蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

サビ抜き寿司

2023-01-20 | 暮らし
わたしの夫は実に可哀想である。
仕事を頑張り、さあオフタイム!!と、くつろぎ時間なのに窮屈な思いをさせられる。

やれ、使わない部屋の電気は使わないなら消せだの、モノを使ったら元に戻せだの、TVを大音量にするな、引き出しは開けたら閉めろだの、言われる。

だが、服は脱ぎっぱなし、荷物は放置しっぱなし、ゴミは分別はしないで出しっ放しほったらかし、、、は、何も言われず放任、自由。

書いていて、なんだか3番目孫(5歳)が母親に怒られているところを連想した。
1番目、2番目はもう小学生なので、そんな注意は卒業している。
が、未だに時々食事マナーを厳しく躾けられている。

そう考えると、夫の私生活は未就学児レベルということになる。
教育を怠った、わたしに責任があるのか。
私生活は未就学児レベルだが、人に危害を加えたり犯罪には手を染めない。
人としての道徳心、常識はある。
それに、ギャンブルをしないから良い。
わたしはギャンブル・アレルギーだ。

と、かばっているのか、けなしているのか、わからない説明になった。

それはそれとして。
TV大好き夫ではあるが、ある意味、TV中毒である。
ではあるものの、(個人的には)ギャンブルよりマシ。(何度も言うようだが)
わたしの身近にこういう人はいないが、
家に不在なのは良いが、いつもギャンブル場に通い詰め、タバコの煙が染み付いた、独特のニオイを発する灰色の服を着た人、、、
ああいった空気感は著しく苦手で敬遠する。
まさにわたしとは水と油の感覚である。

そう思うとTV中毒など、かわいいものである。
電気代しか要らないし。
それに、垂れ流しTVは思考力を奪うので、禅のようなもの。
無になれる。脳を休ませるにはもってこい。
労働の再生産に向けて、心身をリフレッシュしている。
それはアタマではわたしは理解している。
他人のリフレッシュ行動に制限を加えるのはどうかと思う、、、

、、、のではあるが、、、。
わたしは、同じ空間にいる。
しかもずっと共有の家。
わたしのリフレッシュ方法と相反し真逆で、わたしのストレスとなる。
理解ばかりしていたら、わたしが潰れる。
夫の明日の再生産のために、わたしの再生産が出来ない。

ま、そこは、お互い、譲り合って、明るい未来へ、だ、
(急に文章を段落ごと端折った感あり。
もう書くのがめんどくさくなっている。
不毛感あり)

ということで、協力して楽しく暮らしましょう。(無理矢理、結論へ)

と、本当はここからが第二部。
だがしかし、、、
胸の中で思っても書かないのが、最近のわたしの快適ブログ生活。
書いたところで自分をおとしめるだけ。
というか、知られたくない。
しっかり自分の胸に収める。
だから、カラシやワサビを効かさない、サビ抜き回転寿司になっている。
美味しくない。
が、害もない。

これはブログの落とし所としては、わたしの望むところではないのだが。
とりあえずは、今日は今日の風。


地味な暮らし

2023-01-14 | 暮らし
淡々と粛々と、面白くもなんともない日記を書く。

仏教系の色合いのある教えは、わりとすんなりこころに響く。
先入観からではない。
おそらく知らないうちに自然に、身に入っていたのだろう。

仏教は、何もしてくれない。
なぜなら、そのまま、ありのままを受け入れるわけで。
スーパーマンが突然現れて救ってくれるわけではない。
元々、「多くを望むな」というかんじか。

昨夜、40年前に建てられたアパート住民たちの72時間を撮影した番組を観た。
造船業が盛んだった大阪市住之江区。
(あいも変わらずNHKテレビ)
前から見たかった内容。
人は余計な贅肉を削ぎ落とされると、シンプルな生活になる。
断捨離やミニマリストとか、そういう時代の流行りに乗らされたような生き方がもてはやされていると感じる。
いかにも自分で考え選んだかのような錯覚に囚われている場合もあるが、いっそ選択肢がないほうが、なんだか純粋のように感じる。
有無を言わさず。
何十年も同じアパートに住む人々が助け合って暮らしていた。

朝から集会所でお酒を飲む60代男性。
明るい、綺麗な歯をした人だった。
(入れ歯かも知れないが。綺麗すぎる場合は、義歯はよくあること)
九州?だったかの7人?きょうだいの末っ子で中学2年の時に父親を(病気で?)亡くしたそうだ。
酒飲みで博打好きの、どうしようもない父親だったらしい。
お母さん、苦労しただろう。
わたしより歳下の男性なので、わたしは当時高校生か。
わたしは同じ時代を生きているにもかかわらず、全く接点はなかった。
法制度や福祉も同じ時代。
時代が違うからわからない、とは言えない。

そう言ってしまえば、今この瞬間に同じ時間を生きている人とも、接点がない人がほとんど。
時間は同じだが、場所が違う。
あるいは出没時間が少しズレて、平日と休日とで違うだけで、顔を合わせないこともある。
(例:通勤、通学の人々)

時間を問わないインターネットで知るぐらいではあるが、このインターネットはまたクセモノだ。
未成年が悪い大人に引っ掛かって被害者になるかのように、高齢者がこれまた詐欺師に引っ掛かるのも、手段は電話だったりするが、今はスマホも参入しているかも知れない。
自分は大丈夫だと思い込んでいる人ほど、危険性が高いらしい。

インターネットでしっかり知り合うのは、わたしの場合、30年間に2〜4人ぐらいなので、詐欺師から見ると騙す対象人数が少な過ぎて話にならない。
時間と人数の効率が悪すぎる。
しかも、知り合ったのは詐欺師だった経験はなく、皆さん、善良な市民。

それと、不思議なのは、、、
わたしの場合、時代遅れの環境にいたため、昔はお見合い結婚だったが、娘たちは(親や親戚、職場関係者など他者の尽力による)お見合いではなく、自力結婚。
さらに、その相手や背景も似たり寄ったり。
お見合い結婚でもないのに、環境の変化はほぼないところに驚く。
類は友を呼ぶのだろう。
大きな摩擦もなく、無事に行っている。

自力恋愛結婚ではない、ネット見合いの甥も、すんなり行っている。
やはり価値観に共通するものがあり、行動が似ているのか。
派手さは全くなく、地味で堅実なように思う。
そう書くと読む人はなんの刺激も面白味みも興味も得られず、またまた閲覧数が減少するのだろう。
これも自然の成り行き。

ちなみに、またまたお気に入りブロガーさんが薦める本を注文してしまった。
近々配達され、わたしのヒマを潰してくれることだろう。
解脱しそこねた、お若い(わたしの子供世代の)元僧侶の仏教思想も入っていると思われる本。
しかしながら、お薦め本をどんどん買うと、ブロガーさん、儲かってしまいますね。
まあそこは、お賽銭感覚で。(失礼な物言い)
また良書を紹介していただきたいものである。


勝っているのは誰?

2023-01-05 | 暮らし
トランプ。
ゲーム中、先に勝った小学2年の孫が、わたしの背後からカードの出し方をアドバイスしてくれる。
「今、この強いカードから出す!」と。
もう完全に孫に完敗した。
ババ抜きとか、そういうアタマを使わないゲームではなく、カード配分と出し方のタイミングで勝敗が決まる「大富豪」というゲーム。
わたしの若い頃は「大貧民」と呼ばれていたもの。
わたしの時代では無かったものだが、4枚同じ数字を揃って出すと「革命」と呼ばれる、強いカードと弱いカードの価値が逆転するルールや、更に新しいルールとしては、「11」を出された次の人からはカードを11より弱い順に出さなければいけない縛りが加わった。
わたしの時代のルール、娘や娘婿の時代のルール、地方ルールも加わり、面白い。

理解力、記憶力、思考力、即戦力、小学2年の勝ち!!
あっぱれ。
はぁ〜⤵️
喜んでいる場合ではないが。

娘、娘婿、小4男児孫、小2男児孫、わたし、5人で「大富豪」をすると白熱。
保育所年中・女児孫が加わると、(5歳孫は)大富豪が出来ないので「ババ抜き」にチェンジ。
2歳女児孫は最近は、以前ほど激しく邪魔をしなくなった。
いずれ3年も経つと参加することになるだろう。
わたしの勝算順位はどんどん落ちそう。
皆んな、わざと負けてくれるかも知れない。
そう遠くない将来だ。

欲を言えば麻雀が良いのだけど、麻雀は1卓で4人しか出来ないし、幼児では無理だから、やはりトランプが無難。
姑とも子供が小さい頃、夫の実家に行くと
わたしたちは5人でよくトランプをした。
娘もわたしも懐かしいシーンが蘇る。
娘は孫だった当時を、わたしは嫁(母)だった当時を再現している。
姑役をわたしがスライドしてバトンタッチ。娘は当時のわたし(母)役にスライド、当時のわたしの子供たちは今の孫たちに入れ替わる。
姑がいなくなった代わりに孫たちが時間をスライドして順番に一代ずつ時代が移り送られている。

先日見た写真。
寝転んでいる若い舅の頭をぽんぽんと軽く叩いている幼児。
幼児は、夫の姉の子供。舅にとっては初孫。
(その幼児も、成人して家庭を持ち、子供はもう社会人。孫が出来ても不思議ではない歳)

同じ部屋、同じアングルで、寝転んでいるのは、夫。ぽんぽんと叩くのは孫。
そのショットとダブった。
目の前に同じ光景があるが、時代は移っている。
(さらに、ぽんぽんと叩く乳幼児だった孫はトランプ指南までしてくれるようになった)

同じ空間に代が代わり時間だけが移っている。
静かな幸せの光景である。
些細なことにこだわったり、腹を立てたり、ほんとうに小さな小さなことだと感じる。

ほんの僅かな摩擦は生きている証拠。
そうやって毎日ガチャガチャしながら、
過去から現在、未来へと、大事な生命を育んできている。

※写真は伊勢の旧家




小さな暮らし

2022-12-13 | 暮らし
トップ写真。
この柿の木、他の枝には全く柿がなってないのに、この枝の先に集中して何個も付いている。
バランスが実に悪い。
たくさんの実が一極集中して、ぶら下がっている。
通りすがりにスマホでパチリ。
どんな味なんだろう。
自然のなりわいは面白く興味深い。

ちなみに。
1ヶ月5万円で生活出来るか?
あまりアクセクせず、悲壮感漂わせず生活している人もいる。
さて、シミュレーション。
まず食費。
自分が食べるものといえば、ほとんど買わない。
家族用に買う。
余ったり食べなかったりすると、わたしが人間ディスポーザーとなる。
わたしは食品ロスは許さないのだ。
我が家は頂き物がかなり多くを占める。
実際に出費を伴うのは、生協の宅配。
その中には食品だけでなく生活必需品や衣料品も含まれる。
固定費として、電気ガス高熱費、水道代、NHK受信料、インターネット・ケーブルTV費、固定電話代、、、
家の維持費、メンテナンス、固定資産税、自治会費、、、月割で、それらを食費に加算すると、5万円では収まるのか?
更に、お小遣い、ちょろちょろ。
交通費プラスアルファ。かわいいものだけど。
わたし個人分は別枠なんて枠があるとすると、月にいくらで生活するシミュレーションが正確に行えない。

ところで、うちの食器。
買ったものは、ほぼ無い。実家からのもの。
あとは引き出物やお返しなど、昭和の食器。
その他、景品。
ヤマザキ・キャンペーンの白いお皿、ポイントが貯まると何故か応募してしまう。
そして、ふるさと納税のノドグロが載せられて配送されていたお皿。何枚も貯まる渋い焼き物。
さらに色濃いのは、ここ10年近くは、コンビニ景品、キティちゃん、リラクマ、スヌーピー、、、サンリオがズラリ。
(食器だけでなく、タオルもクッションもエコバッグも冷蔵バッグも。ミニオンも鬼滅の刃も。
家族がコンビニ・ヘビーユーザー)
そんな食器が並ぶ。
食器を愛でながら美味を堪能する、、、というテイストとは程遠い。
たまには、自分が食器を買ってみたいものだ。
ごくごく稀に、それこそ例外的に、近所を歩いていて目についた、お漬物用の中ぶり食器を買ったりもする。が、まあ滅多にない。
日常的に、ワイングラスを食器乾燥機から取り出す時に、よく割る。
家族もわりとテーブルで使いながら割る。
1個100円也。良い方は、1個300円。
もっと良いものは、1個?円。

と、自分から買うものはほとんどなく、日常には問題がない。
人間は、お金を使いたい欲求はあると思う。
ストレス解消だったり、スカッとするようだ。
が、わたしにはない。
使いたい欲求より、使いたくない欲求がはるかに勝ってしまい、省エネ実践者、倹約家と化す。
最小限のコストで生きて行くには、小回りが効く。
小さく暮らすと、何かと融通が効く。

FIRE実践者が、目を見張るばかりのゴージャスな生活をしているかというと、地に足が着いている人が多いように。
小さな生活費が見込めると必要経費、必要運用資産が算出される。
小さく暮らせない人にはリスキー過ぎる。

仕事をしないリスクは、経済面だけではない。
膨大な余った時間をどう使うかだ。
年配者が現役を退くのとは少し違う。
若いエネルギー、時間をどう使うかは、キーになる。
わたしぐらいの省エネ者(ものぐさ)になると、物質だけでなく、運動エネルギーまでカットしたくなる。
が、動きがとろくなるのは避けたい。
かといって、無機質なジムで黙々とマシーン相手に頑張れない。
適度な緊張感は必要である。

運動エネルギーが低下すると共に情熱も低下している?
自分を動かす情熱は持ち続けたいものだ。

お金が(さほど)かからなくて、頭脳もハートも体もあたたまる、そんな活動は?
趣味を持つことかなと。
シニア向けTV番組で紹介されていたのは、身近なところでは散歩。
シニア男性なら料理教室参加なんかも良いかも知れない。
(わたしは料理教室はパス。麻雀サークルならオッケー)
まずは家を一歩出るところからスタート。
アクションは、次のアクションに繋がる。
仲間も出来る。
言うことなし。
励まし合いながら、慰め合いながら、老化と闘う。
お若いFIREの皆さんに関しては、各方面で余熱を活用していただきたい。




電子マネーは使いにくい

2022-11-22 | 暮らし
働きたくないとストライキを起こす脳と、働け!という脳が格闘し、だいたいマイナポイントの受け取り方や使い方がわかった。
問題は、わたしはその指定の出口(決済)で、たいしてお金を使わないことだ。
近所のパン屋さんでは1週間に300円ぐらいしか使わない。
全く使わない週もある。
だとすると、1か月1200円、1年で14400円。
付与分20000ポイント使おうと思うと、1年半かかる。
しかも、そのパン屋さん以外の店舗で買いたい場合は、付与ポイントを使い切る期日を迎えるのが更に先延ばしになる。
何年も何年もかかるわけだ。
先に自分で現金でチャージしなければならないかんじだし。
コンビニでチャージできるようだが、なんだかなあ、、、。
チャージも面倒、使うのもあまり予定がない、そんな電子ポイント、、、
(チャージしなくても銀行口座から引き落とされるやり方もあるようだが、既にクレジット引き落としに設定している。
さらに、、、また追加、、、なんて、、、イヤ)

銀行や金融機関を経由してワールドプレゼントポイントに換えるというのもあるようだが。
これまた、またワールドポイントか、、、と食傷気味。
現金ではなく、何かに支払うマネーとなっている。
使わなければ、なんの意味もない電子マネー。
モノ、コト、サービス、運賃、交通費、などなど。
唯一、支払いではない使い方をしたければ、人に電子マネーをギフトとしてプレゼントするぐらいか?
人件費として使いたい。
昭和人間は、なんだか疲れる。
気長に近所のパン屋さんに通い、コツコツ使うしかないのか。
(コツコツ貯めるのではなく使うのが、人生計画、生い先短いパターン)
PayPayのQRコードが目に入ると、旅先のお土産物屋さんなどでもサプライズ的に使えることがある。
スーパーの一角のソフトクリーム屋さんで使えたりもする。
処方された薬を受け取る院外薬局で使えることもある。
もともとPayPayは、わたしはクレジット決済にしているのではあるが、チャージ式ではなく使わなければ減らないというものではない。
他の支払いは別のクレジットを優先しているため、PayPayの出番はかなり少ない。
楽天Edyを選択することも出来たが、申請当時はPayPayのほうがまだ身近だったこともあり、PayPayにした。
のではあるが、まだ半年も経っていないのだが、申請時点から行動パターンが変わったのでPayPayの出番がなくなった。

とかなんとか、、、そういうわけで、
国の恩恵を受ける実感はあまりない。
地域商品券(紙)のほうがまだわかりやすい。

マイナンバーカードを作っていない人、マイナポイントに興味のない方、、、
その方々にとっては、全くどうでもよい面白くない、なんの興味もない話題が延々と続いたわけだが、、、
別の話題はまた、別記事で。

もう、うんざり??
まあそう言わず、、、



お盆。こころの対話

2022-08-13 | 暮らし
お盆。
何度目になるだろう。
お盆の仏さんたちへのお給仕(お供え)、伝統メニューがある。
お迎え団子から始まって三食おやつ付き。
御膳、器、全て、江戸時代のからの朱塗り(漆塗り)もので、決まっている。
のではあるが、、、
プツンと糸が切れたように、伝統メニューを2018年を最後に、それから用意していない。
2019年は定められた器は使ったものの、メニューは手抜き。
2021年は初盆で大変だった。
振り回されていた時代、時期がウソのよう。
こんなに、いとも簡単に伝統行事をパタンと中断してしまってもよいのだろうか。

今は、、、よい、、、と思っている。
また復活する日も来るかも知れない。
司令塔は、わたし。総指揮官は、わたし。
誰も口出しする人も、文句を言う人もいない。
ある日、頂点、トップの座に躍り出た。
なんの策も練らず、たんなるトコロテン方式。
なんと気持ちの良いことか。
見える景色は周りには何もない。
高い聳え立つ山の頂上に立ち、見えるのは雲か霞。
残念ながら、人の姿はない。
モンゴルの偉いお坊さんになったような気分。
権力闘争や跡目争いもない。
誰もこんなポジション、望まないし、人気もないし、実効性や実用性もないし、権力そのものもない。
美味しいウマミはゼロ。
こんな魅力のないポジションはない。
が、眼の上のタンコブがない、素晴らしい絶景。
この絶景に、山から落っこちても、誰にも影響はないだろう。
ただし、援助隊、救助隊も気づかない。

ババ抜き(トランプのゲーム)のババ、今度は誰が持つ?
ハンカチ落としのハンカチ、誰の後ろに落とされる?

こんな思いで、長年わたしがいたことを誰が知っているだろう?
じつにけしからん思いである。
が、わたしは宗教に振り回されてきた。
重い、深い、弾圧とはまた全く違う、、、ある意味、信仰の強制。
今、話題の宗教二世とはまた別もの。
全く意味合いが異なるのではあるが、微妙に共通点もある。

それは嫁ぎ先の宗教に染まらなければならないこと。
嫁ぎ先の先祖を敬わなければならない。
見たことも聞いたこともない、実質的アカの他人の皆皆様に、延々と祈りを捧げなければならない。
それは、「女偏(へん)に家」と書いて「嫁」と読む。
字の如く。そのまんま。
宗教行事は絶対的力を持つ。
それを執り行うことは、スゴイことなのだ。
伊勢神宮や平安神宮の宮司さんのようなもの?(ちょっと違うか、明らかに違うな、、、)

なにしろ、全エネルギーと知恵と労力と時間とお金をかけて、義務を遂行しなければならない。
宗派が違っても。信仰する神様が違っても。
旧統一教会などは、結婚までさせられるのだから、驚きを通り越して、完全に意味不明の洗脳をさせられる。
そこまで顕著なわかりやすい過激なことはないが、カテゴリー分けすると、宗教グループに属する。

洗脳されきっていない、中途半端な脳で、冠婚葬祭を執り行う。
麻酔をせずに外科手術を受けるようなものだ。
わたしは、かなり苦しんできた。

最初の頃は、はいはい、と素直に従い、なんとも思わなかったが、次第に眠っていた自分の考えが段々現れてきた。
葛藤。
だが、わたしも日本人に多い、やんわり仏教。
三々九度の盃をウエディングドレスで行う。
神式で、チャペルではなかったが、どっちでもたいして変わりない。
神聖なクリスマスイブはターキーでお祝い?!(意味もわからず、イメージ戦略に毒されている)

呪縛が解けた。


ある次男さん、Aさんのお宅。
墓地を買ったらしいが墓石はまだ。
その墓に眠る予定の人々もまだ元気で、亡くなった人はだれもいない。
だが、子供に後々の負担を押し付けることになってしまい、悪いことをした、と後悔されている。
誰もいない墓。
これからも守る人もいない墓。
これは、墓なのか?
樹木墓にしたらよかったかな、と仰る次男さん、Aさん。
この場合、宗教は?
先祖を祀るのは長男の役目。
たまたま長男に生まれたから、その先祖祀りの役割が回ってきた。
たまたま回避できた人もいる。

そう考えると(どう考える?)
たまたま長男と結婚したわたし。
信仰もしていない祀りごとの係を押し付けられている。
が、先輩嫁である姑たちがやっていた。
さあ、自分の番。
いきなり手を離す。
バトンは、谷底へコロコロ落下。

今は次世代の嫁もいない。
婿なら素晴らしい人々が2人もいる。
が、バトンは渡さない。渡せない。
バトンは谷底へ。

息子はやがて谷底からバトンを拾ってくる日が来るのだろうか。
バトンを谷底に捨てたのは、わたしだけの責任ではない。
渡す相手が不在なのだ。

宗教心の押しつけ、祀りの義務、
夫のため、世間体のために渋々やっている。
樹木葬も商品化される時代。
次男さんなら飛び付ける。
重いものが、どしんと乗っかった長男の嫁は、なかなか一気に思い切った行動はできない。
で、またまた形骸化された行事を行うことになる。

しかし、、、
アタマの古いカチカチの親戚の中から、少しずつ古いしきたりを踏襲しない人が出始めた。
やったーーーっ!!
わたしは両手を挙げて大喜び。
夫はじつに残念そう。
あんなに大切にしていた絆、付き合いが疎かにされるなんて、と。
別に軽んじられているわけではない。
価値観の推移。
時代の波である。
自分の考え方を他の全員も同じようにしているのではないことを、皆さんの行動を通して徐々に知り始めた夫。

わたしは、徹底して、嫌われる勇気を駆使しまくった。
親戚一同、わたしのことは白い目で見ていることだろう。
いいの、いいの。
わたしの余生はわたしのもの。
親戚の皆さんのものではない。

仕事関係、友人関係で、年賀状のやり取りを辞退する人、
お葬式は家族葬にして日時を知らせてこない人、
法事を事後報告にする人、
もういろいろ出始めている。
少しずつ行動も変わり始めている。

自分がやりたければ、やればいい。
否定は全くしない。
だが、他者を巻き込むのは勘弁してほしい。

とかなんとか、既成事実として、古くからの家があるのでどうしようもない。
出来ることはする。
壊すことはしない。
今やっていることを最低限に縮小して、谷底に捨てるものと、小さい箱に入れる物を識別しておく。
大きなものは受け入れがたくても、小さなものなら、細い強いピアノ線のようなものなら、継承出来るのではないかと思う。
マインドの継承。
だが、強制や洗脳であってはならない。
人や自分を大切にする気持ちは、代々受け継がれてきた。

お盆。
仏前で自然に手を合わせると涙が流れた。
姑に対する感謝の気持ちが湧き出た。
これは宗教ではない。
人として、自然な流れを汲んだ気持ちだ。


自分と向き合う

2022-07-20 | 暮らし
わたしは、気に入らないことがあると、自分のブログに吐き出す。
と同時に、なぜそのような負の感情を引き起こしたのか、原因を探り検証してみる。
さらに、どうすれば、マイナス不快感情が和らぐか、考える。
検証している途中あたりで、めんどくさくなるか、眠くなるかで、忘れることもある。
他にすべき用事があると、それどころではなくなる。
大概は、時間が経つと消える。

この逆に、どうしても思い出せない人名、単語など、必死で思い出そうとするが、思い出せなくてイライラする。
あ行から、あいうえお、と順番に、か行、さ行、た行、な行と次々、言葉の初め部分を当てはめてみる。
あかさたな、はまやらわ、ん、、、まで来ても思い当たらないと、また最初から、あかさたな、、、と、再トライ。
すると、あかさたな方式の検索結果ではなく、突然頭に浮かぶ。
つまり、ある程度の時間が経過すると思い出す、ということだ。
これは面白い。
わたしの脳の回路が暖まるにはある程度の時間がかかる。
オイルヒーターのようだ。

つまり、、、
忘れたい嫌な感情も、思い出したい単語も、
時間が経過すると自然に自分が望んでいる方向に導き出される。

もちろん、この逆もある。
いつまで経っても忘れられない嫌な感情や、いつまで経っても思い出せない単語もある。
それはそれ。

これとは反対に、
いつまで経っても忘れられないプラスの感情、出来事や、いつまで経っても思い出せない大事なこともある。
あるいは、普段は無意識で何も思わないのに、何かが誘因となって、急に突然、思い出し蘇る気持ちもある。
こころの中に仕舞い込んでいるもの。

中には、わざと努力して鍵をかけて無理やり仕舞い込んでいるものもある。
トラウマの原因になったりする。
楽しい思いは、鍵をかけなくても、いつ思い出してもまた楽しくなってくる。

理由や状況はハッキリ覚えてなくても、感情だけが脳に焼き付くことがある。
プラス感情の場合もマイナス感情の場合も。
認知症になるとこれが顕著に現れることがある。

自分の脳の傾向を知るとよい。
くよくよ、いつまでも引きずるタイプか、あっけらかんとしたタイプか。
今更、長年の付き合いである自分の脳を改善、改造は出来ない。
なので、自分をよく知り、自分で理解しコントロールする。
そのコントロール法が、時間にまかせ、自然にまかせること。
ただし、これは、仕事には適していない。
そんなことをしていたら、仕事にならない。
業務に差し障る。
いかに的確な処理、処置、判断、決断をするかがキー。
素早い適切な対応が望まれる。

わたしの脳傾向は仕事に適していない、真逆。
リタイアした自分に、もうそんな能力や行動、責任は求められないのだと思うと胸を撫で下ろす。
仕事バリバリだった人は、逆にそんな張り合いのない生活は生き甲斐を失うことだろう。
魂が抜けた、どんより腐った目をしているかのごとく。
わたしは、全然そんな風には感じず、じつに楽しく何事もない毎日を平穏無事に生きている。
つつがないことこそ、喜び。
人によるのだろうか。個性の違いか。
年齢、置かれている状況、生活内容にもよるのだろう。

ちなみに、
宗教によって洗脳され、家庭が崩壊、家族を苦しめることがある。
本人は悪いことをしているとは思っていない。
家族は地獄の苦しみである。
そもそも何もなく平和に楽しく生活している人には、宗教を強くすがりつくほど頼りにはしない。
不幸がある人が、その隙を埋めようとして深みにハマる。
例えば、安倍さん事件の犯人の母。
幼い子供たちを残し夫が自死したとか。
同情の余地はある。
みるみるうちにハマっていき、自分で考える力を奪われていく。
子供がこんな事件を起こした今でさえ、まだ洗脳は解けていないようだ。
本人も家族も、安倍さんの遺族も、日本中の全員を不幸にする。
誰が救われるというのか。
自分以外の人を全員不幸にして、母親本人は救われたのか。

人の気持ちは恐ろしい。
狂気は凶器となる。

お気楽

2022-06-12 | 暮らし
なんだかお疲れ気味。
楽しい行事、スケジュール目白押しなのに。
体調は管理できても、気分はなかなか言うことを聞いてくれない。
難儀。
こんなに自分の感情をコントロールする努力をしているのに。
わたしは天然だから、プラスもマイナスも自然体なのか、、、

今、気になっているタスクが2つあって、ずしんと頭に重く乗っている。
はやくクリアしないと、憂鬱気分が続くではないか。
本格的に梅雨入りするまでにどうにかしないと。

と言いつつ、子供たち一家や、夫は、病気にもならず、毎日、仕事や学校、保育所に通い、心身健康で有り難く幸せである。
朝はわたしの気分がほんの少し下がったが、それはブログの書き始めの時だけで、すぐ回復した。
ああ、良かった。

昨日、今日と2部制スケジュール構成で、楽しい時間を過ごした。
アドレナリン出っ放しである。

ちなみに、最近、他のgooユーザーさんのブログを読むことがある。
アピールチャンスで自薦、紹介されているブログ記事で、なんとなく興味を引かれた記事を読む。

今朝、読んだブログは、わたしと同世代の男性ブロガーさんが書く、ご夫婦と、長男さん一家(夫婦+子供二人)と、次男さん一家(夫婦+子供は二人)で、親御さんが入所している施設にお見舞いに行く話だとか、GWに、交代で息子さん一家が実家に帰省して泊まる話などが書かれていた。
ここで、キーとなるのは、ブロガーさんは、男性ということ。
微笑ましい話だったが、息子一家のお泊まりはかなりデリケートで、奥さんたち(自分の妻と息子の妻。嫁姑の関係)はとても疲れる。
そのあたり、じいちゃんは気楽でいいなあと思った。
妻たちは、お泊まりなどとは、、、めちゃくちゃバテていると想像する。
おそらく、奥さんの心情を推測る息子さんであれば、気が気ではないと思う。

そういうことに無頓着、無神経な男性はお気楽でいいなあ、と。
女性間の感覚を理解できないと思う。
自分のケースに置き換えて感情移入すると、むしろ腹立たしくなってくる。

我が家の場合、次女の夫(娘婿A)がうちに泊まるのも、お互い気を使うので、娘婿Aは泊まらないで帰宅する。
(バス、徒歩を挟み、電車で2駅離れた場所)
土曜日の夕方に集まった場合、夜、娘婿Aを解放してあげると、日曜日、彼は一人でゆっくりできる。
日頃、子育てに追われる次女夫婦、一人の時間を作ってあげる次女の娘婿Aに対する気遣いでもあるようだ。
そして何よりもわたしも喜ぶ。

長女は、夫(娘婿B)の実家(新幹線利用)に泊まる時は最低限の日数にして、あとは旅館に泊まったりしている。
旅行気分であるが、長女も娘婿Bも、娘婿のご両親も、ほっとしている。
全員ウィンウィン。
(ただし、かなり遠方に住んでいる娘婿Aの実家の場合は、生まれてまだ1年未満の子供と滅多に会えないこともあり、泊まる)

男性は本当にそのあたり、気がつかないようだ。うとい。
何の問題もなく楽しそうなブログ内容に、奥さんたちの気遣いや気疲れをわたしは一人で感じている。
男性のブログはそのあたりがどうも、複雑、わたしの神経に微妙に刺さる。
中には、丸く収める人もいるだろうけれど。


そこへもってくると、、、
同じ実家でも、実家の実家であれば、生活していない上に家族の歴史が積み重ねられているので、ほどよい距離感が保てるため、各家族、全員集合でお泊まりになっても、快適な時間が過ごせる。
過去の思い出も詰まり、また、今、思い出を作り、それぞれ一人一人が未来への思い出を紡ぐ。






お友達はテレビ

2022-06-09 | 暮らし
珍しくブログ村エッセイの注目記事に、AIが選んでくれた。ランクイン。
人気ブロガーさんが、しばらく更新しないと、ベスト10内にポストが空くようだ。
あまり意味がない注目記事なのだが、想像するには、記事内の言語が、巷の検索ワードに複数ヒットすることもあるのだろう。

だがしかし女史(わたしの娘世代)ブロガーさん、今、ちょっと忙しいのかな。
彼女のブログ、強烈(な時もあり)面白いんだけど。
同じ、わたしの娘世代でも、全然違うところが実に刺激的。
部分的に同じところもあるが、どうも違う。
そりゃあそうだ。
赤の他人だから。

話はころっと変わるが、昨夜、TVの深夜番組を観た。
タワマン最上階に住んでいるのはどんな人?という、森三中の一人がレポート。
マンションやクルマの所有品の話の中で、数億円だとか、数千万円だとかの金額がぽんぽん出てきた。
35歳の息子さんがいる、60歳ちょっとぐらいの男性だったが、奥さんは29歳のべっぴんさん。
息子さんの奥さんは32歳?だったか、、、それより若い。
まるで、奥さんまで、億の付く所持品の一環のような印象を受けた。

もっと違う側面からアプローチも出来ると思うが、番組の意図としては、あういうテイストになるのだろう。
MCの俳優やお笑いタレント(漫才コンビ)は、反応やコメントをしていたが、番組制作上の流れを意識してのものだと思われる。
羨ましいと思う人も中にはいるかも知れないが、おそらく冷ややかな目なのではなかろうか。
ある意味、取材を受けて、かわいそうな気がした。
空洞、中身のない贅沢、、、実質を伴わないものだった。
別の日常があるはずなのに、番組上、ああなってしまったのだろう。
わたしの目には、軽くて薄っぺらで冷たく映った。
どこがいいの?
そう感じるのは、年齢の違いか?
いや、旦那さんはわたしと同世代だ。
価値観の違い、嗜好の違いが、あそこまでハッキリしているのは、むしろ潔いかも知れない。
番組としては、まあ成立。
ただし、深夜枠なのが気になる。
MCの俳優が、最後にちょこっと、こう言った。
「若い時から叩き上げで頑張ってくると、こうなるんだろうね」


最近はTV人気も低下している。
インターネット番組や、YouTubeなど、自分から探して近づいて行くものに吸引力があると感じる。
TV局が視聴者受けを狙って制作しても、スカスカの手ごたえではないだろうか。
そもそもTVを見ている人、層って???

とかなんとか、わたしは毎日、TVを19時から観る。
NHK専科。デイリーニュースがメイン。
番組が新編成され、興味を失ったものもある。
ニュースは、スマホ(インターネット)でも随時、リアルタイムに近い時間に飛び込んで来る。

世の中の提案と、わたしのニーズが一致しないことがある。
ニーズを満たすには、自分仕様でオリジナルに動くしかないが、世に出ている商品や提案をアクセント的に受け入れて楽しむのも良いと思う。

高齢の人々はこれから増える一方。
家の中で、じっとTVを観て日々過ごすのは、個人の性格、体力、環境、嗜好による。
寝たきりゼロを目指すために、政府は色々呼びかけ啓蒙している。
時間はあっても、お金がナイ、、、
健康面が不安、、、そういう人々、、、
時間がない高齢の人はあまりいないと思う。
一般的に、余りある時間をいかにして使うか、、、
色々である。

(あれこれ、書こうとしたが、話が広がりすぎて纏めるのに時間が足りない、気力がもたないので、このまま放置する)

外に出てみるのがオススメ。
いろんな発見、刺激の元がごろごろ。
ただし、あまりにも場違いな場所に身を置くのは居心地が悪い。





ウズウズとの闘い

2022-05-26 | 暮らし
上に上があり、下には下がある。
自分はどうしたいか?

向上したい?
現状維持?
下がらないように時々、チェック?
ひゅ〜んと下がる?
スクラップandビルド?
(一旦壊して一から再生?)

成長期ではないので、今の林住期ならではの答えがある。
ひとつには、自然法則として(学校で理科の授業で学習する)、生まれてから亡くなるまで、生物は成長衰退の放物線を描く。
理系、生物の法則とは別に、人としての内面、行動面での生き方を模索する。

わたしは社会的な面から見ると、幸せな過去、生い立ち、環境である。
精神的にもそう。
これからも続くと予想する。
そう言ってしまえば、ブログは一瞬で終わる。

ブログにも色々。
餃子食べ歩きブログを書く人、読む人にとっては、わたしのブログなど、一瞥の興味も接点もない。
当たり前。
わたしは気分次第でたまたま餃子ブログを読むと、美味しい餃子を食べたような気にはなった。
興味がないわけでも、嫌いなわけでもない。

人には好き嫌いがお互いにあって当然。
ない方が怖い。
だから、何?
いえ、べつに、、、

優越感も劣等感も、能力や環境、置かれている立場から生まれる。
客観的な指標のようなものも政府が示したりすることもある。
世間では普通、並。
それに比べると自分は、、、
となるが、政府の数字から一喜一憂するのではなく、自分の毎日があまりにも辛いとか、味気ないとか、虚しいとか、マイナス感情に苛まれた時に、公表されたデータなどで、自分の状況の答え合わせをする。
プラスの状況の時は、あまり世の中の動きは気にならないのではないのではないだろうか。
楽しい時間を満喫することに貪欲で、他の人はどうなんだろう?などと、どうでもよいのでは。
で、、、だから?
いえ、べつに、、、

歯切れが悪い。
入れ歯のせいか?(嘘です。入れ歯してません)

長々と何が言いたい?
今、わたしは浮かれている。
有頂天になっている。
自慢したくてウズウズしている。
だが、、、わざわざ人に言いたい自分を抑えたい自分がいる。
厄介です。ウズウズちゃん。
ウッ(鬱)ちゃんより、マシ。

そもそも、わたしはウッちゃんとは無縁。
こころが、強い。
ナイーブ、繊細ではない、無神経、デリカシー不足。
しかし、もっともっとこころが強い人々もいる。
人の気持ちを解さない、寄り添わない。
人に全く沿わない。
そんな人にはウッちゃんは近寄りもしないだろうが、そのかわりに周りの人にウッちゃんは、やってくる。
大変。

わたしはウッちゃんとは仲良しではないが、無気力くんが巣食っている。
ウッちゃんとの違いは、内向的、消極的なくせに、いたって明るい。
悲しい時もあるが、定着しない。
気分屋なので、突然、ウッちゃんがやって来ても不思議ではないのだが、ウッちゃんとはソリが合わない。
おそらく、生まれつきのものだろう。
健康な身体と、強い精神を持っているようだ。
それは親に感謝しなければならない。
ありがとね。こんな風に産んでくれて。

さて。
今日は、自慢ウズウズちゃんとの対決で、ウズウズちゃんは、コーヒーブレイク休憩のよう。
ああよかった。
自慢しなくて。
その瞬間は発散出来ても、後で気分が悪くなる、難儀な性格のわたし。
文字に表さず、脳内だけで、ウズウズちゃんと戯れよう。