蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

それぞれの歳末

2023-12-28 | 暮らし
さて、師走もあと少し。
歳末、デッドヒート。
気持ちだけ焦っている。
いつものことだが。

年末年始、自分たちの家で過ごしたことは今まで一度もない。
夫の実家で、行く年、来る年。
姑もいなくなり、誰もいない家に、別に行く義務はないのだが、必ず、お正月は夫の実家で迎える。
子供たちも夫の実家に集まる。
これは精神的なものだ。
こころの柱となる、今はなきイエ意識の名残か。
(ほとんどの方々には共感されない、理解されないと想像するが)
代々受け継いで行く気持ちがある。(子供たちは、ないかも知れないけれど)
子供たちも実家を離れ、核家族でそれぞれの別世帯の家で暮らしているが、年末年始は故郷。
子供の実家は、わたしの今の家になるが、わたしたちの実家は、親の実家。
ルーツである、これは動かない。
新しく枝葉は分かれるが、一本の幹の部分に集結する。
「故郷の家に来てね」と子供たちには言わないが、暗黙の了解になっている。
自然に集まる。
わたしたちの代の後は、長男にだけ義務を押し付けることなく、子供たちが話し合って、どうにかすることだろう。
気持ちもさることながら、労力もお金も必要になる。
余裕があるかどうか。

わたしの母方実家は、長男、次男が次々他界し、彼らには子供がいなかったため、今は、三男とその息子が、管理している。
この世から消え去る家やモノ、制度もあるが、首の皮ひとつでどうにか繋がっている。
わたしの父方実家も、どうにか引き継いでくれる見通しが立った。
父方、祖母の実家も健在。
地元のみならず、東京や名古屋に就職しても、定年後、実家に戻ってくる子供さんたちもいる。
いわゆるUターン。
郷土愛なのか、地元愛なのか、家族愛なのか、愛着なのか、、、?
地方の考え方なんだろうか。
何人かそういう人を知っている。
都市部ではあまりそういう人とはお知り合いにならない。
価値観は人によって違う。
ではあるものの、年老いた親を介護のため同居したり、通ったりしている年配の人もいる。
老老介護。
故郷に帰る、などという想いはないように想像する。
切羽詰まった状況。
毎日毎日を必死で生きる。
あるいは、楽しみながら生きる。
それぞれの人生。

スマホと格闘

2023-12-17 | 暮らし
大手デパートのポイントの交換有効期限、締め切りが迫っている。
前は紙製の金券(商品券)で、有効期限もなく、お金と同じでニコニコだったのだが、交換出来る紙製金券は廃止され電子ポイント制になった。
しかも有効期限付き。
どんどん毎日、食材を買う度にポイントを貯めて行ったのは良いが、使い方がわからない。
四苦八苦して調べると、その大手デパートでの購入商品に限り、専用クレジットカード決済の時だけしか使えないようだ。
2000円単位ごと、2000円以上での購入で使える。お釣りは出ない。
それは紙の時と同じなので、何の問題もないのだが、問題は使い方。
ぼやぼやしていると失効する。

わたしは、最近、2000円以上の買い物をデパートでしない。
一年に一回ぐらい、4000円ぐらいはするかも知れない。
だが、それでは期限が切れるし、期限が来るポイント金額に満たない。
仕方ないので、無いアタマを捻り、大きな金額でデパートで買うものは何かないか??と考えたところ、お節料理!という考えに至った。

そこから、アタマかちんこちんのアナログ人間の苦闘が始まった。
以前にスイスイ鼻歌で、そのデパートで同じくお節料理をネット購入したことがある。
なので、今回も楽勝だろうとタカを括っていた。
ポイントは普通にデパートの購入商品に、そのデパートのカード決済で使えるのだが、先述した通り、デパートではわたしは5000円以上は使わない傾向。
ということで、オンライン決済でしか使わないということになるのだが、ポイントをオンライン決済用に移行する手続きが必要。
それはどうにか、交換するのに日にちは少しかかるがクリア。
さて、問題のお節料理の注文に取り掛かると、「待った!」が、かかった。
前回にはなかった、「待った!」である。
カード決済なりすまし防止のため、決済の度に本人確認が必要。
カード会社から確認のワンタイムパスワード(数字)が予め登録した方法で送られ、10分以内にそのワンタイムパスワードを送信しなければ、決済出来ない。
しかし、そのワンタイムパスワードが待てど暮らせど着かない。
延々とスマホでネット内で考えられる限りあの手この手を探り、繰り返しやっていた。
カード会社の本人認証のサイトをうろうろ行ったり来たり。
本当にうろうろ。
何度も、登録しなおしたり、別の方向から試みたり。
一日置いて、アタマを冷やす。
が、次の日も同じ。
お節料理の注文締切は迫り、希望する商品は売り切れになったり、配達日時が制限されたり、焦る一方。

WEBデパート相談コーナーにメールで質問したり、示された番号に電話をかけたり。
チャット相談は常につながらないから仕方なく。
デパートオンラインサイトの窓口に電話したり、カード会社に電話をかけ、やっと解決した。
ネット内での試行錯誤でクタクタになった。
最後は白旗を掲げての、電話相談。
結局は自分でしたネット注文は最初とは変わらず、ワンタイムパスワードが届き無事に注文出来たのだが。

わたしのメール受信に何らかの理由で制限がかかっていたことが原因だった。
そのカード会社からのワンタイムパスワードだけが、迷惑メールフィルターがかかるせいで、届かなかったようだ。
今まで、どんなところからのワンタイムパスワードも迷惑メールには入らなかった。
なんで???
常に取り巻くシステム事情は変わるようだ。
前はこれで行けた、同じ方法のはずだとか、いつも方法は同じはずだとか、不変、普遍を信じていては、全く話にならない。
常に変わることを前提として覚悟して取り掛からないと、動かない。
特に、この方法!!一本槍!!と頭から信じて疑わないような、そういう石頭では絶対にダメ。
目の前の一直線しか見ないで、1ミリでも左右にズレるともう視界に入らない。
そういう自分の柔軟性のない思い込みは、どうしようもないので、相談口に相談したほうが早い。
先入観、頭から思い込んでいるために見えないせいで、すぽっと抜け落ちている部分を一から見直す作業は、他人の冷静な目を借りないと、自分の思い込みの目ではズブズブ沼に落ち込む。
一旦リセットしないと、なかなか脱出出来ない。

「システムが2023年11月から変わりました」なんていうのもあり、日々、変わって行くので安心できない。
更新を余儀なくされる。
日頃、スピーディに処理しないことに慣れていると、アタフタもたもたする。
時間の余裕を持って行わなければ、上手くいかない。
お手上げ、おまかせ、丸投げ、にならないよう、まだ、わたしは抵抗している。
インターネット注文出来ない自分なんて、想像したくない。
インターネットはある意味、わたしの命綱でもある。

が、そのうち、試行錯誤が面倒になるときっと丸投げするのだろう。
浮世、俗世間のこんなストレスにはまるで無縁な人もいて、羨ましいかぎりだ。
わたしは、まだ生臭い。
ではあるものの、生乾きで、役にも立たない。
しがみついている見苦しい自分を感じる。

とは言え、年末、気になっていたことが無事通過出来、とてもスッキリした。


なぜ、家の中では何もすることがないのか

2023-11-27 | 暮らし
裕さん!
ブログ開設50周年記念、ぜひ、やりましょう。
その中にはブーツさんあたりも入っていて。
みんな、(歯が無くて)ふがふが、車椅子か、寝たり起きたり。
わたしはほとんどブーツさんとは、やり取りをしたことがないけれど。
別のブロガーさん、、、ブログ村・年代別「60代」カテゴリーで一時期ご一緒した、赤いアイコンの方とは、とても長い。
わたしは当時50代だったが、気持ちとしては60代だったので「60代」カテゴリーに登録していた。
年齢詐称、サバ読み(ただし、若いほうにではなく、歳を取っているほうに)。
そのブロガーさんは「60代」カテゴリーにおられたが、やがて「70代」カテゴリーへと移られた。
もうじき「80代」カテゴリーに移行されると予想する。
裕さんより長いかも??
わたしは、ずーっと同じブログタイトルで愚直にブログを続けているが、10年ひと昔、いや、10年も1年もそう変わらない。
ブログの内容はほぼほぼ一緒で変わらない。
よくまあ飽きもせず。たいしたネタもなく。
変化がないということは、成長も退化もないということにしておこう。


さて。
話は相変わらずころっと変わる。
わたしが娘家族とのイベント行動を軸として、生活が回っているというのに対し、
子供が独立した今では、家族がらみイベントはなく、何もすることがないというAさん。
(男親と息子家庭。女親と娘家庭。この関係性にも大きな違いがあるが)
女性は家族やご近所さんと密接に関わることがあるけれど、男性はそういうわけにはいかない、とAさんが言う。
仕事一本槍で、(ただし、仕事関係の人や地でアフター・ワークも過ごす)、家に居る時間が短い分、子供との関わりや、地縁を活かすほど、地域での活動経験がないと思われる。
子供はやがて独立するが、家庭のつながりは主に「食」「子育て」を担当していた母親との距離が近い。

仕事で家庭にいない、昔の父親は、影が薄い。
更にもっともっと昔の父親は、頑固親父、カミナリ親父で手に負えない。
今のシニアは、男女役割、ジェンダー意識の移行期、時代の移り変わり、狭間にある。
というか、意識は昔のまんまで、時代の推移には全く付いていけない。
女性は、喜んで時代の波を受け入れるが、男性は、嫌がる。
男性は仕事、女性は家庭。
この動かない絶対的固定役割を手放さない。
ではあるものの、家庭外で働いた経験のない女性の中には、女性が稼いで家庭経済を担うことを期待されると困る人もいるだろう。
しかしもうリタイアしたら、男性も女性も収入は年金などで、夫も妻も一緒くた合算になっている。

男性の意識は、昔のまま。オトコは家の外、オンナは家の中。
だが、介護、看護が必要になると、オトコだオンナだ、と、そんなことは言えなくなって来る。
元気な側と、サポートする側。
でも、老老介護。大変。

わたしは、今は、その老老介護の時期の一つ手前である。
男性も女性も身体が動く間に、そして相方の介護をしなくていい間に、好きなことをしておかねば、、、
焦る人もいるが。
その介護されない、介護しない、黄金の時期をAさんは、スポーツ三昧。
家の中では何もすることがないと言う。
Aさんの奥さんはインドア派だから、夫が外出好きであれば喜ばしいと思われる。
2人別々に外出もオッケー。
2人がそれぞれ同時に家に居る時が重苦しい空気になることがある。
夫殿は、家庭関係やご近所関係の人付き合いがないから余計に自宅やその周辺ではすることがない。
インドア派ではないから尚更。
奥さんは、家庭がらみの関係で色々することがある。
さらに、インドア派なら家の中は最高の寛ぎ自由時間。
趣味の時間でもある。
家では何もすることがないのは、たまたまAさんが、スポーツ好きだったからか?
そうとも言えない。
家事を嫌い、家の用事も好きではないか、家庭内を牛耳っている奥さんに、煙たがられているのかも。
家といっても色々あり、一概に言えない。
なんか、結論がスッキリしない。

あ、今、頭に浮かんだことがある。
Aさんは、身体を動かすのは好きだが、脳を動かすのはあまり好きではない。
家の中ではスポーツ出来ないし、さらに脳内では何も考えないので、何もすることがなく退屈なのだ。
Aさんは、実践面ではよくご存知だが、思考面は真っ白で、驚くほど何も知らない。
いつも同じ疑問を投げかけてきて、自分で調べたり考えたりする気がない。
解決の糸口を見つけようとしない。
そういう傾向があるため、身体を動かすこと以外は何も考えつかない。

家庭やご近所、家事がどうのこうの、ではない。
身体と脳の構造、性格から来る、心理、行動傾向である。
家に居るとなぜAさんは何もすることがないのだろう?と疑問に思っていたが、今、新たに(勝手な憶測で)導かれた結論に、納得し、頷き、わたしはちょっとスッキリした。

どうでもいいことでも、わたしは疑問を覚えると、なぜなのか、理由を解明したくなる傾向がある。


記録と記憶

2023-11-15 | 暮らし
コメントをいただくと、なんだか嬉しいわたしです。
それでいいんだよ、と背中を押していただいたような、安心するような、暖かい気持ちになります。
(まるで初々しい悩み多き若人のよう)
いつも蝶ブログに来ていただいている方にも、とても励まされているような思いがします。
ありがとうございます。
その割に、打って変わって、自己チューのブログ内容ですみません。
営業活動が苦手で、うまくやれません。
引っ込み思案と自己チュー性格も禍いして、あれもこれも、は、どうも心もフットワークも重いです。
お礼とお詫び、舌の根も乾かぬうちに、いつものモードに戻ります。

さて。
今日も楽しく日が過ぎた。
別にこれということはないのだけど。
いつもの趣味仲間の人、Aさん(70代)と、練習後に軽く飲んだ。
この人、知り合ったのは、2年半前。
一緒に練習するようになったのは、1年半前。
1年の空白期間はあるものの、1年半前から全然変わらない。
態度も行動も、言っていることも変わらない。
旅行などの同じエピソードを何回も聞いている。
気分が高じると楽しかったことを人に話したくなるのだろう。
傾聴の精神で聴くが、Aさんはリラックスしているのだと感じる。
何度も同じ話を聴く鍛錬は、姑で何十年も修行を積んでいる。

わたしだって、書きたいことは、何度も何度も同じことを延々と長年、綴っている。
同じようなものだ。
ただ、わたしは面と向かって話す場合は1回限りを心得る。
(娘に、「何回も聞いた」と言われると、結構、グサっと来る)
相手によっては、2〜3回もあり得る、が、表現を少し変える場合がある。

ちなみに、わたしは、行動記録を記している。
感想などは一切ない、出来事、あったことの忘備録。
5年連記なので、スペースが小さいこともあり、私情やコメントまで書けない。
Aさんは、そんな記録日記は必要ないと言う。 
「本でも出すの?」と。
本は出さないけれど、自分の行動を、いつしたか、誰としたか、どんな内容だったか、忘れるから書きとめておく。
詳しく正確にはとても覚えていない。
当時の出来事もチェックすると、忘れていたことを思い出すのに役立つ。

Aさんは、忘れても何の問題もないと言う。
確かに、一理ある。
キッチリ覚えている必要性はない。
すっかり忘れても大丈夫。
仕事をしていない今では、何も誰にも迷惑をかけない。
だが、わたしは、自分の行動が闇の中に消えてしまうことを恐れる。
あれは、いつだった?
と、思い出したい。
一旦、記憶が消えてしまうと、2度と検証できない。
自分の記憶力は、いい加減であることを自分が一番よく知っている。
撮った写真を引っ張り出して、日にちを割り出すことも可能だが、メンドクサイ。
わたしは、ブログに書いたりする時に、自分の行動を振り返ることが結構ある。
いつだっけ?何年前?
と。
記憶力だけにはとても頼れない。
自分の成長や変化、衰えを検証するには、記録はわたしにとっては、必要不可欠である。

が、わたしはわたし。個人によって違う。
Aさんのように、いつだったか全然正確に覚える必要がないというのは納得出来る。
今が大事であり、過去は消していく。
勝手に消えて、印象に残るものだけが残る。
ではあるものの、わたしは、個人的に性質として、記憶が曖昧だと気になるだけだ。
わたしは、過去の積み重ねこそが自分の生きる糧になっている。
Aさんもそうだろうけれど、自分のことを人に話したりしないし、文章にしない人は、別にどうでも良いのだろう。意味がないし、必要がない。
本当に人それぞれだ。
わたしはAさんの過去に興味があるわけでもないし。
正確なことを知りたいわけでもないし。
聞き出そうにも、もはや闇の中だが。
Aさんは毎日が日曜日だし、今後の予定もほぼ今の延長。
病院で受診する時に自分の既往履歴だけ、覚えていたらそれで良い。
今を生きる人はそれで良いのだろう。
(わたしは、こだわるが)
執着心がないのだろう。

それにしても、過去の正確な出来事が消えて行くことに対して、よく不安にならないものたと感心する。
まさに、人は人。どれも、正解である。

ちなみに、姑は10年連記日誌を記していた。
家の行事の実践記録。
日時、場所、人物、費用、内容。
舅は、誰が見てもわかるようにノートに項目毎に分け、キッチリ綺麗な字で表にして、租税や行政的な内容の記録をしていた。
そのノートを見れば、家のことは大概わかる。
想い、主観は全く感じられない、客観的なものである。
舅の性格と仕事柄、事務的作業はお手のもの。

姑Aの上の姑Bは、過去に行動録を書いていて、B没後、姑Aがそれを読んで気分を害したと姑Aが言っていた。
なので、人に読まれることを念頭に私情は一切入れない記録にしたとのこと。
それ、とてもよくわかる。
ただし、過去の人物の名言を書いたものは遺してある。

わたしの蝶ブログは、将来のある日には、閉鎖、抹消したい。
宇宙のゴミになる?
指が動くその瞬間まで書き続けそうなので、娘に事後抹消処理をお願いしたい。


 

終活なんか何も無い

2023-11-09 | 暮らし
ある人、Bさん(70代男性、趣味仲間)に終活について聞いてみた。

彼の返事は、
「終活なんかする必要ある?
いったい、何をするの?」

全く思い浮かばないようだった。

「例えば、自分がいなくなった後の事態に備えて申し送り事項とか、大事なもの、ことを伝えるとか、、、
後の人が困るだろうから、要らないものを処分するとか、
いくらでもありますやん」

そんなものは無いそうだ。
隠し口座とか、隠し子とか、無いらしい。
(隠し子はいないと思うが、隠し口座の一つや二つはあるはず)

「では自分の介護費用は?」
「妻や子供がいるじゃないか」
葬儀費用は家族葬が増えて、さほど要らなくなったが、自分の介護費用もさることながら、妻を介護することもありえるのだが、、、。
全く考えたことがないとか。
アスリート体質の健康的な方である。

住んでいる家も、子供に分割するとなると、遺った人がまだ住んでいたら真っ二つに割るわけにはいかないし、、、
だが、何から何まで、一つも微塵も考えたことがなく、これから考えようという気もなさそうだった。

彼が言うには、大半の人はそんなことを考えなくても、うまくすんなり行くとのこと。
先祖から伝わるものがあるわけじゃなし。
自分で築いた遺すものがあるわけじゃなし。
身一つ。
子供にかかる費用も負担してきたし、もう何の義務もない。
なんにも終活する材料がないらしい。

ところで。
奥さんの趣味は絵を描くこと。
一日中、四六時中、365日、絵を描いているわけではないだろうから、「何しておられるんですか?」と聞くと、「知らん」との答え。
Bさんはいつも体育会系で出歩いて家に居ないので、おそらく、全くご存知ないだろう。
それはそれで、調整が取れていると思う。

「世の中の無職、リタイア高齢の方々は、いったい何しているのか、すごく興味があります」
と聞くと、
「何かしている人なんかほとんどいない。
皆んな、何にもしてない。それが普通だ」
と、なんとスッキリした答え。

「しかし、何もしないのは苦痛ではないですかね?」と疑問をぶつけると、
「普通の人は何もしていない。それが普通だ」
と同じ答え。
問答にならないので、この話題を終えた。

彼の言う「普通」は、自分の周りの人々を基準にしている。
周りの人々は、人によって違うから、自分の周りの人が自分と違う場合は、周りが普通ではない、となる。
自分が普通であって、自分の周り以外は普通ではない。
じつに、わかりやすい。
そういう話を聞くと、(面と向かって口に出して言わないが)わたしは普通ではないのだと再認識する。


海外ニュースは全く映画を見ているかの捉え方。
平和な国に暮らす典型的な日本人だと感じる。
かと言って、理解を深めたとしても、何が出来るわけでもないが。
中途半端な知識や感情、思考なら、元々備わっていない方がマシ。
自分はどう関わるかである。
無意識、無関係、無関心も、一つのスタンスである。

趣味関係の事柄で、わたしが俯瞰的な観察状況を言うと、とても驚くBさん。
自分がどっぷり釜の中に浸かっていると、見えないことはたくさんある。
だが、見えるからといって、それだけだ。
活動方針やプランを立てる指針になれば良いが。




モノのやりとり

2023-09-13 | 暮らし
自分だけのために何か買ったモノはあるか?
衣類や小物類は別として、食べ物に関しては、必要に迫られて、コンビニでオニギリ、だとか、食パンだとか、そういう類のものは買う。
その他は、家族用として買う。
(自分の分はそれらを流用)
あるいは、頂いたモノ。
一人で外食は滅多にしない。
ソフトクリームぐらい。
時間調整にドトールコーヒーぐらいか。
ということは、わたしは、あまり食に関して思い入れがないようだ。
逆に、頂きモノを、いかに消費するか、という闘いになる。
賞味期限に追いかけられる、迫ってくる感じである。
食品ロスは敵。
食べ物を捨てるなど、絶対にしたくない。
アウトになりそうだと、冷凍庫に放り込む。
が、しぶとくその後に食べ切る。

こう言うと、頂き物に追われる?何言ってるの?贅沢な!と不快な感情を抱かれるかも知れない。
だが、個人的やりとりにおいても、その流れになる。
例えば、姑からいつも何かしら食べモノを頂いていた。
頂かないのはお金ぐらいなものである。
(→じつに余計なことを書いている)

ちなみに、お誕生日にはお祝い金を頂いていたが、お正月にはその5倍の金額、長寿玉を差し上げていた。(→これまた余計なことを、、、)
姑は、孫たち(外孫も)にも、お年玉をあげるので手元には残らないとは思うが。


日本では、お金のことをネチネチくどくどケチケチ言うのは品が悪いとされる。
日常において何かにつけてお金の話を出すのは、美しくない、タブーだと。
ではあるものの、お金の話は悪とは決めつけず、小学校でも、株式やお金の仕組みを教える機会が生じているようだが。

姑とわたしに関して言えば、お金を差し上げて、差し上げた人の裁量や好みで現物に交換し、個人的物流として還元される仕組みが出来上がっていた。
そして、ありがとうございます、とわたしは頭を下げることになる。
自分では決して買わないであろうものを頂くわけだから、やはり、ありがとうございます、なのだろう。
べつに、皮肉や憎しみ、意地悪根性で言っているわけではない。

物流って面白い。
モノのやり取り。
初めてわたしが姑たちと会った時、これは、〇〇さんから、それは△△さんから、両手いっぱいの紙袋から次から次へと出される包装された銘菓や嗜好品の数々。
びっくりした。
すごい文化だと。

日頃のご無沙汰をモノのやりとりで補完するのか、と。
あなたのことを大切に思ってますよ、という気持ちをモノで表現する??
しかも、義理の関係の人々。
わたしは衝撃を受けた。
この文化を自分で理解して飲み込むには時間がかかった。
地域、風土、世代(年齢)、慣習によるものなのだろうかと推測した。
一昔前は、冠婚葬祭にかける、エネルギーがすごいのは、どこの地もそうだった。
今は、結婚式すらしないこともある。
葬儀も密葬、家族葬。
時代は移る。

話が逸れている。

わたしは、自発的に、能動的に、何かをしたいという気持ちが薄い。
そういう受け身タイプの人と、人に何かをしてあげるのが好きな人との組み合わせは、いつも、一方的な流れになる。
相手はお返しを期待していない。
こちらは、受ける一方。
が、不思議な均衡が保たれている。

だが、受け取るということは、暗黙の了解が含まれている。
やった〜、ラッキ〜、ではない。
受け取るからには、それなりの見返りは、わかっているだろうね、、、
何かあった時に、ぞんざいな対応は出来ないよね、の意味が含まれる。
一種の保険である。
お互いに。
掛け捨て保険も、度重なると終身保険になる。
純粋な気持ちなのに、何を言う?!おぞましい。
美しい心を疑うつもりか?
その心こそ、醜い。

が、仮に無意識で打算が働いていたとしても、自分の身を守る防衛を誰が非難できようか。
互助、助け合いの精神。

頂き物なんですが、到来品のお裾分けです、食べ助けお願いします、
と、純粋な気持ちで人様に差し上げると、もらってばかりでは心苦しいということで、なんらかのお返しがあることがある。
それがお互い重苦しくて重荷になり、次第にやり取りをやめるケースもある。
サジ加減が難しい。
見返りを得るのが目的ではなく、結果的に意図しない意外な見返りがあった、というのが理想だろう。

本音は見えないことがある。
大人のスマートな付き合いとして、配慮したり気遣ったり、相手を傷つけないで嫌な気持ちを抱かれないように上手く収める。
これは、わたしは不得意である。
が、長く生きて来ると、いろんなケースがあり、いろんな思惑があり、いろんな人がいることがわかる。
如才ない人は、苦労した結果、身についたものなのだろうか。

※写真は先月、駅で撮ったもの。
記事内容とは関係ありません。


横道に逸れる

2023-09-08 | 暮らし
昨日から別の小説を読みはじめた。
またまた古い作品。
山﨑豊子の「女系家族」。
令和の時代に「何を今更」的作品。
文庫本末ページには、昭和41年10月20日発行、昭和50年11月10日18刷と記されている。

その本は、2階にある元・長男の部屋の本棚からチョイスした。
元・長男の部屋は、わたしが今は寝室として使っている。
この部屋には横長のロフトがあり、天井が山小屋みたいに三角に尖り、ロフトの前には、まん丸の大きな、はめ込み窓がある。
まん丸窓から射す灯りは、太陽の自然光だったり、街灯だったり、大きさや形が変化する、家の前を通る自家用車のライトだったりする。
その明かりを下方から見る。
見なくても勝手に視界に入って来る。
2階は長男の部屋だけ、当時の長男の要望で畳敷きにしている。
勉強机を置いている床の面だけ、板張り。

そう書くと素敵そうなイメージだが、(気に入っていることは気に入っているが)エアコンがいつの日からか壊れている。
今年の猛暑も扇風機。
ちょっと前は、大きな団扇だった。
手動。ぱたぱた。
エネルギー源は電力でも風力でもなく、生身のわたし。
何時代に生きている人間なのだろう、わたし。

今年の記録的暑さは尋常ではなかった。
が、よくも倒れもせず(倒れたまま)、高温の、もあっとした部屋から朝になると生還出来たものだ。
帰宅時に閉め切った部屋の温度計は36°以上。
窓を開けてもさほど風は通らないし、室温もそう変わらない。
ではあるが、なぜか、この部屋で寝る。
というか、他の部屋で寝る気があまりしない。
一晩中エアコンをつけると、身体がだるいような気がするからだ。
床(畳)に直接、布団を敷くため、床すれすれの位置に身体を横たえる。
窓の開口部が床の位置まで来て、開いているので、外から微かに流れてくる風が、それより上からの空気よりほんの少しだけ冷気を帯びることがある。
わたしはなぜか、それが好きなのだ。
とは言うもの、酷暑には無駄な抵抗だったが。
朝まで、もわんもわんとした熱気に包まれたままということもある。
それを扇風機でかき回すだけ。
顔に、もわんもわんの風を当てる。
パジャマは汗だく。

元・長女の部屋も、元・次女の部屋も空いているが、2部屋ともベッドのため、床から少し高い状態で横になることになる。
第一、エアコンは同じく故障。
すでに選択肢に並べるには条件を満たしていない。
さらに、向きも、ベッドの頭側に窓があったり、ベッドが窓から離れていたりする。
それに対して、窓に面して身体全体を横たえることが出来る元・長男の部屋は、わたしの要望を満たしている。
微妙な好みがある。

この長い長い説明、動画なら一瞬。
写真や絵なら一瞬。
なんでこんなに文字を割いてわたしは書いているのだろう。
要約すると、
「エアコンが壊れている部屋で、開口部が床まである窓際に布団を敷いて寝ている」。
おしまい。

ちなみに、ここ2〜3日、涼しくなって大喜び。
また暑くなるにしても、あの酷暑、真っ只中ほどではないだろう。
と、本のことを書こうと思ったのに、延々と部屋の説明をしてしまった。

子供が、言いたいことの前に、そのことが起きる直前の話をずっと話し続けているようなもの。
買い物を言いつけられた子供が、道中で水たまりをまたいだ途端に、買い物の内容がアタマから飛ぶ。
いつも脇道に逸れる。
道草に夢中。
本題に取り掛かる頃には、すっかり日が暮れている。


もやもや

2023-09-07 | 暮らし
昨夜のNHK TV「クローズアップ現代」。
もやもやすることのススメだった。
これは、とても面白かった。
なぜなら、もやもやは、わたしそのものだったから。
あなた、それでいいんだよ、と言われているような気持ち。
タイムパフォーマンスが著しく悪く、何をするにもグズグス、何を聞いても、イエスともノーとも言わない、どっちなの?と、イライラされる。
答えや結論、選択が、即座に出てこない。
優柔不断の極め付け。

それでいいそうな。
番組で紹介されていた実験では、タイムパフォーマンスの良いグループと、もやもやグループに分かれて課題を出して比較した。
その結果、もやもやチームが良い結果を導き出した。
斬新なアイデアが次々に出た。
一方、タイムパフォーマンス・チームは、時間は早かったが、平凡な案で終わった。

これは、そのままビジネスに使える面もあるが、使えないこともある。
結果を出すのがビジネスだから。
結果はありません、さて何でしょう?では、成り立たない。
収益がなくて、どうやって社員に給料を払うのか。
公務員さんなら給料は税金からだから、また別だが。

ではあるが、人生やプライベートなジャンルなら、結果を出さないことが、「結果」ということもある。

結果を出さないまま、人生を送り続けている人を直に知っている。
社会にはもたれ掛からない、独自の生き方をされている。
結果を出さないスタイルがその人のスタイル。

時代によって、もてはやされる現象がある。
トレンドが変わる。
思考までも。
戦時中のモノのない時代から、大量生産・大量消費、やがて断捨離。
時代背景によって変わる。
モノを作って売れた時代、景気がよい時代と、売れなくなった時代、不景気な時代。
国際競争に勝ち進んでいた時代と、負け続ける時代。
産めよ増やせよから、少子高齢化。
将来、明治時代の人口、生活に戻ることもあり得なくはない。
軍需産業ではなく、農業が平和的。
食糧の自給率が低い日本。
国土が狭いこともあり輸入に頼る。
だが、外貨獲得の国際競争に勝てるのか、わたしは不安だ。

scrap and buildの究極は?
人類は繰り返している。
誰も止められない愚かなことを。


同じくNHK TVで、地方に移住した若者が、挫折する例を紹介していた。
個人主義の都会の若者のライフスタイルや考え方を地方にそのまま持ち運んでも、排他的、同調的な暮らしをしている地方の人々との調和が取れにくい。

外国人観光客は日本にお金を落としてくれるが、生活者としての外国人との摩擦は絶えない。
第一次産業だけでなく、サービス業にも外国人労働力に頼っている現状を垣間見る。
国内旅行をすると地方で外国人が働いているシーンに、よく出くわす。
旅行しなくても、地元のそこかしこで。
小学校も肌の色の違う生徒の姿もある。
人、モノ、情報のグローバル化が謳われて半世紀ぐらい経つ。
実際の出来事として、暮らしにその現実を感じる。
半世紀も経ってからやっと肌で感じるようになったわけだが、予告する学者が正しいことを言うとは限らない。
そして、自分がいる位置(ポジション、立場)にも大きく関係がある。
学者や経済界にいるのならわかる。
現場、先端でのビジネスマンはもちろん、たとえ末端だとしても景気や時代の雰囲気は感じるだろう。
わたしは政治経済は、とんとわからないので、動物的嗅覚である。
たんなる直感を繋ぎ合わせている。
一人の一つの感覚である。

頭が柔軟すぎる人、あるいは、カチンコチンの人は、洗脳されやすい。
わたしは、もやもや人間なので、なんでもかんでも疑ってかかる。
真実はどれ?
表面はこう見えるが、真実はどこに隠されている?
今はフェイクニュースも氾濫していて、わけがわからない、作る(流す)側と受ける側のイタチごっこのドロ沼となっている。
半世紀前、インターネットを含め、コンピュータの益々発展を予測していただろうけれど、AI生成の精度は上がるばかり。
企業人はさておき、一般人はどうやって自分の身を守ればよいのか。

一歩も部屋から出ない引きこもりウン十年であっても、刻一刻変化する世界事情を、部屋の中のコンピュータから覗くことが出来る。
攻撃することも出来る。(→犯罪)

SF映画で観たことは、今や現実。
現実には起こっていないこともあるが、起こって欲しくない。
行き過ぎには弊害がある。
むしろある意味、時代が逆戻りしてくれないかなあと思ったりする。(保守傾向は嫌なんだけど)
ただし、男尊女卑や差別、人権侵害の時代には二度と戻って欲しくない。

こうやって、いつも、もやもやしている。
もやもやしたまま、個人的に事態が好転した事例がぽつぽつ出てくると、喜びを実感しながら、もやもやで良かったんだ、と自分の道を肯定する材料が増える。
もちろん、全てが好転するわけではない。
ほぼほぼ思い通りにならないものと諦めていたら、その中で、少しでも望みが叶ったら儲けものだ。

体育会系とソリが合わない

2023-08-21 | 暮らし
男性と女性のおおまかな違いに、今朝、ふと気づいた。
例外や個人差はあると思うが。

女性は(わたしぐらいのリタイア年齢になると)、暮らしを楽しむことで日々、充実感を得る。
ものすごくお金がかかるわけではない。
何を食べようかな。
あ、そうだ。昨夜の残りもののカボチャ、ハムとチーズを乗せて焼こうか。
それとも、ミートソースを乗せようか。
一人で自分が食べる、本日のメニューを考える。
生協宅配の申し込み書も、ひとりでほっこり食べられる苺のかき氷、これを頼もう。
今日、帰宅してから食べられるように、宇治抹茶あんみつを解凍しておこう。
(食べることばかり)
何時間か後の楽しみがじわじわ押し寄せる。

好きな器や調度品、花や草木、香りの小物、、、脇役も勢揃い。
小さくなって着れなくなった衣類を手直ししたりして、気分を一新するとまた着れる日が来る。
誰に見せるわけでもなく、自分を楽しませてくれるモノ。
自分のこころの中を表現する絵も描いてみたい。
そう、知人Aに言うと、絵画教室に通わないとね、と反応。
べつに習いたいわけではない。人に見せたいわけではない。
発表会や展覧会に出したいわけではない。
自分独自の表現をしたい。
溢れるままにアウトプットをしたい。
だが、その知人Aは基本から習う路線を譲らない。
二人の話は平行線。
次第に語気を強めて行くわたしに、知人Aはヘキヘキ。
「アタマが痛くなってきた」と一言。
で、その話はお開き。
人それぞれ好みの問題で、建設的ではない話に必要以上に熱くなり、わたしも反省した。

実はこの知人A、、、アタマが柔らかそうでいいなあ、と、第一印象を受けた、、、が、カチンコチンだった。
見誤った。
まあそういうこともある。

そもそもわたしは体育会系の人間は苦手だ。
でもわたしが文系、インドア派なので、ほっておくと全く運動をしない。
老体に鞭打ち、健康寿命を維持するため、自分にハッパをかける意味でも、この、アタマカチンコチン体育会系人間と、運動している。
体育会系は、ほんとに困る。
わたしが「足が痛い、膝が痛い」と無理したくないそぶりを見せると、「絆創膏を貼ったらいいですよ」と、取り計らってくれない。
わざと悪いジョーク。聞き飽きた。
こんな人のペースに巻き込まれたら、健康寿命がかえって目減りする。
自分の身は自分で守らなければいけない。
なので、もうダメ、MAX限界、という一歩手前で音をあげることにしている。
ギリギリまで頑張ると、身体を壊しては意味がない。
根性なし、と罵られようが、わたしは健康寿命を第一優先的に考える。
旅行はもちろんのこと、日常生活にまで支障をきたすようなことにでもなったら大変。
生活の質が著しく低下する。
自己責任。
なので、自己鍛錬や自己向上などには目を瞑り、ひたすら防衛に回る。
自分はもう闘わない局面に来ている。

向上を忘れたら老いるだけだ、と、アンチエイジングで頑張っている人がいるが、それでストレスを溜めていたら、せっかくの黄金の健康寿命が泣く。
無茶はよくないが、何ごとも程々に。
それでは生きている意味がない、生きた屍だと嘆くボルテージの高い、何ごともやる気満々、全力投球の人は、頑張ってください。
人には人の道。
現役こそが生きる証、とパワフルに頑張る人もいる。
だがしかし、もう頑張らなくてもいいなんて、なんと幸せなことかと、わたしは思う。
生涯現役を望む太く短い短距離走タイプの男性脳と、細く長くの女性脳は違うかも知れない。
リタイアして、何をそんなにシャカリキに頑張るのか、わたしにはわからない。
逆に、一気に何もすることがなくなる人がいる。
退屈で死にそうになるらしい。
両極端。
間がない。

前述の体育会系知人A。
常に毎日、何かをしていないと落ち着かない様子。
筋力トレーニング、ボディ・エキソサイズ、ウォーキング、卓球、登山。
体力はあるようで、悪くはないが。
わたしとは足並みが揃わない。
フレイルは現実問題としてはまだ先だと感じているが、いずれ行く道。
今から対策(運動の習慣化、日常化)が大事でもある。
苦手でも少しぐらいは運動したほうがよさそう。
ただし、知人Aのペースには巻き込まれないつもりだ。

昭和亭主は達者で留守が良い

2023-08-20 | 暮らし
「仕事とアタシ、どっちが大事なの?」
こういって詰め寄る女性がいるとか。
昭和の時代に聞いたことがある。

「家事育児とボク、どっちが大事なの?」
自称、子供のなかで末子を平気で自認する、手のかかる夫。
さすがに、今時こんな夫がいたら、首を絞められるだろう。
ちなみに、不出来過ぎるわたし事でお恥ずかしいが、、、、
わたしの場合はそれに近かった。
昭和の夫は仕事オンリー。
家事、育児、教育は、妻まかせ。親まかせ。
でも、お金は家に入れていた。
入れないより、まだマシか。
家政婦代金、チャリ〜ン。
だが、暴力やギャンブル、女性、3拍子はしない。
(夫の麻雀の負け金【大金】を持って来いと言われ、わたしは車で現場まで走ったことはあるけれど)
昔の芸人みたいに、遊びは芸の肥やしだ、なんて堂々と主張するなら独身になってからどうぞ。
犯罪に手を染めなければ、人に迷惑をかけなければ、誰も止めやしない。

「誰のおかげでメシが食える?」
は、完全なモラハラNGワード。
今時、そんなことを言う人もいないだろうけれど。
仮に言われたら、答えは
「ワタシのおかげです」

40年近く前、子育て真っ最中、夫が帰宅すると憂鬱だった。
子供に手がかかるのに、夫に手を取られるからだ。
ワンオペ育児に、加えて夫の世話。
「夫が手伝ってくれる」の真逆。手助け加算プラスの逆で、マイナスしかない。
家に帰ってきて欲しくなかった。

時代は変わった。
変わらないのは夫だけ。
昔のままの価値観、感覚でいられると、言いようのない嫌悪感と絶望感に襲われる。
だが、相手の行動や中身を変えることは出来ない。
相手を替えることは出来ても。

再婚はあり得ない。(まだ離婚してないけれど)
誰かと一緒に暮らすのは嫌。(男性は嫌。女性も嫌)
台風や大雨の時は、同居人がいると心強いが。
よほど病気で弱って自立できなくなったら、毎朝、生存確認してくれる人となら暮らしてもいいか。 
それならセンサー付きロボットで充分。

弱い不甲斐ない自分を責めることはやめた。
わたしは生まれ変わった。
つるんと一枚、着ぐるみを脱いだ。
ゆで卵みたいに、すべすべつるつるしていたら良いが、シワシワ。
もう老後だし、仕事も家庭もリタイア。
卒業した。
親しい友達みたいな娘一家は、責任なく楽しいけれど。
わりと、清々しく気持ち良い。
坐禅もしないし、断捨離のDVDも買って勉強しないのに、無の境地。
どんなにガラクタゴミ屋敷でも、こころは断捨離済み。
辿り着くのは無常の世界。

毎日、つつがなく楽しく暮らしている。