5月20日(日)その1
今日の予定は足尾銅山観光と、古河掛水倶楽部見学。
先ずはたっぷりの朝食を取ってから・・・。
あっ、忘れた・・・デザートも。
全ておいしくいただいた後、今朝方まで降っていた雨で
舞い落ちた木々の葉が積もった車の上を簡単に拭き、
美しいヤマツツジや新緑の中、2台の車でホテルを出発。
トロッコ電車に乗る前に「足尾銅山文化交流館」にお邪魔した。
ここでは、この銅山を世界遺産にしたいと、ボランティアの方達が
たくさんの資料を前に、説明をして下さった。
1610年、 足尾銅山は備前の国(岡山)の二人のお百姓さん
冶部、内蔵によって発見され、その翌年から
幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されたそうだ。
その後、江戸時代には寛永通宝が鋳造されたこともあり、
ピーク時で年間1200トンもの銅を産出していたが、
一時採掘量が極度に減少し、幕末から明治時代初期にかけては
ほぼ閉山状態になっていたらしい。
1877年に古河市兵衛が民営化された銅山の経営に着手。
数年間は全く成果が見られなかったが、
1881年に待望の有望鉱脈を発見。
その後、探鉱技術の進歩と富国強兵政策を背景に
急速な発展を遂げたという。
トロッコ電車に乗り、さあ出発!
あっという間に江戸時代に・・・
このような坑内の様子が人形によって展示され、
それは昭和の時代の近代的な作業状態まで続いていた。
戸外での作業も綿密に・・・
どの人形もほぼ等身大で、姿、着衣、筋肉、表情、
全てよく出来ており、当時の人達の苦労が伝わって来て、
私は息も、心も苦しかった。
こうして、20世紀の初頭には日本の銅産出量の40%ほどの
生産を上げるまでになったが、この裏で、足尾山地の樹木が
坑木・燃料の為に伐採され、掘り出した鉱石を製錬する工場から
排出される煙が大気汚染を引き起こし、のみならず、
水質、土壌の汚染をもたらし、いわゆる足尾鉱毒事件として
大きな政治事件となった。
その後、鉱毒予防工事や、渡良瀬川の改修工事なども行われたが、
鉱害よりも銅の生産を優先したり、技術の未熟さもあって、
被害は収まらず、1973年(昭和48年)2月28日をもって採鉱を停止、
銅山発見以来360余年の銅山を閉じた、という。
中で働いていた方達、鉱害によって亡くなった方達、
恐らく何万人もの尊い命の上に、今の私達は暮らしているのだ。
今日も貴重な経験をさせていただいた。
そして、この後、鉱都足尾の迎賓館、古河掛水倶楽部に向かう。