蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

「快適」は自分で作る

2023-07-26 | 暮らし
肝に銘じたこと。
それは通勤時間帯に電車に乗らないこと。
わたしは既にリタイアしている高齢者だから、そういう要望を持ってもケシカランことはないと思う。
時間帯をずらすと良い。
これはベビー連れのママたちにも言える。
通勤の皆さんの神経のブレ方、ストレスは相当なものだと想像する。
なので、その波の中、渦の中に、自分の身を置かないのが防衛策。

朝夕を避けるなら、スケジュールを2日に分けなければならない。
1日で済まそうとするから、朝と夕方に移動時間が押しやられる。
朝ではなく午前遅めに出て、夕方前に帰る。
一つしか用事は出来ないが、まあ仕方ない。
ただし、日中は暑い。
全て良いようにはならない。

心身の事情にスケジュールを合わせることにする。
スケジュールに心身は合わせない。
無理はしない。
高齢者の特権である。

あれもこれも、ついでに一気にするのが、めんどくさがりのわたし流なのだが、言ってられない。
めんどくさくても、行動を分割する。
身体を優先する。
行動を身体に合わせると、こころも落ち着く。
無理がきかないなら、無理をしない。
それでよい。
若くないって、若さのノリで突っ走らない(突っ走れない)から、自由に自分で行動を設定できていいなあ。

自分が快適な状況を自分で作る。
電車に乗って、周りが学生さんや若い人ばかりに囲まれて小さくなったり、街ゆく人々の中でどうも自分の居場所はここではないと感じたりすると、自分が落ち着く場所を新たに探す。
やはり同世代が集まる場所のほうが安らげる。
と言っても病院の待合室ではない。

人に合わせるのは疲れる。
自分だけの快適の中に自分を置く。
他人に理解されなくてもよい。

自分が感じる「快適」も、時の移ろいによって変化する。
快適と感じる感覚に身を委ねると、幸福感に浸れる。
これは人それぞれ違うと思う。
「快適」に巡り合えると、すごく楽しい。

それと同様に「感動」というものがある。
最近、よく感動する。
すぐに涙腺がゆるむ、安物の涙。
でも、涙は癒し効果があるらしいから、良いのだ。



明日には明日の風

2023-06-30 | 暮らし
昭和は遠くになりにけり。

ChatGPTを使えば、もっと間違いない正確な文章を作れるだろうけれど、まだ着手していないので、正誤に自信が持てないままの文章を書いている。
使いこなせたら、変な文章ではない、さぞかし精製された熟練度アップの文章が書けることだろう。
スキルアップ間違いないだろうけれど、もはやわたしの文章ではなく、わたしの手を離れている。
それはそれで素晴らしいのだが。
イソップ物語の「酸っぱい葡萄」になっている。
出来ないのではなく、してないからだ、とすり替える、負け惜しみの言い訳。
しかし、これはわたしの人生スタンスでもある。
完成されないわたし。

と、冒頭の一行のせいで、いきなり、脱線。
文法や言い回しに自信がないというのはツラい。
昨日アップした記事、アップした瞬間にアピール記事にしたのだが、あらまあ内容が間違っていた。
有吉佐和子、1931年生まれを勘違いして「団塊の世代」と書いてしまっていて、慌てて訂正したが、もう、数人の方はお読みになった後。
まあそういうこともある。
わたしのブログは信用ならない。

さて、話を戻す。
昭和は隔世の感である。
昭和生まれ、昭和育ちの親に育てられ、自分もずっぽり昭和人間。
それはまあよい。
問題は、配偶者(夫)が、昭和カチカチ頭だということだ。
時代の流れには全く着いて行かない、着いて行けない。
時代の良い面は踏襲すべきだが、改革して欲しい意識面は、全くびくとも変化しない。
男尊女卑だったり、家父長制だったり、明治の流れをそのまま無意識に引き継いでいると思われる。
昔の、おボッチャマ。
昭和どころではなく、改革のしようがない。
なので、治らない傷口のごとく、当たらず触らず、そっとしている。
火薬庫には近寄らない。
負けるケンカはしない。
そもそも夫は自分が優位に立てるような人物を人生の伴侶に選んだ。
わたしは負け続けることが、生きる道。
その道を捨てることも出来るが、今はしない。
そのうち道は拓けると信じているから、余裕のスマイルだ。

第一、俯瞰的に宇宙規模で見ると、わたしの不幸は蟻より小さい。
それを不幸と呼ぶことさえ、憚られる。
世界中に不条理がまかり通っているが、誰も何も出来ない。
正論を唱えても通らない。
多くの悲劇がこの瞬間にも巻き起こっている。

ただ、世界中の悲劇は胸が痛いが、直接、関係ないと言えば関係ない。
一人一人の痛みを我がことのように深く強く感じ入りシェアしていたら、身体もこころもズタズタになる。
神経が持たない。病気になる。
それはそれで他人事だからと無関心になるのは良くないとしても、先ずは自分の快適な日常を確保するほうが第一。

ちなみに、体感温度や音、明るさの感覚の違いはどうしようもない。
暑い寒い、うるさい、明るすぎる、などなど、脳を通さない感覚的嗜好の、まさに文字どおり、温度差。
立派な人、崇高な人、慈愛に満ち溢れた素晴らしい尊敬できる人、であったとしても、私生活で同じプライベート空間を共有する室温の好みを常時、強制されると、ブチギレる。
一歩も歩み寄らず、だ。
戦禍の防空壕の中なら我慢もしよう。
緊張のあまり、それどころではない。
平和が訪れ(と言っても、未来永劫には保証はない)、平和ボケすると、室内での快適性権利の奪い。
時間や空間を工夫して、あまり一緒に過ごさなくなってやれやれ、ストレスは緩和されたと思いきや、たまに顔を合わせると、途端にストレスが襲ってくる。
これはもう末期症状ではないだろうか。
であるにもかかわらず、また事態は変化する。
それは、病気になって弱る時。
身心の苦痛や不安を取り省くことに全神経が集中され、暑い寒いどころではない。
その時は、互角に言い張り主張し合わない。
一歩も譲らず五分五分の元気な強気が、臨戦状態、火種の元だ。
力の均衡が崩れたら、意外に副作用として、逆に闘争が収まる。妥協、休戦。
自然な崩れ方か、力づくの強制的崩れ方か、それは誰も今の時点ではわからない。
勝ち負けは、意図して決着が付く場合もあるが、結果的に自然の成り行きで勝ち負けが決まることがある。
まあ、焦らず長い目でみよう。
まだまだ天国まで時間はたっぷりある。


雑念だらけ

2023-06-25 | 暮らし
昨日アップの求人記事。
あれ、危ないと思う。
募集しているのは、どこの誰かなんて、すぐわかってしまうわけで、、、。
いくら警備員を10人雇っても、空からの防衛は困難。
闇バイトの標的にもされかねない。
わざわざ身の危険をさらすなんて、どうなんだろう。

プロ料理人の条件は厳しい割には時給が安い、というWEB上の皆さんの声。
それに比べて、メイドさんの条件が一言も書かれていないのが不気味だという、これまたWEB上の声。
女中さん、お手伝いさん、メイドさん、、、呼び名も色々。
ハウスキーパーは、どうか?
ホームメーカー(家族)とは一線を画する(はず)。
他にも執事さんだとかも、いることだろう。
めんどくさそうな生活だ。
そういうのは、漫画の中だけで良さそう。
実際に体感したい人はリアルを味わうなら、行政が運営している公園や施設が、断然オススメ。
市民だと無料のところもある。
掃除や管理が行き届いて気持ち良い。
税金がこんな風に使われているのを身を持って知ると、とても嬉しい。
なんで、皆さん、あんまり利用しないのだろう?
平和すぎて、身近すぎて、便利すぎて、刺激がないからだろうか。
自分の広大な敷地の庭で蚊に刺されながら草を引くより、ずっと効率が良い。
固定資産税を払う側より、無料で堪能させていただくほうが、どれだけ楽しく清々しいか。
と、わたしは思うが、あまり世の中の多くの皆さんには思われないようなかんじだと想像する。
手入れをしてくださる方々、ありがとうございます、の気持ちで美しく、楽々、なんのお手伝いもせずにお庭を拝見している。
とは言え、庭の手入れもボランティアでやっているわけではないので(行政から賃金が支払われている)、お互い、ウィンウィンだ。


公共の公園に行くと老若男女が楽しんでおられるので、皆さん、利用しているとは思うけれど。
行く気がしない、出かける気持ちにならない、そういう精神状態が、実のところは問題なのだ。
気持ちがふさぐと自発的に何もする気にならない。
子供を産む気にならないのと同じ。(話が飛躍)
産んだ後の社会や自分の今後を考えると積極的にはなれない、、、それと同じかなと。
いくらお金をばら撒いたり施策を充実させても、家庭で協力してくれる人がいないと辛い。
かと言って、社会で子育てフォローしてくれるなら、シングルマザーでも大丈夫、心丈夫となるのは良いが、
子育てのために必死で夫婦間で努力して折り合いを付けて頑張らない可能性もある。
難しいところだ。

光と温度と栄養がないと植物は育たないように、ソフト、ハード両面、必要なのかと思う。
昔はこうだった、、、と、昔の話を出してくると、隔世の感があり、時代錯誤シーラカンス扱いされる。
が、行ったり来たり、時代の揺り戻しもある。
それより、今の生活、本当に100%満足しているかとそんなことはないわけで。
そもそも、100%満足などあり得ない。
足るを知る。
わたしも雑念を消すために自宅で坐禅しようかしらん。
だけど、足とお尻と腰が痛いから、坐禅はいたしません。

皆さん、どうしているのだろう

2023-06-19 | 暮らし
近所バス停からバスに乗る。
待っているのは、高齢の方。
バスの到着が遅い時、うんざりしていると、すでに乗っているのは高校生がいっぱい。
年齢に開きがある。

わたしと同世代の方はどんな行動をしているのだろう?
趣味で顔を合わせる人々は、推定年齢、5歳は上。
いつも同じ時刻に同じバス停から行きも帰りも同じ人は、20歳ぐらいの若い男性。
学生か?
バイトか?
活動時間が短い。
平日、日中、半日のみ。

わたしよりお年寄りはよく出会う。
若いか、わたしよりお年寄りか、どっちか。
働き盛りの女性に出くわすこともある。
わたしぐらいの年齢の人、本当に出逢わない。
外に出てない?
あるいは、もっと早い時間に家を出ている?
または、働いている?
どうも行動を掴みきれていない。

わたしと同世代、男性はまだ働いている。
女性がよくわからない。
年齢制限のない職種、職場で働いているのかも知れない。

中途半端な年齢なのか?
それとも行動時間、エリアが偏っているのか?
通勤、通学時間帯に電車に乗ると、浮く。
夜の酒場では、これまた浮く。
昼間のカフェ。行かないからわからない。
ウォーキングの会。わたしより確実に10歳は上。
とてつもなく、とことん地味な団体。
自分とドンピシャリ同じような年齢の人は、どこで何をしているのだろう???

わかった!!
わたしは最近、食材以外は買い物に行かないから、店で出逢う人々というカテゴリーがない。
デパートなんて、ここ数年行ってないし。
スーパーも電車を利用する外出に、駅に出た時に寄る店舗しか行かないし。
食材と日用品は、ほぼ生協宅配と100均ショップで間に合わせている。
使うお金は交通費がメイン。
他はクレジットカード払いと、口座引き落とし。
紙幣はほとんど姿を見ない。
使っている実感、感覚がない。
散財している感触はまるでない。

コロナ以後、引きこもりが苦痛ではなくなった。
というか、むしろ落ち着いて快適になっている。
ひょっとして、同世代の皆さん、介護していない人は、家でまったりしているのかも?
husbandさん(配偶者)が同じく空間にいて苦痛の人もいるかも知れないが。

わたしは、苦痛の時代を乗り越えた感がある。
人や状況は変化していく。

自分はやりたいようにする。
退屈で何もすることがないことはない。
自分と似たような人はあまりいないように思うので、同じ気持ちをシェアしたいと願わない。
自分のことを知って欲しいとは思うが、近い間柄だと近過ぎて妬んだり、妬まれたりする危惧がある。
首を突っ込み過ぎる。
遠く距離を取ると、それはそれで今更何も話したいこともない。
こういう人、実は多いのか、多くないのか。
実態はまるで、わからない。

わたしにとっての友人は、SNS上の人かも知れない。




イラつく

2023-06-13 | 暮らし
いろいろ、こころに傷を持ったまま、溜め込むことはある。
過去完了形なら良いが、まだこれからも続くとなると、傷が癒えることがない。
未来に続くと考えるだけで、絶望的な気になる。
そういう時は、わたしは解決出来ないまま、細切れに休憩する。
休憩しないと身が持たない。
対峙しない。
一旦、ほっとく。


話はころっと変わる。
政治家で、実は女優。
教師で、実は登山家。
美容師で、実はアスリート。
医師で、実は陶芸家。
お風呂屋で、実は絵本作家。

そういう、もう一つの意外な顔があると相乗効果があって楽しい。
主婦で実は○○、というのはよくある。
片方(主婦業)はわりと自由度が高い、個人の価値観がそれぞれで、評価基準があいまい。
両方ともが、ガチガチハードなものだと、両立は難しい。
引退してから、もう一方の趣味に本腰を入れることが多い。
が、不自由な環境の中で頑張って時間を作るからこそ、絞り出せるものがある。
人間って不思議だ。

わたしは、今は主婦もしていない、妻もしていない。
時々、主婦と妻をして、首の皮一枚でポジションに繋がっている。
なので、夫に「おかあさん」と呼ばれると、わたしはアンタの母親じゃない!と、なぜかムカついてしまう。
娘に「おかあさん」と呼ばれると、死ぬまでわたしは娘にとっては、「おかあさん」なので、べつに問題ない。
が、夫に、「おかあさん」と呼ばれる筋合いはない。
「おばあさん」とでも呼ぼうものなら、顔は鬼と化している。
なにぃ?だれが「おばあさん」なん?!
実際は、おばあさんなんだけど。
おばあさん以外の何ものでもないのだけれど。
言われる相手によって、こうも気分が変わるなんて、勝手きままなのだろう。
が、何かわからない黒いものが気分を悪くさせる。
言いがかりと、取られるだろうけれど、そういう気になるものは、抑えようがない。

孫までいるのに、なぜいつまでも、おかあさんなのか。
ムカついてムカついてしかたない。
娘たちは別のところに住んでいるのに、いったい誰のおかあさんなのか。
呼び名ひとつで、わたしはものすごく不機嫌のどん底に陥る。
この意識の違いは何なのか。
わたしが吐き気を催すほど不快になっているのに、夫はその状況を全く気づかず、気にも留めない。
さすがに、「おかあさん」て、何?それ?と、わたしは夫に言う時もあるが、いまだに「おかあさん」と夫は言う。
神経と感情の線をブチっと自分で断ち切って、もうどうでもよくなる。

ついでに、疑問に思うことがある。 
せっかく、娘一家、孫たちが来てくれているのに、夫は隣の部屋でTVを観る。
放送中のものならわからないでもないが、何十年も前から延々とやっているワンパターン時代劇の録画。
なにもわざわざ今、観なくても良いものを。
全く理解できない。
新婚当初から理解できないまま。
人の嗜好は、それぞれ。
押し付けたり、強制したりしなければ、それでよい。
期待しない。諦めている。

子育てが終わり、親を見送った後は、もう何もない。 
だが、そう言ってしまえばそれまでで、終わってしまう。
別に夫婦を終わらせたいわけではないので、積極的に喧嘩をしない。
日本人にはとても多いと思われる日本的夫婦である。
仲良くしようと努力も一応している。
今更、波風を立てても誰も幸せになれない。
個人と、個人が、同一空間にいる。
ただし、2人の過去は重なる。

どちらかが病気になったりして、助け合う事態が来ることもあり得る。
今は今。
そぉっと、毎日、つつがなく、いきたい。





時を楽しむ

2023-06-10 | 暮らし
最近、ご近所さんたちの高齢化が進んでいる。
先一昨日の夫スイス行方不明事件の方は90歳。 
個人情報漏れ漏れ苦手女性も90歳。
そして、他にもたくさんいる。

今日、バス停に向かって歩いていると、町内女性たちの井戸端会議。
一応、大きく会釈して通り過ぎようとすると、その中の最年長女性が言った。

「おばあさんの会議です」

なるほど、その通り。
わたしは、自分は若手だと実感した。
しかし、若手はまだわたしの子供世代や孫世代も控えている。
上から2番目、下から3番目。
これ、つい最近までのうちの家族構成図。
姑、我々、子供たち夫婦、孫たち。
4世代が同時進行している。
まさに社会の縮図。
税金の使い道、分配もそりゃあ難しいことだろう。

おばあさんたち、お元気だ。
つい最近まで(そんな気がするだけで、もっと前)、自治会で彼女たちは後方支援ながらも縁の下の力持ち的に仕事、役割をこなしていた。
当時はわたしは、現在の長女、次女世代、働き盛り。
自治会会議に子連れで参加していた若いお母さんも、あのベビーちゃんたちは大きくなって立派な大人になっている。
一世代一世代ずつ、順番に歳を取っている。

自治会掃除の日、バリバリ陣頭指揮を取っていた男性がいた。
長身。足りない用具を調達係にテキパキ指示していた、、、カッコイイなあ、、、
この方、じつは、わたしの長女が通っていた地元小学校の同級生のお父さん。
もちろん、お母さんも知っている。柔和な方。
カッコイイ人は、いつまでもカッコイイんだ、、、と、ほれぼれ。
わたしと同世代であることは間違いない。
まだまだイケているではないか、見捨てたものではない、と、へんに嬉しくなった。
まだ働ける年代。役に立つお年頃。
その上の、我々の親世代だって、まだまだ元気で、道で長々と立ち話しているんだし、、、。

今、わたしが住んでいる地域は、ほんの腰掛けのつもりだった。
本拠地は、嫁ぎ先の、県をまたいだ東隣の地。
わたしが生まれ育った地は現在の住所と西に隣接する県。
3つの地域を少しずつ西から東に移動したことになる。
今いる場所は、子供の教育と仕事のため、便宜上、家を設けた。
仮の住まいだという認識だった。
が、35年以上も経つと、住民の皆さんと同じ時間を過ごし、同じ時間分量、歳を重ね、感慨深いものがある。
そう言いつつ、隣の家には、メインのご夫婦以外に誰が住んでいるのか、家族の移り変わりを知らない。
お隣さんを初めて見た時は一番下の子供さんは小学生だったが、その後、3人のお子さんたちはどこの学校へ行き、どこに就職し、家族でどこで住んでいるのか知らない。
(下の娘さんが高校入学時に仕立てた学校の制服を、お隣さんが留守で預かったことがある。
どこの高校かそれでバレバレだったようで、奥さんが気にしてか、制服を渡した時、一言コメントされていた。
が、わたしは全く興味がなかったので、どこの高校か知らない。いまだに。)
が、車は常に数台停めてあるので、ご近所に住んでおられるのだろう。
情報通の町内の知人から、お隣さんの情報を得る。情報の逆輸入。
わたしは、あまり人の生活には首を突っ込まない主義。
うちの、やたら大きく伸び放題の木にも35年以上、お隣さんから一言の文句も言われないことには胸を撫で下ろしている。
いつ苦情を言われるかとヒヤヒヤしているが、もう限界!という頃には、必ず植木屋さんに伐採してもらっている。
どうせ切るなら早々に切って、スッキリさっぱりすれば気持ち良いものを、、、。
ちなみに、木が茂って隣家に迫っていることに関しては、かなり隣家は忍耐強いと思われる。
(もうそろそろ暑くならないうちに今月中には植木屋さんに連絡しなければ、、、)
両隣に関しては、何ごともトラブルなく今日まで来て、ほっとしている。

孫たちの運動会に行くと、孫たちの親たちも同じ小学校だったことを思い出させる学校伝統行事がある。
わたしは、地元出身ではないので何とも感じないが、娘は母校に子供たちを通わせ、運動場も教室も同じなので、ある意味、懐かしいと同時にこころが落ち着くのではないだろうか。
小学校の同級生も同じ町内に家族と住んでいるし、その子供たちも同じ学校に通っている。
なんだか、ほのぼの、ほんわかする。
中学、高校と進むにつれ、道は分かれていくことだろう。
が、また戻って来る場合もある。

そんなこんなで、一通り、やるべきことを終えると、仮の住まいがいつの間にか、本拠地になり、本拠地は別荘になった感がある。
中には、定年後、他の地に移住したりする人もいる。
選択肢は広がる。
出来る範囲なら何をしてもよい。自由。
そういう頃には気力も体力も衰えていることもあるだろう。
気力、体力があるうちに、したいことをする!
したいこと、そのものがない場合は??
そこまで面倒見れません。各人に任せます。
自分に問い、自分と対話していただきたい。
自分と対峙する機会を得ると、またその後の展開や感じ方も変わる。

時間の経過を振り返り、その結果(周りの人々やコト)が目の前に、毎日、同時進行で進んでいることに触れると、深い味わいを感じる。
例えそれが、単にご近所さんのお年寄り達を目にするだけだったとしても、時の移ろいを感じて楽しめる。
楽しい芽は、意外にどこにでもあるんだと、今更ながらの新発見に驚く。

都会の雑踏

2023-05-20 | 暮らし
わたしの趣味はインドアがほとんど。
いずれ動けなくなったら、外出出来なくなったら、その時に家の中で楽しもう、と、あえて取っておいている趣味がある。
それは、映画館での映画鑑賞。
今では新作でも半年もしない間にネット配信される。
自宅でパジャマのまま寝ながらでも鑑賞できる。
が、映画館にわざわざ足を運ぶのは、出不精のわたしに、自分でハッパをかけている。
わたしは出かけるのが億劫。
だが、出かけると都会ではいろんな人がいて刺激になる。
(最新の大都会は尚更、技術の発展に目を見張り、街が動く)
とは言うものの、わたしの楽しみはもう日頃の近辺の都会にはないなあと、しみじみ思ったりする。
都会に求めるものがない。
出会いやキラキラ、そんな人工的なものより、落ち着きや、安らぎ、親しみ、自然のほうが良い。
都会にいる年配の方々を見ても、なんだか場にしっくり合っていないように感じる。
(シニアでも働いている人は別として)
自分の居場所に、都会は適していないと感じる。
若い頃は憧れたが、また原点に戻る傾向か。

ではあるが、出不精で引きこもっているのも心身に良くない。
かといって、自主的にウォーキングするには熱意が足りない。
コロナ時は、全くどこにも出られず、何も出来なかったので、内から押し出されるようにウォーキングしたけれど。

というわけで、自宅映画は、弱った時のためにお取り置きしている。
読書は、最低限しかしない。(ほぼしない)
ここのところ急に理解力がかなり衰えているのを実感する。
好奇心も弱くなっている。
自然減か。

そのほかに、あと、弱った時用のお取り置き楽しみとして、縫い物がある。
チクチク手縫い。
ごく近所に洋裁教室があり、いずれ顔を出してみようと思っている。
先生はわたしより年上のよう。
はやく行かないと、先生が引退してしまう。
社交ダンスも40代の時、歳を取った時の趣味としていずれ始めようと思っていたが、なかなか重い腰が上がらず、結局、動き出したのは、49歳の時。40代ギリギリである。
そういう前例もあり、いずれ次の段階のために、し始めようと準備したいのは山々だが、気持ちだけ充満して、なかなか動かないのがわたし。

もっと歳を取ると、麻雀とかは出来るので、そういうのはしてもよいと、薄っすら考える。
夫も麻雀は打てるので、いずれ我々が更に高齢になれば我々より若い誰かに接待麻雀をしてもらおう。
だが、孫たちに教えるのは無理。
彼らの親たちも麻雀経験が無いし。

わたしの父が麻雀を始めたのは、わたしが中学生の頃。50歳ぐらい。
我々子供たちは、兄主導のもと、どんどん覚えていったが、父は苦戦していた。
あんなに頭脳明晰な父なのに、なんで覚えが悪いのだろう、と、当時中学生のわたしは不思議だった。
だが、家族相手に麻雀を覚えるのも悪くない。
わたしは下手で読みが浅く、チョンボもよくするが、中学の時からやっているので、今、この年齢から始めることと比べたら、とても良かったと思っている。
あくまでも家族麻雀だが。
麻雀ではないものの、今では小学生の孫に、頭脳プレイのトランプでは勝ったり負けたり負けたり、で、負けが多い。
あんまり、強くない。

母は一切、ゲームも読書もしない。
が、夢のあるものに接するのが好き。
頭の中だけではなく実際に形に表す、行動実践派。
頭脳派ではない。
掃除もピカピカに綺麗にして家や庭を整えていたが、ああわたしと言えば、、、(ため息)

皆んな、身体が動く限り、自分らしい生き方をしていたなあと思う。
わたしは身体を動かさないのが自分らしい生き方か、、、(ため息)
今、現在も気になる未処理タスク(マイナス事項)を抱えているのだが、今年いっぱいは手を付けず、来年あたりから動こうと考えている。
あくまでも考えているだけなので、じわじわ更にマイナスに傾くかも知れないが。

とあれこれ書いてみたが、まとめてみると、、、
わたしは都会より非都会派。脱都会。
(だが、山の中のぽつんと一軒家、自給自足暮らしには根性がなくて住めない)
観光地や古い街並みは好き。
今しか出来ないことをしたい。
好奇心が原動力なので、無理やり頑張らない。
好奇心が減少したとしても、静かに暮らしたい。
以上、今日の独り言でした。

※写真は旅先で見かけた素敵なお宅



眠い自分

2023-04-25 | 暮らし
最近はあまり自分が楽しみながらブログを書いていない。
つまり、ノッてない。

ところで、女性の一人暮らしは、男性に比べると楽しいかも知れない。
何を作って食べようかな、何を買って食べようかな、と、自分で出来る。
家の中を自分の好みに片付けたり、縫い物をしたり、掃除をしたり、好きなように出来る。
男性は家事をしてこなかった人が多いから、家に一人で居てもTVを見るぐらいしかすることがなくて退屈だろう。
生活を工夫して楽しむノウハウがない。

一人暮らしのシニア男性が3食手作り食事をSNSでアップしていて、美味しそう。
なかなかマメな人だ。
趣味は料理なんだそう。
趣味と実益を兼ねていて結構なことだ。

脳にだけ刺激を与え続けるのではなく、生活を楽しむことが出来れば良いのに、男性は生活そのもの、暮らしを楽しむことをしないような気がする。
暮らしと切り離した趣味に没頭したり、スポーツや、車、登山、などなど、暮らしとは別の、特別なことをしないと面白くないのではないだろうか。
そんな人は暮らしのベース、つまり家事はどうしているのか。
器用にこなす男性もいる。
逆に、不器用な家事嫌いの女性もいる。

わたしに関して言えば、家に一人で居ると、わりとご機嫌だ。
退屈することもあるが、活動日とほぼ日替わり、交替なので、退屈は刺激の下準備、メリハリになる。
たくさんの退屈があってこそ、ほんの少しの刺激がスパイスになって効く。
わたしは、歳を取ったなあと、つくづく思う。(悪い意味ではなく)

去年は、ちょっと刺激があり(趣味分野で、ワタワタした)、そちらに気を取られすぎ、とても大事なことをすっかり忘れて、大変なことになった。
実社会(実業分野)で大ダメージ、被害を被った。
まだ次善策は整っていないが、被害を拡大せず食い止める手はとりあえず打った。
大きな地滑りはストップ状態ではあるが、小さな地滑りは収まらず良い方向には向かってないものの、静観、待機。
今年は打って変わって、落ち着きすぎて退屈。
とは言え、昨年の失敗をまだ修復していない。
マイナスは落ち込んだままで、回復していない。
もっと躍起にならなければいけないのだが、騒ぎもせず、落ち込みもせず、未解決なまま、へんに落ち着き、退屈してしまうほど。
どうなっているのだろう。

さらりとした自分。
余計なものが洗い流された感はあるが、大事なものも、同時に流れ落ちてしまったような気がする。
眠くなりそう。
また復活する日は来るのだろうか。
20年早い感想だ。
だが、静かな自分も嫌いではない。
ひっそり動かない日々を楽しんでいる。






ハナミズキ

2023-04-15 | 暮らし
早いもので、もうハナミズキが咲いている。
蕾を見つけた時、え?何かの間違いでは?気候変動?と、本気で思ってしまった。
時間の経過を掴みきれなくなっている。
そう言えば、桜が散れば次は新芽、新緑の季節。
ダイニング、ガラス越の向こうの紅葉(モミジ)は鬱蒼とするぐらい、もわもわとグリーンが、わっさわっさ。
またまた植木屋さんの手配にアタマを悩まされるのかと、新緑の輝かしさに目を見開いている場合ではない。

ふと思う。
すっかり年老いたら、どこか全く違う場所に身を置くのもよいなあ、と。
日々、動きのある孫の成長も目を離せない時期を過ぎたら。
(ちなみに、一昨日は、3番目孫にぎゃんぎゃんギャン泣きされ、ほとほと、まいった。泣く側も、ものすごいエネルギー)
ばあちゃんの家など、なんの魅力も必要もなくなる時は必ず来る。
子どもは自分の世界が出来る。
10歳の一番上孫なら、、、あと4〜5年か。
2歳半の一番下孫なら、、、あと10年、いや、もっと短いだろう。
本当の意味で、もしばあちゃん家に来るなら、単なる食堂として利用されると想像する。
それはそれで結構なことだ。
そのうち、近寄りもしなくなる。
彼らが成人になって、ごく稀に何か託けられて用事で、物のやり取りがあるかも知れない。
だが、就労し始めると、それどころではない。
寝たり起きたりの老世帯に、生存確認してくれるかも知れない。
見守りAI ペットか人形を設置してくれるかも知れない。
それはそれで心丈夫なことだ。
(放置されて、自分で設置するかも知れないが)

付かず離れず、または、離れっぱなし、、、それがわたしの理想。

寝たり起きたりの一歩手前の時期。
わたしが80代中半ぐらい、つまりあと20年後には、息子もそろそろ帰って来るかも知れない。
息子も定年を迎えるお年頃。
夫は首を長くし過ぎて、ろくろ首になっているか、またはあの世か。
あるいは、わたしがあの世か。

あの世に行く年齢は予想できない。
病気になることもある。
何もないと仮定した、未来図。



サビ抜き寿司

2023-01-20 | 暮らし
わたしの夫は実に可哀想である。
仕事を頑張り、さあオフタイム!!と、くつろぎ時間なのに窮屈な思いをさせられる。

やれ、使わない部屋の電気は使わないなら消せだの、モノを使ったら元に戻せだの、TVを大音量にするな、引き出しは開けたら閉めろだの、言われる。

だが、服は脱ぎっぱなし、荷物は放置しっぱなし、ゴミは分別はしないで出しっ放しほったらかし、、、は、何も言われず放任、自由。

書いていて、なんだか3番目孫(5歳)が母親に怒られているところを連想した。
1番目、2番目はもう小学生なので、そんな注意は卒業している。
が、未だに時々食事マナーを厳しく躾けられている。

そう考えると、夫の私生活は未就学児レベルということになる。
教育を怠った、わたしに責任があるのか。
私生活は未就学児レベルだが、人に危害を加えたり犯罪には手を染めない。
人としての道徳心、常識はある。
それに、ギャンブルをしないから良い。
わたしはギャンブル・アレルギーだ。

と、かばっているのか、けなしているのか、わからない説明になった。

それはそれとして。
TV大好き夫ではあるが、ある意味、TV中毒である。
ではあるものの、(個人的には)ギャンブルよりマシ。(何度も言うようだが)
わたしの身近にこういう人はいないが、
家に不在なのは良いが、いつもギャンブル場に通い詰め、タバコの煙が染み付いた、独特のニオイを発する灰色の服を着た人、、、
ああいった空気感は著しく苦手で敬遠する。
まさにわたしとは水と油の感覚である。

そう思うとTV中毒など、かわいいものである。
電気代しか要らないし。
それに、垂れ流しTVは思考力を奪うので、禅のようなもの。
無になれる。脳を休ませるにはもってこい。
労働の再生産に向けて、心身をリフレッシュしている。
それはアタマではわたしは理解している。
他人のリフレッシュ行動に制限を加えるのはどうかと思う、、、

、、、のではあるが、、、。
わたしは、同じ空間にいる。
しかもずっと共有の家。
わたしのリフレッシュ方法と相反し真逆で、わたしのストレスとなる。
理解ばかりしていたら、わたしが潰れる。
夫の明日の再生産のために、わたしの再生産が出来ない。

ま、そこは、お互い、譲り合って、明るい未来へ、だ、
(急に文章を段落ごと端折った感あり。
もう書くのがめんどくさくなっている。
不毛感あり)

ということで、協力して楽しく暮らしましょう。(無理矢理、結論へ)

と、本当はここからが第二部。
だがしかし、、、
胸の中で思っても書かないのが、最近のわたしの快適ブログ生活。
書いたところで自分をおとしめるだけ。
というか、知られたくない。
しっかり自分の胸に収める。
だから、カラシやワサビを効かさない、サビ抜き回転寿司になっている。
美味しくない。
が、害もない。

これはブログの落とし所としては、わたしの望むところではないのだが。
とりあえずは、今日は今日の風。