秋はなんだかセンチになる。
じゅうぶん幸せなのに。
この幸せを維持できたら、もっと幸せ。
でも、心のどこかで隙間風が吹く。
なぜだろう?
満ち足り過ぎるのも、幸せではないのかも知れない。
少し足りないぐらいが、ちょうど良い。
あと少し、あれがああなったら、、、これがこうなったら、、、
そう願うぐらいが幸せなんだろう。
祖母が晩年、よく言っていた。
「幸せ過ぎて、はやく(あの世から)お迎えに来てほしい」と。
わたしはその頃は、まだ23歳ぐらい。
わたしは、若過ぎて、祖母がなぜ、人にこんな嫌な気になるようなことを言うのか、理解できなかった。
独りで住んでいた祖母が、祖母の長男(わたしの父)一家と同居した(引き取った)のは祖母が88歳の時。
当時、わたしは22歳。
最初、祖母は3食上げ膳下げ膳で食事が出来る幸せを大変喜んでいた。
しかし、なにもしなくてよい境遇に、徐々に、生きがいを見失い始めた。
その後、6年後に祖母は、この世を去った。大往生である。(当時としては)
わたしが嫁いで2年目の時だった。
お葬式には、生後7ヶ月の長女と列席した。
親戚の女性が、涙ながらに、大往生を讃えていた。
そもそも、わたしは最近でこそ、人間らしい暖かい感情、人情が芽生えてきたものの、子供の頃もそうだが、30年前はあまり感情がなかった。
身内が亡くなっても、割と平気だった。
なぜなら、歳を重ねると人は自然の摂理であの世に行く、と思っていたからである。
いくら、願っても、肉体は時が来れば消滅するものだと考えていた。
もっと長生きして欲しい、などとは考えず、その人、その人の亡くなる旬を迎えたのだと感じていた。
幸い、若くして亡くなった身内や親戚はいないので、皆さん、天寿を全うされたと思う。
たとえ病気が原因でも、80年近く生きたなら、それで十分だろうと思っていた。
それが父であっても、例外ではない。
むしろ、いつまで生きるんだろう?と、ある年齢を超えると不思議な気さえしていた。
こころが、冷たいのだろうか。
どこか、感情が欠落しているのだろう。
父が亡くなった時は、わたしは実家を出て16年ほど経っていた。
父とは住まいを別にして離れ離れで16年も経つと、父の存在を身近に感じることはなく、亡くなっても、しばらく何年も実感が湧かなかった。
父がもうこの世にいないことがピンと来ない、昼行灯アタマのわたしだった。
だから、別に悲しみに襲われることもなく、いたって普通だった。
今になって思うのは、父は、うまく旬の頃にこの世を去った、上手な散り際だったと感心している。
わたしも、ああなれるだろうか。
わたしは、父の遺伝子を色濃く受け継いでいると昔は思っていたが、どうもそれは、たんなるわたしの願望だったのではないかと思ったりする。
わたしは、自分が最も似て欲しくない母に、似ているような気がする。
同性だからかも知れないが、変に楽天家なところや、脳みその弱さがどうも、似通っていそうで恐ろしい。
理知的で優秀な父に似て欲しかった。
思うようには、いかないものである。
と、話は大いに脱線。
祖母の幸せ病から、話が飛んだ。
わたしも幸せ病にかかりかけていた。
一時間前の出来事、過去形である。
ブログにあれこれ、寂しさを紛らわせるために書いていると、気持ちが落ち着く。
やはり、書くことは、わたしを救ってくれる。
母も2〜3年前ぐらいはノートにびっしり書いていたが、最近はほとんど書かなくなった。
でも、少しは書いている。
わたしも書かなくなる日がやがて来るだろう。
それはそれで、また別の幸せの訪れだと思う。
じゅうぶん幸せなのに。
この幸せを維持できたら、もっと幸せ。
でも、心のどこかで隙間風が吹く。
なぜだろう?
満ち足り過ぎるのも、幸せではないのかも知れない。
少し足りないぐらいが、ちょうど良い。
あと少し、あれがああなったら、、、これがこうなったら、、、
そう願うぐらいが幸せなんだろう。
祖母が晩年、よく言っていた。
「幸せ過ぎて、はやく(あの世から)お迎えに来てほしい」と。
わたしはその頃は、まだ23歳ぐらい。
わたしは、若過ぎて、祖母がなぜ、人にこんな嫌な気になるようなことを言うのか、理解できなかった。
独りで住んでいた祖母が、祖母の長男(わたしの父)一家と同居した(引き取った)のは祖母が88歳の時。
当時、わたしは22歳。
最初、祖母は3食上げ膳下げ膳で食事が出来る幸せを大変喜んでいた。
しかし、なにもしなくてよい境遇に、徐々に、生きがいを見失い始めた。
その後、6年後に祖母は、この世を去った。大往生である。(当時としては)
わたしが嫁いで2年目の時だった。
お葬式には、生後7ヶ月の長女と列席した。
親戚の女性が、涙ながらに、大往生を讃えていた。
そもそも、わたしは最近でこそ、人間らしい暖かい感情、人情が芽生えてきたものの、子供の頃もそうだが、30年前はあまり感情がなかった。
身内が亡くなっても、割と平気だった。
なぜなら、歳を重ねると人は自然の摂理であの世に行く、と思っていたからである。
いくら、願っても、肉体は時が来れば消滅するものだと考えていた。
もっと長生きして欲しい、などとは考えず、その人、その人の亡くなる旬を迎えたのだと感じていた。
幸い、若くして亡くなった身内や親戚はいないので、皆さん、天寿を全うされたと思う。
たとえ病気が原因でも、80年近く生きたなら、それで十分だろうと思っていた。
それが父であっても、例外ではない。
むしろ、いつまで生きるんだろう?と、ある年齢を超えると不思議な気さえしていた。
こころが、冷たいのだろうか。
どこか、感情が欠落しているのだろう。
父が亡くなった時は、わたしは実家を出て16年ほど経っていた。
父とは住まいを別にして離れ離れで16年も経つと、父の存在を身近に感じることはなく、亡くなっても、しばらく何年も実感が湧かなかった。
父がもうこの世にいないことがピンと来ない、昼行灯アタマのわたしだった。
だから、別に悲しみに襲われることもなく、いたって普通だった。
今になって思うのは、父は、うまく旬の頃にこの世を去った、上手な散り際だったと感心している。
わたしも、ああなれるだろうか。
わたしは、父の遺伝子を色濃く受け継いでいると昔は思っていたが、どうもそれは、たんなるわたしの願望だったのではないかと思ったりする。
わたしは、自分が最も似て欲しくない母に、似ているような気がする。
同性だからかも知れないが、変に楽天家なところや、脳みその弱さがどうも、似通っていそうで恐ろしい。
理知的で優秀な父に似て欲しかった。
思うようには、いかないものである。
と、話は大いに脱線。
祖母の幸せ病から、話が飛んだ。
わたしも幸せ病にかかりかけていた。
一時間前の出来事、過去形である。
ブログにあれこれ、寂しさを紛らわせるために書いていると、気持ちが落ち着く。
やはり、書くことは、わたしを救ってくれる。
母も2〜3年前ぐらいはノートにびっしり書いていたが、最近はほとんど書かなくなった。
でも、少しは書いている。
わたしも書かなくなる日がやがて来るだろう。
それはそれで、また別の幸せの訪れだと思う。