得ず、そしてそのたびに死ななくていい無垢な人間が死んでいく。厳しい内容とタッチに粛然とする。

ウェス・ステューディの役はシャイアン族(スー族ではないので虐殺を辛うじて免れたということか、虐殺はシャイアン・クリークで行われた)で、ロザリンド・パイクの家族を殺したのはコマンチという違いがあるのを解説で知る。
なお、ステューディ自身はチェロキーで、「ジェロニモ」のジェロニモ役をつとめているが、ジェロニモはアパッチ族。

字幕で「インディアン」と出る場合と「先住民」と出るのと分けているが、どういう基準で訳し分けているのか再見する機会があったら確かめてみよう。なお、「酋長」という言葉は使わず「首長」で統一してある。
本当をいうとインディアンを言おうと先住民と言おうと、雑駁に一括りにすること自体が間違いで、部族によって言葉も風俗習慣も違うのできちんと区別するよう先住民たちに要求されているという。

日本人の高柳雅暢が撮影監督をつとめるのも話題。全体にカメラが前に出る撮り方はしていない分終盤の夕景がアクセントになる。

豪華キャストでティモシー・シャラメやスティーブン・ラングなどはあまり目立たないが、終盤を締めくくる憎まれ役スコット・ウィルソンが短い出番ながら遺作になった。



9月16日のつぶやき

2019年09月17日 | Weblog

「ラスト・ソルジャー」

2019年09月16日 | 映画
本格的時代劇、歴史劇でいわゆるジャッキー・チェン映画とは大きくイメージが違う。いや、とっくの昔にかつてのイメージを脱しているのだが、滅びゆく小国に殉じ貴種流離中の大国の主を助けるという役はいわゆる新中共派とみなされている現在ではなんだかキナ臭く見えて困る。




9月15日のつぶやき

2019年09月16日 | Weblog

「タロウのバカ」

2019年09月15日 | 映画
大森立嗣監督がデビュー作「ゲルマニウムの夜」より前に書いていたオリジナル脚本の映画化というが、初期作品に広く見られた閉塞感とその反動としての暴力性が、「日日是好日」のような穏やかな作品をくぐり抜けて再生した格好。

ただ銃を手にしたことがきっかけにして暴力が具体化するという話はもう類例が「銃」とか古くは「不良少年」もっと古くは「裸の十六才」などいくつもあって、ロシアンルーレットを含めていささかマンネリ化は否めない。

違う世界をくぐり抜けて新しい展開を見せた印象は薄く、タッチもしんねりむっつりして「ゲルマニウム」のような破壊力とか衝迫力といったものは薄い。