日々発見

日々新しい事に挑戦して・・・

日光へ 6

2018-06-16 19:43:28 | 国内旅行

5月20日(日)その1

今日の予定は足尾銅山観光と、古河掛水倶楽部見学。

先ずはたっぷりの朝食を取ってから・・・。

あっ、忘れた・・・デザートも。


全ておいしくいただいた後、今朝方まで降っていた雨で
舞い落ちた木々の葉が積もった車の上を簡単に拭き、
美しいヤマツツジや新緑の中、2台の車でホテルを出発。 


トロッコ電車に乗る前に「足尾銅山文化交流館」にお邪魔した。
ここでは、この銅山を世界遺産にしたいと、ボランティアの方達が
たくさんの資料を前に、説明をして下さった。

1610年、 足尾銅山は備前の国(岡山)の二人のお百姓さん
冶部、内蔵によって発見され、その翌年から
幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されたそうだ。

その後、江戸時代には寛永通宝が鋳造されたこともあり、
ピーク時で年間1200トンもの銅を産出していたが、
一時採掘量が極度に減少し、幕末から明治時代初期にかけては
ほぼ閉山状態になっていたらしい。

1877年に古河市兵衛が民営化された銅山の経営に着手。
数年間は全く成果が見られなかったが、
1881年に待望の有望鉱脈を発見。

その後、探鉱技術の進歩と富国強兵政策を背景に
急速な発展を遂げたという。

トロッコ電車に乗り、さあ出発!

あっという間に江戸時代に・・・

このような坑内の様子が人形によって展示され、
それは昭和の時代の近代的な作業状態まで続いていた。

戸外での作業も綿密に・・・

どの人形もほぼ等身大で、姿、着衣、筋肉、表情、
全てよく出来ており、当時の人達の苦労が伝わって来て、
私は息も、心も苦しかった。

こうして、20世紀の初頭には日本の銅産出量の40%ほどの
生産を上げるまでになったが、この裏で、足尾山地の樹木が
坑木・燃料の為に伐採され、掘り出した鉱石を製錬する工場から
排出される煙が大気汚染を引き起こし、のみならず、
水質、土壌の汚染をもたらし、いわゆる足尾鉱毒事件として
大きな政治事件となった。

その後、鉱毒予防工事や、渡良瀬川の改修工事なども行われたが、
鉱害よりも銅の生産を優先したり、技術の未熟さもあって、
被害は収まらず、1973年(昭和48年)
2月28日をもって採鉱を停止、
銅山発見以来360余年の銅山を閉じた、という。


中で働いていた方達、鉱害によって亡くなった方達、
恐らく
何万人もの尊い命の上に、今の私達は暮らしているのだ。

今日も貴重な経験をさせていただいた。

そして、この後、鉱都足尾の迎賓館、古河掛水倶楽部に向かう。 

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日光へ 5

2018-06-12 23:46:50 | 国内旅行

5月19日(土)その3

「日本の三名瀑って御存じですか。」
長岡さんが言われた。
「はい、那智の滝、袋田の滝、華厳の滝ですね。」
母が答えた。

幸運なことに、私も新婚旅行で那智の滝、家族で袋田の滝
そして、今回で2回目の華厳の滝、全て訪れている。

日光周辺には「日光四十八滝」と言われるほど、滝が多く、
その中でも知名度も迫力も抜群の華厳の滝、
エレベーターで滝壺の近くまで下りて、観瀑台の上から見る
97mの岩壁を流れ落ちる水の躍動は豪快だった。

肉眼でははっきり見える滝の流れが、丁度、太陽で逆光になり、
指の先で太陽を隠しながら撮ったが、残念な出来上がりになってしまった。
しかし、弾け飛ぶ水飛沫がそのすごさを表している・・・かな!

・・・と一人合点していたが、あまりにも出来が悪いので、
ネットから素晴らしい写真を拝借させていただいた。

太陽を避ければ、垂直に落ちた滝の下の流れや、
長年に渡って 水に削られた硬い岩盤の
美しい山肌をはっきり写すことが出来た。



不勉強の私は、今日初めて、
この滝は中禅寺湖から流れ落ちていることを知った。


そして、また車に戻り、その華厳の滝の生みの親?中禅寺湖へ。

「ここから見える男体山が一番美しいんですよ。」と長岡さん。

確かに、昨日、いろは坂を登り切ったロープウェイの駅
明智平から見た男体山は、台形のような山に見えた。
山の頂上の向こう側が、馬の背のようになっているそうだ。

晴天に恵まれ、運転手さんにも恵まれ、
良い所取りの一日が終わり、ホテル四季彩に帰着。
後は、温泉とおいしい夕飯を待つばかり!

    

後日、追加の写真アップ 

前菜  鰊山椒漬け 穴子ざく 桜水晶      お椀  桜海老真丈 人参 隠元 焼湯葉
    
ウドきんぴら ヒラメ真子

 鰹   ?                  向附け  生肴四点盛り あしらい一式

台の物  霜降り高原牛 豆乳しゃぶしゃぶ    揚げ物  湯葉カツ

蓋物  筍饅頭 若布 桜麩 白魚 木の芽    食事  料理長手打ち蕎麦 香の物

  チーズケーキ フルーツ

    あけちゃんに「もう、美味しそうなお料理ばっかり。」
と言われ、アップするのをやめようと思ったのだが、
数年後の私の思い出に、と そっとアップすることに・・・。ごめんね
 

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日光へ 4

2018-06-10 15:32:37 | 国内旅行

5月19日(土)その2

日光山輪王寺に向かう前に
長岡さんお薦めの蕎麦屋「深山茶屋」で昼食。

店内は古民家風の 雰囲気の良い広い店で、
御挨拶に出ていらっしゃった御店主によると、
蕎麦粉100%で、繋ぎは全く使っていないとのこと。
母と半分ずつ、とってもおいしくいただいた。


さて、世界遺産の中核の1つがこの日光山輪王寺。

 輪王寺は この後に行く日光二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)と共に、
奈良時代に山岳信仰の社寺として創建され、
東照宮より歴史は古く、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めたそうだ。

そして、この頃は山内の仏堂、神社、霊廟等を全て含めて
「日光山」と称し神仏習合の信仰が行われていたが、
明治初年の神仏分離令以降「二社一寺」が明確に分離され、
その為に、現在も一部の建物が東照宮、
輪王寺のどちらに属しているか決着していないそうだ。

例えば、先程行った鳴き竜の「薬師堂」(本地堂)も
未だに所属不確定とのこと。
焼失した後の再建の費用は、折半・・・?


次に向かったのは日光二荒山神社

1200年以上前、勝道上人が開いた日光山。
この二荒山神社は男体山(二荒山)を御神体として祀った古社で、
招福や縁結びの神、大己貴命(おおなむちのみこと)を祀っており、
現在は縁結びの御利益があるという評判らしく、
たくさんの二人連れや、中には着物を着たカップルも見かけた。



今更良い縁を願ってどうするのか・・・
ああ、なるほど、罪穢れを祓っているのね。
あの世に行くまでに、
つみやけがれをはらって極楽を目指す・・・?

ここで二社一寺の参拝を終え、華厳の滝へ!

う~~~ん、私はどうも信心不足のせいか、
いろいろ説明していただくのは嬉しいが、
最後に、必ず何かを買わせようとする仕掛けに
ガッカリ、ウンザリしたのは私だけだろうか。
 

コメント (6)
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日光へ 3

2018-06-07 00:24:18 | 国内旅行

5月19日(土) その1

10人乗りのタクシーは大きくてゆったり、
運転手さんは長岡さんという地元出身の優しい方だった。

今日は世界遺産「日光の社寺」巡り。

日光山内にある建造物群103棟(国宝9棟、
重要文化財94棟)とそれらの建造物群及び周辺の
自然環境が一体となって形成する文化的景観全てが
世界遺産に指定されているという。

東照宮の一番近くまで車で送っていただき、先ず記念の一枚。

少し歩くと、拝観券?売り場に長い行列が・・・。
海外からの観光客も多く、韓国、中国は言うに及ばず、
ヨーロッパや、アメリカの方達も大勢、
それに、小学生の修学旅行のグループも多く、
近くにいた子供達に聞くと「千葉県から来ました。」と答えてくれた。


 ようやく中に入ると、たくさんの素晴らしい建物が並んでいたが、
凡人の私は「三猿」の元へ。

重要文化財 神厩舎【しんきゅうしゃ】

建物の前には大勢の人達が群がっていたので、
建物全体の写真は撮りにくかったが、
ここは厩、すなわち、馬の世話をする所で、
初代神馬は徳川家康が関ヶ原の戦いの時に乗った馬
「立黒」(たちぐろ)で、
その後は代々将軍家より奉納されたという。

この建物の長押(なげし)上に施された浮彫画面が8枚あり、
この8枚で猿の一生が描かれており、ひいては
人の平和な一生の過ごし方を説いた物と言われている。

その一枚が有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」で
幼少期には悪事を🙈、🙉、🙊という教えで、
転じて、自分に不都合な事は
見ない、聞かない、言わない方がいい、という教えらしい。

その教えは知っていたが、厩の長押の上に他に7枚の猿達がいたなんて、
全く知らなかった。

他の建物が煌びやかな中で、妻の飾りと長押上の彫刻などの他は
彩色が施されていない境内唯一の素木造の建物だが、
それもそのはず、馬小屋なのだから。

世話をする役人が寝泊まりする
畳の部屋が
隅にあるだけの質素な建物なのに、

三猿の教えだけは日本のほとんどの人が知っている・・・

 あちこち見て、さてこれから陽明門へ。

母を気遣って、娘が横でサポート。
今日の為に購入したストックがあるから大丈夫!と、
数日前に高熱を出していたとも思えない足取りで、
先ずは背後に聳える陽明門へ。

陽明門は建物全体がおびただしい数の極彩色の彫刻で覆われ、
一日中見ていても飽きないということから
「日暮御門」と言われているそうだ。

門を入ると正面が唐門で、その先に本殿がある。【どちらも国宝指定】

唐門は江戸時代の参拝基準となっていた門で、
ここより先に昇殿出来る者は、
将軍に拝謁できる身分以上の幕臣や大名に限られていたそうだ。

世が世なら、私達は唐門の近くにさえ寄れない・・・

 
そろそろ疲れて来た。

残すは 伝説的な彫刻職人 左甚五郎作の「眠り猫」の木彫像と
薬師堂(本地堂とも呼ぶ)「鳴き竜 へ。



「眠り猫」は下の大きな看板がなければ
見過ごしてしまうほど小さくて、
しかも、この裏面には雀たちの木彫もあり、
この猫は寝ていると見せかけて、家康を守る為に、
いつでも飛び掛かれる姿勢をしているとか、
もう一説には、裏で雀が遊んでいても、
「猫も眠るほどの平和」を表しているという。

「鳴き竜」に関しては、
1961年に薬師堂(本地堂)が火災で焼失して、
その後復元したが、その時の音の復元に娘の恩師の恩師、
石井 聖光先生が尽力をされた、と娘から聞いた。

その研究論文があるからと、旅行後、娘がメールで送ってくれた。
しかし・・・私にはチンプンカンプン!

何はともあれ、「鳴き竜」の声を聞き満足!

この後、私達は車に戻り日光山輪王寺に向かう。 

たくさんのすばらしい建物や彫刻、
何十枚も写真に収めたが、文面が長くなるので割愛。

コメント (5)
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